74
これほどまでに、自分自身の感情が制御不能になるとは思わなかった。
足は、すぐに町外れの薬屋へと向いていた。
逃げ支度を整えていた藤堂という男を捉えたとき、真っ先に浮かんだのは自分への嫌悪だった。
俺は分かっていなかった。彼女をゆっくり丁寧に囲ったところで、その隣に俺がいないのであれば、それは守っていることにはならないのだということを。
本当に、嫌になる。
ただ穏やかに、幸せでいて欲しかった。俺のような男と関わるより、ずっとふさわしい日々があるはずだと。そう思って、自分の手で彼女から身を引いたくせに。
突き放しておきながら、誰にも触れさせたくないという矛盾。自分の身勝手で彼女を遠ざけ、そのせいで彼女が危機に晒されるという、これ以上ない無様。
彼女の瞳から光を奪おうとする者がいるなら、たとえそれが俺自身であったとしても、俺は俺を許さないだろう。
あの夏の日、気遣わしげに俺の名前を呼んだ彼女は一体どんな顔をしていたのか。今となっては、分からない。
「……ッ、がは……っ!」
余裕なんて単語は、どこかに置いてきてしまった。いつも冷静で感情が揺れないよう心がけていたのに、頭に血が上って無を取り繕うのが精一杯だった。
逃げようとした男の襟首を掴み、そのまま壁へと叩きつける。みしり、と木材が悲鳴を上げたが、構わなかった。
高月の受けた扱いと比べれば、こんな痛みなど微々たるものでしかない。
水の呼吸は、乱れが許されない。
水面のように常に静かに、澄み渡っていなければ技は淀み、刃は鈍る。だから極力感情に支配されることだけは避けてきた。
無駄なことは喋りたくない。こんな男のために、刀を抜くことさえしたくない。
俺の剣は人を守り、鬼を斬るためのものだ。私怨で、ただの人間であるこの男を切り裂くためにあるのではない。
それでも、壁に押し付けた拳に、みしりと力が入る。
「どこだ」
短く、低く、喉の奥から絞り出すように問う。
男の顔が恐怖で歪み、汗が滲み出すのを、俺は冷めた瞳で見つめた。
「白を切るな。…高月をどこへやった」
男はガタガタと震えだし、俺が折った腕を抱えながら、見苦しく弁明を始めた。
高月の攫われた蔵の場所を吐かせた後、奴が口にしたのは、胡蝶への逆恨みと、高月を「金になる被験者」として扱ったという、吐き気のするような独善だった。
「若くて品がいいから、高く売れると……っ!」
俺の中で、何かがぷつりと音を立てて冷え切る。
高月を、そんな下劣な言葉で語るな。
その口で、彼女の価値を測ろうとするな。
そんな男たちに汚されるくらいなら、いっそ。一瞬、あまりにも
認めざるを得ない。
彼女から離れなければ、と思っていた時点でもう手遅れだったのだ。引いたはずの一線は、とっくに濁流に呑み込まれていた。
俺はもう、どうしたらいい。彼女の幸せを願って身を引くこともできず、かといって、この両手で抱き締める資格もない。
後にも先にも行けず、この中途半端な場所で、彼女が危機に晒されるのを指をくわえて見ていなければならないのか。
それが、守るべきものを守れなかった、俺への報いだというのか。
救いなんて、もう望まない。許されたいとも、選ばれたいとも思わない。だったらせめて、他の男に取られるようなことは。
北の炭焼き小屋の跡。辿り着いたその蔵の扉は、無残にも開け放たれ、中にはもう誰もいなかった。
月明かりさえ届かない薄暗い空間に、むせ返るような埃と、わずかに残る人の気配を感じる。
地面には、激しく争ったような跡。引きずられた土の筋。そして森の奥へと続く、不自然に乱れた足跡。
俺は、また。
手をぐっと握りしめる。
また、間に合わなかったのか。俺はいつも、誰かがその命を、その心を削り、必死に助けを求めている瞬間に、隣にいてやることができない。
指先が、怒りと無力感で微かに震える。彼女の幸せを願って離れた結果が、これか。
俺が臆病に身を引いたせいで、彼女は一人でこんな場所まで連れてこられ、誰もいない暗闇で、届くはずのない助けを呼んでいたのではないか。
報いならいくらでも受ける。だから、せめて。せめて命だけは、繋がっていてくれ。
