75


「こ、こんにちは。藤堂さん、いらっしゃいますか?」

町外れにある薬屋へ辿り着いた頃には、空はいよいよ灰色に染まっていた。
引き戸を開けると、乾燥した薬草独特の香りが鼻先をくすぐる。少し息を弾ませながら声をかけると、帳場の奥から丸眼鏡をずらした店主の藤堂さんが、人の良さそうな笑みを浮かべて顔を出した。

「おや、蝶屋敷のリサさんじゃないか。こんな空模様の中、ご苦労さまだね。アオイちゃんは元気にしてるかい?」
「こんにちは。はい、今日はそのアオイさんに頼まれて、薬草の補填に来たんです」

息を整えながら、懐から取り出したお買い物メモを差し出す。
藤堂さんは「どれどれ」と受け取り、慣れた手つきで奥の薬棚から引き出しを開け、紙包みを取り出し始めた。
ここ、藤堂さんの薬屋には、蝶屋敷に身を寄せてから何度も足を運んでいる。
しのぶさんやアオイさんの厳しい目利きに適う上質な薬草を揃えているのは、この町広しといえど、このお店くらいなのだ。
調合の待ち時間には、藤堂さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、何気ない世間話を交わすのがいつもの流れだった。
そういえば、一度だけ冨岡さんと一緒にこの店を訪れたこともある。あの時は、暴漢から彼が私を助けてくれて、一緒に薬屋まで着いてきてくれたのだった。そんな記憶が、ふと頭をよぎる。

「ほう、今回はこの薬草かい。最近はまた少し、物騒な噂も聞くからねえ。怪我人が増えているのかい?」
「そう、ですね……」

棚の奥を見つめる藤堂さんの背中に、私は曖昧な笑みを返した。
蝶屋敷が鬼と戦って傷ついた隊士たちを治療する場所だとは、彼は知らない。
以前アオイさんも、この手の薬草を何に使うのか尋ねられて、うまく言葉を濁していたことがあった。別に鬼殺隊の存在を隠す掟があるわけではないのだろうけれど、鬼の存在を知らない普通の人に打ち明けたところで、余計な恐怖や混乱を招くだけなのだ。

「感心だねぇ。アオイちゃんは本当にあそこの屋敷を支えている立派な看板娘だ。あんなに若いのに、頭が下がるよ」
「はい。本当にそう思います」

心からの実感を込めて頷くと、藤堂さんは手際よく包み終えた薬草の束を紐で縛り、さらに脇から小さな小袋をもう一つ添えて差し出してくれた。

「そうそう、これを少し持っていきな。身体を芯から温める煎じ薬だよ。みんなで飲んでおくれ」
「わあ、いいんですか!ありがとうございます。しのぶさんは今、少し遠出をされているんですけど、帰ってきたらきっと喜びます」

今夜、しのぶさんが任務から無事に戻ってきたら、温かいお湯で淹れて真っ先に出してあげよう。最近ずっと忙しそうだから、少しでも疲れを癒してほしい。
そんなことを思いながら、格子窓の外へふと視線を向けると、空はますます不穏な暗がりを深めていた。

「随分と急いで来たみたいだけど、何かあったのかい?」
「あ、いえ。買い出しにちょっと忘れ物があって戻ってきたんですけど。雨が降りそうだなと思っ………て」

言い終わるか終わらないかのうちに、乾いた土を叩く無数の水音が外から響き始めた。ざあっと、白く煙るような勢いで視界が霞んでいく。

「あ……」

あっという間に地面は黒く染まり、ひさしから雨水が激しく落ち始めた。

「通り雨だが、これはすぐに止むような雨じゃなさそうだね。リサさん、傘は持っているかい?」
「いえ……持ってないです」

手元の薬の包みを見つめながら、小さく息を呑んだ。
急いで買いに戻ってきたのが、完全に裏目に出てしまった。空がどんよりと曇り、今にも泣き出しそうだったのは山道にいた時から分かっていたはずなのに。
こんな姿をまた冨岡さんに見られたら、「不用心だ」「警戒心が足りない」などと小言を言われてしまうに違いない。けれど、小言くらいならまだいい。問題は、どうやって屋敷へ戻るかだ。
このまま雨宿りで足止めを食らっていれば、あっという間に日が暮れて夜になってしまう。そうなれば、日没までに戻るという屋敷の規律を破ることになるし、何よりアオイさんたちに余計な心配をかけてしまう。

