75
ゆらり。ゆらり。
揺れている。
まるで穏やかな舟に揺られているような、不思議な浮遊感。ここが泥を噛む思いで駆け抜けた、あの森と同じ場所だとは到底思えない。
その心地良さに、重くなった瞼を少しだけ閉じてみる。鼻先をかすめるのは、大好きな冨岡さんの匂い。清くて、温かくて。この世界で、私が一番安心を感じる匂いだと思う。
「…あの、冨岡さん。おぶっていただいてすみません…」
申し訳なさに呟くと、足元をしっかりと支える彼の腕に力がこもったのが分かった。
「気にするな。歩けないのだろう」
「……恐縮です」
優しい声に促されるように、ゆっくりと目を開ける。
すぐ目の前にある、冨岡さんの黒い髪。少し癖のあるその一房が夜風に揺れるのを眺めながら、私は吸い寄せられるようにその首筋に頬を寄せた。
本当は、自分の足で歩かなければならない。けれど、死に物狂いで走り続け、子鹿のようにガタガタと震えが止まらない今の足では、根を張る森の道はあまりに険しすぎた。
彼が「乗れ」と背を向けたとき、断る気力すら湧かなかったのは、きっと疲れのせいだけではない。
「……はじめて、鬼を見たんです」
「ああ、そうだろうな」
「皆さんが……あんなに恐れていたわけが、やっと分かりました。咄嗟に足も動かなくて。……理屈では分かっていたつもりだったのに、いざ目の前にするとあんなに体が言うことを聞かないなんて」
思い出すだけで、指先がまた冷たくなっていく。あの異様な風貌。命を単なる「食事」としか見ていない、濁った瞳。
「…だが俺が来たとき、お前は鬼に言い返していたな。死があるからこそ、生は素晴らしいと」
「聞いて、いらしたんですか……」
「…ああ」
確かに、あんなに大声を出したなら森中に聞こえていても不思議ではない。
でも、私が「生は素晴らしい」なんて理想を口にできていたのは、鬼殺隊の彼らが盾となり、命懸けでこの理不尽な世界から私を遠ざけてくれていたからに他ならない。
自分がいかに、彼らの優しさに守られていたか。
「お前は、よく頑張った」
冨岡さんの声が耳のすぐ側で響く。
私は彼の隊服の生地を掴む手に、返事の代わりにぐっと力を込めた。
「俺は血の気が引いたが」
「……ふふ」
心配してくれたということだろう。不謹慎だけど、そう思われて嬉しい。
そのまましばらく、土を踏みしめる音だけが森に響いていたが、冨岡さんがふと何かを言い淀むように口を開いた。
「あの男たちはお前に…何か、ひどいことをしなかったか」
「…大丈夫です。何もありませんでした。押さえつけられて、頬を叩かれたこと以外には。…咄嗟に、砂を顔に投げつけて逃げたんです」
そう答えると、私の身体を支えていた冨岡さんの腕からふっと微かな脱力が伝わってきた。
あの時も、間違いなく私の心を粉々に砕くには十分な恐怖だったけれど。そのあとの鬼という異界の暴威があまりに現実離れしていて、今となっては男たちの悪意さえ、どこか遠い出来事のように霞んでしまっている。
「そうか」
「でも、何かよく分からない薬を飲まされたみたいで。目が覚めたとき、どうしても身体に力が入らなくて……。今は、指先も動くようになりましたけれど」
何気なくそう付け加えた瞬間、冨岡さんの歩みがぴたりと止まった。
「……なぜそれを早く言わない」
「え、あ、冨岡…さん?」
「降ろすぞ」
彼は短くそう告げると、すぐ側にある太い木の幹に私をゆっくりと座らせた。
突然のことに戸惑う私を余所に、冨岡さんは私の前に膝をつき、私の左手を取る。そして手首に触れ、脈を測り出した。
トクン、トクンと静まり返った森の中で、私の鼓動だけがやけに大きく響く。気恥ずかしさが込み上げてくるけれど、冨岡さんの表情は真剣そのもの。
彼は脈を確認すると、次に私の瞳の動きや呼吸の深さを注意深く観察し始めた。
「吐き気や、指先の痺れは?」
「今は大丈夫です。ただ、少しだけ身体が熱いような気がするくらいで……」
「胡蝶がいれば、薬の成分を特定できるが」
冨岡さんは苦い表情を浮かべ、私の額にそっと手を当てた。
「…熱があるな」
薬のせいか、あるいは極限状態での疲労か…。
でも、しのぶさんのような専門家がいなくても、これほど的確に容態を診察できてしまうなんて。