「カァ、カァッ!」
その時、頭上で寛三郎の鋭い鳴き声が響いた。羽ばたきの音と共に俺の前に降り立った相棒は、月の光を反射する「何か」を、その嘴に誇らしげに咥えている。
「……!」
一目で分かった。泥にまみれ、無惨に放り出されていたであろうそれは、以前俺が彼女に贈ったものだった。
彼女が「宝物にします」と、あんなに大切そうに笑って受け取ってくれたもの。
「…寛三郎。それを、どこで拾った」
まだ、間に合う。
間に合わせなければ、俺は一生、自分を赦すことはできない。
*****
どれほど走ったのか分からない。走っている方向が正しいのかも分からない。無我夢中で藪をかき分け、ぬかるみに足を取られながらも、ただひたすらに前へ、前へと身体を動かした。
その間に、酷かった身体の痺れた感覚は、少しずつマシになり、足もどうにか地面を蹴り出せるようになってきた。
けれど、それに比例するように辺りはどんどん険しくなり、濃い闇が私を包みだす。最初はまだ草が生い茂る程度の森だったのに、今は見上げるほどの巨木が並んでいた。
「……はぁっ、はぁ……っ!」
それでも、立ち止まることはできない。背後からは、まだあの男たちが森を掻き分ける音が聞こえているような気がして、私は振り返ることさえ怖かった。
ここは、どこだろう。どっちに行けばいいのだろう。方向感覚はとうに死んでいる。けれど、もしあちらが東なら、屋敷はもう少し北のはずだとか、必死に記憶の断片を繋ぎ合わせようとする。
早く、あそこへ、皆の元へ戻りたい。その一心で足を動かすが、どこを見渡しても暗い闇が広がっているだけ。
「……あ、っ……」
その時、ふいに視界に大きな歪な影が立ち塞がった。
心臓が口から飛び出すかと思った。なんとか悲鳴を呑み込み、泥にまみれた草履で地面に急停止をかけた。
ガサリ、とすぐ目の前の影が
――むしゃ、むしゃ。クチャ、クチャ。それは、何か硬いものを噛み砕き、貪り食べる音。
背筋に凍るような悪寒が走り、全身の毛穴が一瞬にして逆立つ。男たちへの恐怖なんて、今のこの瞬間に比べれば、まだかわいらしいものだった。
だって、これは…。
これは、人間じゃない。
胸元でシャラン…と首飾りが警告のように揺れた。
逃げ…なきゃ…。
動かない身体を必死に叱咤し、音を立てないように、じり、と一歩後ろへ足を引いた。けれど。
――ぽきっ。と、非情なまでの乾いた音が響き渡った。足元に落ちていた枯れ枝を、踏み折ってしまったのだ。
「……ッ!」
むしゃむしゃという音が、ピタリと止む。巨大な影が、ゆっくりとこちらへと振り向いた。
月明かりさえ届かない闇の中で、その「何か」の顔だけが異様に白く浮かび上がる。
口の周りをべっとりと赤黒い血で濡らし、その裂けたような口が弧を描くように、ニィ…と、不気味に吊り上がった。
「なんだあ?こんな山奥に。そっちから喰われにきてくれたのかぁ?」
その存在の、あまりの巨大さに圧倒される。見上げるほどの巨体。その姿は、私たちがよく知る人間のものとはかけ離れていた。
鬼、……だ。
全身の血の気が一瞬にして引き、今まで一度も感じたことのない恐怖に囚われるのが分かった。
「それに女だなぁ」
鬼殺隊の皆が、命を懸けて戦っている存在。しのぶさんや冨岡さんが、夜の外出を咎める理由。運ばれてきた隊士たちの身体に、どうしてあんなに酷い傷跡が刻まれているのか。
その本当の意味を、私は今の今まで何一つ分かっていなかったのかもしれない。
これが、鬼…。人間を、食べる化け物…。向けられた殺意だけで、指先一つ動かせなくなるような絶望感。
鬼は吊り上がった口元をさらに歪め、濁った瞳を私へと向ける。
「若くて、活きがいい…。最高のご馳走だぁ」
動け、動いて。逃げなきゃ。
脳は必死に命令を出しているのに、身体は恐怖に囚われ動かない。ただその場に立ち尽くし、ガタガタと震え続けることしかできない。
「そんなに震えなくとも、すぐ楽にしてやるからなぁ」
鬼が、距離を詰めてきたその時。私の凍りついていた本能が、死に物狂いで身体を突き動かした。