「傘を貸してやりたいんだが、生憎さっきの客に最後の一本を貸してしまってねぇ」
「あ、いえ!そんな、お気になさらないでください」

慌てて首を横に振るものの、目線は自然と激しく打ちつける雨へ向かう。
――走る?薬の包みを懐へきつく押し込んで駆け抜ければ、びしょ濡れにはなるけれど戻れなくはない。
けれど、視界を塞ぐほどの雨脚を前にすると、一歩を踏み出す勇気がどうしても出なかった。立ち尽くして逡巡している私を見て、藤堂さんが困ったように眉を下げ、奥の丸椅子を引いてくれた。

「せっかく立ち寄ってくれたんだ。雨脚が少し落ち着くまで、ゆっくりしていきなさい」
「えっ、でも……」
「こんな土砂降りの中を無理に走って、君が風邪でも引いたらそれこそアオイちゃんに叱られてしまいそうだ」

藤堂さんの穏やかな声音に、張り詰めていた肩の力がふっと抜けた。
…それもそうだ。びしょ濡れで帰って熱でも出したら、アオイさんに薬を届けるどころか、余計に手間と心配をかけてしまう。夏の終わりにも、似たようなことがあったばかりだ。

「……すみません。お言葉に甘えさせていただきます」

勧められた木製の椅子に腰掛けると、藤堂さんは「すぐにお茶を淹れようね」と言って、奥の火鉢へと向かった。

「すみません、いつも……」

恐縮しながら頭を下げ、湯気の立つ鉄瓶を見つめて待つ。外の激しい雨音と、店内に低く響くお湯の沸く音が重なって、薄暗い店内に不思議な静けさを作っていた。
湯呑みにお湯を注ぐ藤堂さんの背中から、ふとしたように言葉が投げかけられる。

「……そういえば。さっき、しのぶさんが遠出してるって言ってたけれど、いつ頃戻られるんだい?」
「どう、でしょう。いつも時間が定まってないので」
「ほう。じゃあ今は、屋敷には他に誰も?」
「そうですね……カナヲさんも今は出ていて、アオイさんときよちゃんたちだけですね」

口にしてから、頭の隅で少しだけ考えた。
屋敷には、他にも怪我の治療に励む鬼殺隊士たちが何人もいる。けれど、そこまで細かく話さなくたっていいだろう。

「おや、それはますます物騒だ。女の子たちだけで広い屋敷を守るのは骨が折れるねぇ」
「あはは……そう、ですね」

湯呑みを差し出してくれた藤堂さんに、私は曖昧な笑みを返した。
少し屋敷の内情を話しすぎたかな、と小さな迷いが胸をかすめる。けれど、蝶屋敷に身を寄せてから何度も顔を合わせ、いつも私たちのことを親身に気遣ってくれる藤堂さん相手に、そこまで神経質に警戒する必要もないだろう、とそんな甘えがどこかにあった。

「冷めないうちにどうぞ。少し癖があるが、身体がよく温まるよ」
「ありがとうございます」

差し出された湯呑みを、両手で包み込むように受け取った。
立ち上る湯気とともに、どこか甘く、痺れるような苦みを含んだ不思議な香りがする。
息を吹きかけて冷ましながら、そっと口をつけた。

「……ん、今回のはなんだか独特な香りがするけれど、甘くて美味しいです」
「だろう?山で採れる野草を少し入れていてね。雨で冷えた身体にはそれが一番効くんだ」

藤堂さんは満足そうに目を細め、帳場の向こうで自らの眼鏡を押し上げた。
喉を通った熱がじんわりと胃に落ちていく。手足の先まで、ゆっくりと温かな血が巡っていくような心地よさがあった。

「藤堂さんのお茶や薬は、いつも本当に飲みやすいです。良薬は口に苦しって言いますけど、飲むのが嫌にならないように工夫されていて」
「はは、そう言ってもらえると調合の甲斐があるよ」
「アオイさんも助かってると思います。屋敷の……その、怪我をしている人たち、苦い薬だとたまに嫌がって駄々をこねたりするので」

頭に浮かんだのは、苦い煎じ薬から逃げ回って怒鳴られている善逸くんの姿だ。
思い出して小さく笑うと、藤堂さんも楽しそうにからからと笑い声を立てた。

「元気な証拠だね。だが、そんな風に誰かの看病ばかりしていると、自分自身の疲れには気づきにくいものだよ。……リサさん、君も少し顔色が優れないように見えるが、大丈夫かい?」

ふいに投げかけられた気遣わしげな視線に、私は湯呑みを握る手を止めた。

「えっ、私ですか?」
「ああ。さっき駆け込んできた時から、どこか落ち着かない様子だったしね。……何か、心配事でもあるのかい?」

眼鏡の奥の穏やかな瞳が、じっとこちらを見つめている。
人の良さそうなその眼差しに嘘はないはずなのに、なぜか、背筋の奥がわずかに粟立つような、妙な違和感が一瞬だけ胸をかすめた。