やはり、死と隣り合わせの任務をこなす鬼殺隊にとって、応急処置や体調の把握は必須の技術なのだろうか。皆、こうして厳しい修行の中で、互いの命を繋ぎ止める術を学んでいくのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、ふいに視線の熱を感じて私は顔を上げた。冨岡さんが、言葉を失くしたような、どこかじっとした眼差しで私を見つめている。
「……冨岡、さん……?」
不安になって首を傾げ、掠れた声で名を呼んでみた。
すると彼は大きな掌を伸ばし、さっき男に叩かれたであろう私の頬を優しく撫でた。泥と涙で汚れているはずの私の肌を、慈しむように親指がなぞる。そのあまりの心地よさに、思わずその手にするりと擦り寄ってしまった。
「俺はどうすればよかったのか、自分でも分からなくなる」
「私がご迷惑をかけてばかりだからですね、すみません。…でも、生きていてよかったです。またこうして冨岡さんに会えたから」
私が震える声でそう告げると、冨岡さんはまるで呼吸を忘れていたかのように深く息を吐いた。そのまま、頬に添えられていた彼の手が、迷うように私の髪を一房掬い上げる。
「お前はいつも、俺の想像を越えたところにいる」
「え、そ、そうでしょうか…」
「ああ。おかげで一瞬たりとも目を離せやしない」
「……じゃあ、冨岡さんがずっとそばで見ていてくださればいいのに」
距離を置かれ、その背中さえ見つめることができなかった日々。本当はいつだって、その凪いだ瞳の中に自分の姿を映してほしかった。
危なっかしくて、目を離せないと言うのなら。もういっそずっと私のそばにいて、その視線で私を縛り付けてしまってほしい。
「…行くぞ。もう一度乗れるか」
冨岡さんは何も返事をせずに、私に背を向ける。私も気にせず「はい」と短く返事をして、再びその大きな背中にしがみついた。
ゆらり、ゆらり。再び始まった心地よい揺れの中で、私はふと奇妙な感覚に囚われる。
この光景。この安心感。どこかで見たことがある気がする。…けれど、どこでだろう。
この背中の温もりも、揺れも、すべてが私の魂の深い場所に刻まれているような不思議な既視感があった。
「冨岡さん。あの、私…酔ってたのではっきりとは覚えていないんですけど。でも、なんだか今のこの感じ、知っている気がして……」
彼の首筋に顔を寄せたまま、私は思い切って声をかけた。一呼吸置いて、核心に触れる。
「この間、宇髄さんの屋敷で酔い潰れてしまった私をおぶって運んでくださったのは…冨岡さんですか?」
その瞬間、私の膝を支えていた彼の腕が、ぴくりと跳ねるように反応した。
ほんの僅かな変化だったけれど、密着している私にはそれが何より雄弁な答えとして伝わってくる。
「…………」
冨岡さんは何も答えない。けれど、否定もしなかった。ただ前を見据えたまま、少しだけ歩を早めたように感じられた。
「……なんだ。やっぱり、冨岡さんだったんですね」
私は安堵と、それから自分でも驚くほどの納得感を込めて深く息を吐き出した。
あの時、目が覚めてからずっと誰が運んでくれたのか気になっていた。けれど、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。私をこんなに優しく、大切に運んでくれるのは世界に一人しかいないのだと。
しのぶさんやアオイさんに聞いても答えを濁されたのは、彼が口止めをしていたからだろう。冨岡さんはそこまでして、私との接点をなかったことにしたかったのだろうか。
「……ずるいです、冨岡さん」
「何がだ」
心底不思議そうに問い返してくる彼の声に、さらに少しだけ首に回した腕に力を込める。
「あの夜、運んでくださったならそう言ってくださればよかったのに。全部なかったことにするなんて…。ひどいです」
「………」
冨岡さんは沈黙した。図星だったのだろう。
私を突き放そうと躍起になっていた彼が、それでも酔い潰れた私を放っておけずに背負ったあの夜。その矛盾した優しさが今の私には切なく、そして少しだけ腹立たしい。
「すまない。あの時はそれが最善だと思っていた」
「最善じゃありません……。私は、ずっと気になっていたんですから……」