「……っ!!」
悲鳴にも似た声を上げ、身体を翻す。木の根に足を取られながらも、ただひたすらに鬼とは反対の方向へと走った。
最悪だ。最悪なことになってしまった。人生最悪の日をあげるなら、きっと今日になるだろう。
男たちに捕らえられ、得体の知れない薬を飲まされ、暗い夜の森を泥にまみれて逃げ惑って。そうして死に物狂いで辿り着いた先が、鬼の胃袋の中だなんて。
「へへへ、こんな山奥でどこまで逃げ切れるかねえ」
振り返る余裕なんてない。けれど、草をなぎ倒し、空気を切り裂く音が一瞬ごとに近づいているのは分かった。あの男たちとは比べ物にならないくらい速い。
「ははっ、そんな足じゃすぐに追いつくぞお」
追い詰められた私は、なんとか藪を掻き分け、開けた場所へと飛び出した。
「……あ、っ……!」
しかし、突如として足元から地面が消え、辛うじて崖の縁で踏み止まる。
その下は、ゆうに十数メートルを超えているだろうか。月明かりさえ吸い込まれるような断崖絶壁。下から吹き上げる風が、私の頬を撫でていく。もしここから落ちれば、打ち所が悪くなくとも確実に死ぬだろう。
…逃げ場が、ない。背後からは、鬼が草木をなぎ倒して近づいてくる音。
私は絶望に震えながらも、生きるための細い糸を手繰り寄せるように、崖の降りられそうな場所を必死に探した。
「……あれは、」
身を乗り出して下を覗き込むと、崖の中腹あたりに、岩肌を突き破って逞しく生え出た太い木の幹が見えた。あそこに降りることができれば、一時的にでも鬼の手から逃れられるかもしれない。
けれど、足元は雨上がりの泥で酷くぬかるんでいる。なかなか勇気が出ない。もし足を踏み外せば、あるいは手を滑らせれば、どうなるかは一目瞭然だ。
恐怖で膝が笑い、足がすくむ。
「ヒヒッ。さあ、そこから飛び降りるか、俺様に喰われるか…!」
すぐ背後まで、鬼の気配が迫ってきた。ここで待っていても、ただ惨たらしく食べられるだけだ。
私は意を決し、震える足を崖の縁から下ろした。
「……っ!」
岩の突起に足をかけ、慎重に体重を移そうとしたその瞬間。雨を含んだ土壌が、無慈悲にも私の重みに耐えきれず崩れ落ちた。
「きゃあっ…!」
バランスを崩し、私の身体が宙に放り出される。重力に引かれ、景色が逆さまに流れていく。
まずい――落ちる。そう確信した時、私は無我夢中で手を伸ばし、視界の端に映ったあの木の幹を、指先が千切れんばかりの力で掴み取った。
「っ……いっ……!」
ガクン、と肩が外れるような衝撃が全身を突き抜け、私の身体は崖の途中で宙吊りになった。
下は深い闇。上には、私の失態をあざ笑うかのように覗き込む鬼の顔。
木の幹一つに命を預けながら、私はただ必死に縋り付く。
「ヒヒッ……ハハハハッ!なんだぁ、その無様な姿は。まるで蜘蛛の巣に絡まった羽虫じゃねぇか」
木の幹に食い込む指先が、自分の体重と衝撃で悲鳴を上げていた。少しでも力を抜けば、そのまま真っ逆さまに落ちてしまう。
そんな私の絶望を、鬼は喉を鳴らして笑い飛ばした。
「そんなに震えて、そんな枝にしがみついて……惨めだなぁ人間様は。そんなに死ぬのが怖いかぁ?」
鬼は爪を研ぐように崖の岩肌をガリガリと削り、砂を私の上に振りかける。
「鬼なら、そこから落ちたところで死にゃあしねぇのになぁ。そんなものを抱えて生きるなんて、やっぱ人間ってのは不便で、弱くて、滑稽だなぁ」
嘲り、蔑み、命に価値などないという言葉。恐怖で冷え切った頭の片隅で、ふつふつとした何かが芽生える。
――何が、おかしい。懸命に命を繋ごうと足掻くことが、そんなに愉快なのか。
「…ち…、う…っ」
「あぁ?」
「ちがう……ッ!!」
この世界で、多くの命が唐突にその幕を閉じられるのを目の当たりにしてきた。だからこそ分かる。今日を生きることが、どれほど尊くて、どれほど奇跡の連続なのかを。
私たちが必死に繋いできた時間を、誰かを想って流した涙を、ひとまとめに踏みにじられてたまるものか。
私は、千切れそうな指の痛みに耐え、顔を上げて鬼を睨みつけた。