「私は元気ですよ?」
「そうかい。それなら良かった」

藤堂さんはほっとしたように目尻を下げ、別の薬の包みを整え始めた。
その穏やかな仕草を見て、さっきのざわめきも気のせいだったのだと自分に言い聞かせる。
手元の湯呑みに視線を落とし、もう一口、甘いお茶を含んだ。それから、外へ向けて視線を戻す。
雨は勢いを弱めるどころか、ますます激しさを増して地面を叩きつけていた。
早く止んでほしいのに。じっと空を睨みつけても、雲が晴れる気配はまるでない。刻一刻と外の薄暗さが濃くなっていくのが分かり、焦りばかりが燻る。

ふいに、どっと重たい疲労感が頭の奥に落ちてきた。まぶたが急激に重くなり、視界がかすむ。思わず小さな欠伸がこぼれた。

「……、」

慌てて口元を手で押さえたけれど、一度出た眠気は引くどころか、全身を鉛のように重く沈めていく。
あれ、急にどうしたんだろう。今朝、ひどい悪夢を見て飛び起きたからだろうか。
藤堂さん、すごいな。私の顔色が優れないって言ったの、本当に当たってたんだ。ぼんやりと霞む頭の中でそんなことを考えながら、私は落ちてきそうになる瞼を、指先でごしごしと擦った。

「すみません、急に、なんだか眠気が……」

舌がうまく回らず、もつれたような声が漏れる。
指先に力が入らなくなり、持っていたはずの湯呑みが傾きかけた。
その手元を、冷たい感触が下からそっと支える。いつの間にか帳場から回り込んできた藤堂さんが、湯呑みを受け取っていた。

「いいんだよ、リサさん。ゆっくりお休み」

耳元に落ちてきたその声は、相変わらず穏やかで、けれどどこか底知れず冷たかった。
眼鏡の奥の瞳が、人の良さそうな形を保ったまま、不気味に細められている。
おかしい、何かが――。警鐘を鳴らそうとした思考はそこでぷつりと途切れ、私の身体は深い闇の中へとぱたりと倒れ込んだ。





***





夜気を含んだ冷たい風が、羽織を揺らす。山あいの暗い夜道を、私は足音もなく一人で進んでいた。
背後には、毒に侵されて肉を溶かし、もはや事切れた鬼の死骸が転がっている。
まるで取るに足らない雑魚鬼だった。仕込んでおいた藤の花の毒も、ごく標準的な分量で事足りた。
けれど、毒が回って絶命するまでの呼吸の乱れ、皮膚の崩れ方、痙攣の速度。脳裏でそれらを反芻しながら、私は歩きつつ小さく息を吐き出す。
調合の比率を、次はもう少し白木香はくぼくこうを引いて、藤の粘度を上げたほうがいいかもしれない。刺突の瞬間、刃先に残るわずかな抵抗を削ぎ落としたいところだ。
鬼の首を切れない私が、確実に奴らを滅ぼすための唯一の刃。絶え間ない改良を重ねることは、もはや私の呼吸と同じだった。

けれど、そんな考察の最中、思考の隙間にふっと落ちてきたのは任務へ赴く直前、鎹鴉によってもたらされた冨岡さんの手紙の内容だった。

『以前、高月を襲った男たちが監獄から釈放された』

紙片に走り書きされていたのは、ただそれだけ。余計な言葉を削ぎ落とす彼らしいといえばそれまでだが、詳しい事情や経緯は何も記されていなかった。
けれど、あの冨岡さんがわざわざ急ぎの手紙を寄越してきたという事実そのものが、事態の異常さを何より雄弁に物語っている。

…どうして?腑に落ちない。
あの男たちは、紛れもない現行犯として警官に突き出されたはずだった。
証拠不十分で釈放などあり得ないし、情状酌量があったとしても時期が早すぎる。法が機能しているこの世の中で、正規の手順を踏んであんな連中が野に放たれるはずがない。
だとしたら、背後にあるのは何?そこまで考えを巡らせたところで、ひやりとした。

調べてみる必要がありそうだ。もしも背後に、誰かが糸を引いているのだとしたら。
任務があったせいで、出立の直前にアオイへ「リサさんを絶対に一人にしないで」と言い含めてくることしかできなかった。

ふと見上げた夜空には、雨雲の切れ間から星明かりが覗いていた。少し前まで降っていた雨は上がったようだけれど、冷え冷えとした空気は肌にまとわりついて離れない。
なんとなく嫌な予感がして、私は屋敷へ向かう足を速めた。

――帰り着いたそこで、血の気を引かせたアオイやなほたちが駆け寄ってくることになるとは、その時は知らずに。




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