「…すまない。悪かった」
低い声で、もう一度謝罪の言葉が降ってきた。そのあまりに素直な響きに、毒気を抜かれてしまう。
「だが、お前はもう酒を飲むな。宇髄のところへももう行かなくていい」
「え、ど、どうして……」
唐突な禁止令に、私は彼の背中で首を傾げる。
確かにあの夜は酔い潰れてしまったけれど、宇髄さんたちはあれからも親切にしてくれるし、手紙のやり取りもたまにだけど続いている。
何より彼にここまで断定的に止められる理由が分からない。
「冨岡さん。あの、私やっぱり何かひどい粗相をしましたか?酔っ払って、吐いたとか……あるいは誰かに抱きつきに行ったとか……」
「……違う」
「じゃあ、なんですか。私、何をしたんですか?ちゃんと教えてください。じゃないと、反省もできません……!」
身を乗り出すようにして問い詰めると、冨岡さんは視線を泳がせるようにして、わずかに顔を背けた。
その耳たぶがほんのりと赤く染まっているように見えるのは、私の見間違いだろうか。
「…いや。お前が何かをしたわけではない」
「私じゃない?え、じゃあ誰が何かをしたんですか?」
「…………お前じゃない」
「私じゃない?」
繰り返された言葉に、私の頭の中にはいくつものはてなが浮かび上がる。
私じゃない誰かが何かをした?でも、私を運んでくれたのは冨岡さんで、お酒を飲んだのは私で……。
「……ん?」
考えれば考えるほど、答えは闇の中へと消えていく。どこか気まずそうにふっと息を吐く彼の横顔を、私はじっと見つめることしかできなかった。
*
冨岡さんの屋敷に到着し、そのまま彼におぶわれて奥の部屋まで連れて行ってもらった。
いざ久しぶりに彼の屋敷の敷居を跨いだ瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったのだろう。腰に力が入らず、自分の足で立つことさえままならなかった。
畳の上にそっと降ろされ、明かりの下で改めて自分の姿を見て私は言葉を失った。森を這いずり回ったせいか、着物は泥と埃に塗れ、あちこちが裂けて無惨な姿になっている。手足は泥と乾いた血に汚れていた。
「冷えただろう。まずは風呂に入れ。そのあと手当をして…一緒に、夕餉を食べよう。俺もまだだ」
冨岡さんはそう言うと、ほんの少しだけ口角を上げて微笑んでくれた。どこかぎこちないその表情に、強張っていた心が解けていくのを感じる。
私はこくりと頷き、彼が用意してくれた清潔な着替えを受け取って湯殿へと向かった。
汚れてしまった着物を脱ぐ。洗濯をすればこの泥は落ちるだろうか。お気に入りだったのに、と少しだけ悔しさを覚えながら、それを丁寧に畳んで隅に置いた。
熱いお湯を桶に汲み、思い切って頭から被る。
その瞬間、手足に無数にできていた擦り傷がピリピリと鋭く痛んで、私は思わず眉を寄せた。けれど、その痛みさえも今はどこか愛おしい。
…痛みは、生きている証拠だ。
かつて、誰かがそう言っていたような気がする。死んでしまったら、この痛みも、お湯の熱さも、何も感じることはできないのだ。
そっと、脚の大きな擦り傷を指先でなぞってみる。じくじくと疼く痛みが、私が今ここに存在していることを何よりも確かに証明していた。
「……生きてる」
私はまだ、この世界に生きている。
湯船から上がると、冨岡さんが夕餉を作ってくれていた。冨岡さんも着替えたようで、藍色の浴衣を着てその上に羽織を羽織っている。
座布団の上に腰を下ろそうとしたら手当が先だと言われたので、腕と足首の擦り傷を丁寧に手当してもらい、その後は冨岡さんと一緒に夕餉を食べた。
今日あったことなんて忘れたかのように、私と冨岡さんはいつものように何気ない会話をした。冨岡さんは私の話に相槌を打って、私は時々笑って。
「…春先に冨岡さんが連れて行ってくださったあの焼き鳥屋さん、覚えてますか?」
「覚えてる」
「あそこ、食べ放題が禁止になったみたいですよ。蝶屋敷にいる隊士の方たちが残念そうに話してました。せっかくよく行ってたのに、もうお腹いっぱい食べられないって」
「…そうなのか」
「絶対に冨岡さんのせいですよね。あんなに何本も注文するから」
「………いや、俺じゃない」