「人間は、弱くなんか、ない………っ、死があるからこそ、生きることが素晴らしいの……っ!いつか終わるから、一生懸命に、今日を生きようとするの……!!」
蝶屋敷で懸命に明日を生きようとする隊士。
いつも笑顔を絶やさないしのぶさん。
優しく、けれど厳しく皆を支えるアオイさん。
元気いっぱいに屋敷を駆け回る三人娘に、静かに前を向くカナヲさん。
…そして、最期まで誇り高く戦い抜いた尾崎さん。
いつか散る花だからこそ、人はその美しさに足を止める。
「それを、あなたたちが簡単に奪おうとしないで……ッ!!!」
いつか消えてしまう命だからこそ、私たちは今日という日を、この一瞬を、必死に抱きしめて生きているんだ。
そんな彼女たちまで侮辱するなんて許さない。命を奪われる痛みを知っているからこそ、私はこの手を、絶対に離したりなんかしない。
「……ハッ。何を抜かしてやがる」
けれど、鬼はただつまらなそうに鼻を鳴らした。弧を描く口元が歪み、その瞳には理解の欠片さえ宿っていない。
「終わるから素晴らしい?死があるから素晴らしい?…くだらねぇ。生きてなきゃあ、何もかも無意味なんだよ。お前らがどれほど必死に喚こうが、死ねばただの屍だ。泥にまみれて朽ち果てるだけのな!」
確かに、死んでしまえば何も手元には残らないのかもしれない。けれど、その過程で私たちが懸命に紡いできた想いまで、無意味だなんて、そんなこと絶対に認めない。
…それでも、尾崎さんは戦った。彼女が残したものは、ただの屍なんかじゃない。
私の記憶の中で、今も熱く、眩しく、生きる勇気を与えてくれているんだ。
「無意味なんかじゃない……ッ!私たちの想いは、死んでもなお繋がっていくの……!」
「はぁ?何抜かしてやがる。そんなもののために今日を惜しんで生きるなんて、やっぱり人間ってのは救いようのない馬鹿だなぁ!その無駄な理屈と一緒に、お前なんか今すぐバラバラにしてやるよ……!」
振り下ろされる鬼の爪。死の予感に、心臓が痛いほど跳ねた。啖呵を切った時の熱は、残酷な現実を前にして急速に冷えていく。
あぁ。ここまで、なのかな…。必死に木の幹に捕まる指先は、もう感覚がほとんど残っていない。
あんなに強気に言い返したけれど、結局、私はこの命を繋ぎ止めることさえできない。この時代でも、また私は死んでしまうのだろうか。
一度は亡くなった命。今度こそはと思ったのに、また道半ばで終わるというのか。
せめて最後に見る景色が、こんな化け物の顔ではなく、あの穏やかな蝶屋敷の景色だったらよかったのに。
思考は霧に包まれ、抗う気力さえ溶けていく。その鬼の
ことん、と。
まるでおもちゃが転がったかのような軽い音を立てて、鬼の頭部が崖の斜面を転げ落ちた。
「え…っ?」
伸ばされた鬼の腕が、空中でぴたりと止まる。大きな体はみるみるうちに崩れていって、夜風にさらわれ、灰のようにパラパラと消えていく。
その向こう側に、一瞬だけ一筋の青い光が見えた気がした。真っ暗な夜空を切り裂いて流れた、星のような…。怖いくらいに、とても綺麗な光。
…何が、起きたんだろう。感覚のなくなった指先で、私はただ必死に木の幹にしがみついていると。
「――高月…っ!」
上から、私の名を呼ぶ切迫した声が降ってきた。崖の縁を掴み、身を乗り出すようにしてこちらを覗き込む一つの影。
嘘だ、と思った。いつもの冷静な姿からは想像もつかないほど、なりふり構わず私を呼ぶその姿。
「と、冨岡……さん……!」
震える声でその名を呼ぶと、彼の瞳が私を捉え、わずかに見開かれた。まさか、こんな絶望的な場所に私がいるなんて、想像もしていなかったのだろう。
「俺が来るまで、よく堪えた!」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れる。
「っ…、うあ…ぁ…っ、とみ、とみおかさぁん……!」
堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
どうしてここに居るのか、どうして私を見つけられたのか。今、そんなことはどうでもよかった。