「いえ、絶対にそうです。お店の人、最後の方は顔を引き攣らせてましたもん」
どこか何かがヒビ割れているはずなのに、私と冨岡さんはそのヒビに視線を向けずに話し続ける。互いに、話したいことはそんなことじゃないとわかっているはずなのに。
けれどもその時間は、とても幸せだった。いつもの穏やかな時間を冨岡さんと過ごせることが…とても、嬉しかった。
冨岡さんの淹れてくれた温かいお茶を飲みながら会話を続けて、そうして気付けば日付を超えてしまっていた。
「そろそろ、寝るか」
冨岡さんのその言葉に、私は名残惜しさを感じながらもこくりと頷いた。
案内されて向かった寝室。この部屋へ来るのは、これで二度目だ。彼は慣れた手つきでテキパキと布団を敷くと、私の顔を覗き込むようにして言った。
「明日、蝶屋敷に送り届ける。それまでゆっくり休め。…俺は部屋のすぐ外にいる」
私を安心させるようにそう言って、立ち去ろうとする背中。
…なんだろう、ぼんやりしているのに眠いわけじゃない。むしろ、眠くない。目を閉じると、あの部屋の暗闇と埃っぽさ、それから鬼の嗤い声を思い出す気がする。もう息苦しさはないのに、喉がきゅうと絞まる心地だった。
思い出したくない。そう考えるよりも先に、冨岡さんの藍色の浴衣の裾を、指先でぎゅっと握りしめていた。
「…………」
何も言わず、ただすがるような瞳で冨岡さんをじっと見上げる。冨岡さんは足を止め、私の指先と瞳とを交互に見つめた。
そして数秒の沈黙の後、諦めたような吐息を漏らす。
「…今回だけだぞ」
観念したように呟くと、冨岡さんは押し入れからもう一つの布団を取り出した。そして私の布団から少しだけ距離を置いて、畳の上にそれを敷き始める。
「…あの、冨岡さん。その布団、新しく買われたんですか?」
「ああ。前のことがあって、さすがに備えは必要だと思った」
その答えを聞いて、私は堪えきれずにふふっ、と思わず笑い声を上げてしまう。
前は布団が一組しかなくて、どちらが畳の上で寝るかあるいは床で寝るかと、あんなに押し問答をしたというのに。あの夜のやり取りを彼も同じように覚えていて、わざわざ準備をしていたのだと思うと可笑しくてたまらなくなった。
「何が可笑しい」
「いえ……。冨岡さん本当に……ふふ、用意が良いですね」
「もうお前は寝ろ」
少しだけぶっきらぼうに言い捨てて、冨岡さんは新しく出した布団の上に正座で座り込んだ。
「不安ならもう少し距離を取るか?」
「え、なんでですか?ここにいてください…!というか、遠くで眠られた方が不安です…!」
「………警戒心の希薄さはそう簡単には治らないか」
溜息混じりに呟かれた言葉は良く聞き取れなかった。首を傾げれば、冨岡さんは「なんでもない」と首を振るだけ。
「…冨岡さん?」
「本当に、何もされなかったのか」
「……あ、」
その問いに、私は自分の包帯を見つめて小さく声を漏らす。
「…はい。助けていただいた時にお話しした通りです」
彼に余計な心配をかけたくなくて、私はわざと少しだけ胸を張ってみせた。
…そんなに、痛々しいものを見るような目をしないでほしい。私は大丈夫だ。こうして冨岡さんの側にいられるだけで、もう十分すぎるほど落ち着いているのだから。
「だが、男の俺が同じ部屋で横になることが、お前にとって苦痛ではないのかと……そう、思っている」
「そんなわけないですよ。あの暗い蔵の中で、冨岡さんに来て欲しいって何度も思ったんです。冨岡さんは私の英雄です」
本当は、同じ部屋にいることを苦痛に思うどころか、もっと近くにいたいと願ってしまっている。恐怖を上書きしてくれるような冨岡さんの体温を、無意識に求めてやまない自分は、はしたないのだろうか。
「そうか…。火を消しても構わないか」
「は、はい。大丈夫です」
私が布団に横になったのを確認すると、冨岡さんは芯を手で絞って明かりを消してくれた。
部屋が暗くなって体が竦むのを感じる。白状すると、やっぱり怖いものは怖い。うとうととし始めているのを自覚しているけれど、それでも暗がりに浮かぶ恐怖は未だ拭えそうになかった。
それはもうトラウマに近いものなんだと思う。この恐怖が消えるまでは、寝付きも良くはないだろう。仕方のないことだ。
…蘇る恐怖に、ぎゅうと手を握りしめる。
「高月」
暗闇で、冨岡さんの声がする。無意識のうちに詰めてた息を吐き出しながら、ほんの少し顔を上げた。
障子から差し込む月明かりが、冨岡さんの横顔を照らしている。
「眠れそうか」
「…あまり…。目を…閉じたくなくて…」
「触れてもいいか?」
その問いに、ゆっくりと瞬きをする。
触れるって、どこに。私が首を傾げていると、暗闇の中で冨岡さんが膝で移動してくる気配がした。布団が擦れる音と共に、彼の体温がじわりと近づいてくる。
え、待って。これって…。
「あまり体に力を入れるな。ゆっくり呼吸をしろ」
私の目の前に横になった冨岡さんに、そっと抱き寄せられる。一体何が起こっているのか理解が追いつかずに何度も何度も目を瞬かせた。
冨岡さんは私の背中に回した手で優しく背中を撫でてくれている。その手の優しさに、じんわりと体が温かくなる気がした。
「大丈夫だ、何もしない」
冨岡さんがほんの少しだけ私の方に体を寄せる。冨岡さんの胸元に顔を寄せるような形になって一気に顔が熱くなった。
暗闇でよかった。光の下だったら耳まで真っ赤になってしまっているのがわかってしまっただろう。望みはないと分かっているとは言っても、好きな相手に抱き寄せられて混乱しない人間などいるのだろうか。少なくとも私は冷静でなんていられなかった。
「…冨岡、さん…」
「痛みに耐える夜は、存外きついものだ」
私の戸惑った声をやんわりと遮りながら冨岡さんが言った。
痛みに耐える夜。その言葉にゆっくりと目を瞬かせる。
「俺はそれを知ってる」
冨岡さんも、一人で痛みに耐えた夜があるのだろうか。そうだとしたら、一体どんな痛みを耐え忍んだんだろう。
私がほんの少し俯くと、額が冨岡さんの胸に当たる。背中を撫でる手は優しくて、冨岡さんの腕に包まれていると温かくて。
「触れられるのは嫌か」
私は顔を埋めたまま、必死に頭をふるふると振った。
嫌なわけがない。好きな人にこうして抱き締められるなんて、幸せじゃなかったらなんなのだろう。
「…あの、冨岡さん」
「なんだ?」
「……その、冨岡さんはずっと、独りで耐えてきたんですか?」
こんな夜を、ずっと独りで?
冨岡さんは淡々と言っていたけれど、背中を撫でてくれるこの大きな掌は温かくて、どこか寂しい。彼は自分以外の誰かを救うことには迷いがないのに、自分自身の痛みにはずっと蓋をして生きてきた人のような気がする。
「俺は男だろう、お前とはちがう。お前は無理に強がらなくていい」
そうは言うけれど…。
私には、今こうして抱きしめてくれる冨岡さんがいる。でも、同じように独りで痛みに耐えてきたというこの人のそばには、一体誰がいるんだろう。
冷たい夜、心が折れそうな時、この人はどうやって耐え忍んできたのだろう。そう思ったら、切なくて、やりきれなくて。
「さっきの…なんですけど」
「さっきの?」
「…その、はい。…私をおぶって、蝶屋敷まで送り届けてくださったって話です」
「ああ、それがどうした」
「……そんなに優しいのに、どうして、……どうしてあの日から、ずっと私を避けていたのかなって」
なんだか、今なら聞ける気がした。
「私のこと、そんなに『嫌だ』って思っちゃったんですか?」
冨岡さんがあんなことをした理由。それがずっと知りたかった。
嫌われたんだ。あまりに身の程知らずな私の好意が、彼を怒らせてしまったんだ。そう思っていたけれど、優しくされると分からなくなる。冨岡さんの考えていることが、何も分からないのだ。
不安を吐き出すように問いかけると、冨岡さんの手はぴたりと止まる。それから、ひどく深いため息をつき、私の背を撫でていた手をゆっくりと離した。
「高月」
「…はい」
「それに答える前に、ひとつ俺もお前に聞いていいか?」
「え?は、はい……」
何を言われるのだろうと、少し身構える。
「なん…ですか…?」
震えそうになる声をなんとか押し殺して、私は冨岡さんの瞳をじっと見つめた。
冨岡さんは迷うように一度視線を動かし、それから意を決したようにこちらを見据える。
「あの時、俺がお前に許可なく口づけたことについてだ」
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