ただ一番会いたかった人が、絶対に届かないと思っていたその手が、すぐそこにあるのだ。
「手を伸ばせ、高月!」
崖の上から、冨岡さんは叫ぶように言う。
「……っ、でも、手が、もう動かなくて……!力が、入りません……っ!」
恐怖と疲労、そして安堵による脱力で、木の幹を掴む指先はもう限界を越えていた。感覚の消えかかった右手を無理やり動かそうとするけれど、鉛のように重く、ただ震えることしかできない。
「大丈夫だ。とりあえず伸ばすんだ!」
冨岡さんはさらに身を乗り出し、その大きな掌を精一杯私の方へと差し出した。
私は奥歯を噛み締め、最後の力を振り絞って、空中に右手を突き出す。
滑り落ちる恐怖よりも、彼に届きたいという願いが勝ったその瞬間。バシッ、と空中で力強く彼が私の手首を掴み取った。
そのまま一気に引き上げられ、崖の上に降ろされる。
「とみ岡さ……っ!」
そう呼んだ瞬間、膝をついたまま彼に覆い被さるようにして強く強く抱きすくめられた。
はからずも冨岡さんの胸に飛び込む形になり、その安心する香りを胸いっぱいに吸い込みながら、私は子供のように声を上げて泣いた。
「…っ、う、あああああん……!」
「遅くなってすまない。怖かっただろう」
「っ、す、すみません……っ。私、また冨岡さんにご迷惑を……!」
「いい、気にするな」
しゃくり上げる私に、冨岡さんは私の頭を包み込むようにして首を横に振った。
「…っ、ごめ、ごめんなさ……っ!ごめんなさい、とみ岡さん……っ!!」
何度も何度もその名を呼んで、謝り続ける。
もっと注意していれば。もっと自覚を持っていれば。あなたが何度も注告してくれていた言葉を、もっと真剣に受け止めていれば。
「……っ、こわ、怖かった……!こわ、くて……っ!冨岡さん……っ、ほんとに、ごめんなさい……!!」
「もう謝るな」
違うんです、冨岡さん。次に会ったら、必ずあなたに謝ろうって。
あの時、あんなに馬鹿なことを言ってごめんなさいって。身の程知らず、とでも言うのかな。
私は浮かれていて、きっと誰よりも浮かれていて。告わなければ、ずっと側にいれたかもしれないのに。
私の浅はかな振る舞いのせいで、気を遣わせ、避けさせてしまった。そのままもう二度と会えなくなるところだったのだ。
「……っ、ありがとう、ございま……」
「ああ」
「来て、くれて……、本当に……っあり、ありが……っ」
冨岡さんの胸元に顔を埋めながら、感じた大きな恐怖を打ち消すほどの大きな安堵感に…私は、ただ冨岡さんに縋り付いて泣いた。
「高月、…もう、大丈夫だ」
みっともなく声を上げる。私の頭を繰り返し撫でる冨岡さんの手に胸が温かくなった。
沢山泣いて、涙も枯れた。ひくりひくりとまだ呼吸は忙しないけれど、震えはようやく止まった。瞼が重いから、きっと赤く腫れ上がっているだろう。
「大事ないか」
冨岡さんが、ようやく私の身体を少しだけ離す。そして私の肩、腕、そして手首へと、まるで壊れ物を触るような手つきで隅々まで調べ始めた。
「脚は…?腕は動くか?」
「えっ、あの……冨岡さん……っ」
あまりの必死さに、私は戸惑いながら身をよじらせた。
冨岡さんは最後には私の両頬を大きな掌で包み込んで、顔をじっと見つめてくる。
「…大きな傷はないようだな」
私の顔に傷がないことを確認すると、冨岡さんはようやく安堵の息を吐き出した。
たしかに、脚や腕は木の枝で擦れて少しひりつくけれど…。幸い、大きな怪我はしていない。
「どうしてここが……?」
「これを、道中で拾った」
掠れた声で問いかけると、冨岡さんは包み込んでいた私の頬からそっと手を離し、懐から何かを取り出した。
彼の掌の上にあったのは、以前彼から贈られた大切な桜の帯留めだった。月明かりを反射して、泥にまみれながらも淡い光を放っている。
私は咄嗟に自分の帯元に手をやった。確かにそこにあったはずの感触がない。必死に森を駆け抜ける途中で、どこかに落としてしまっていたみたいだ。
「すみません、すごく大事なものだったのに……」
「いや、おかげでお前の足取りが分かった。…寛三郎が見つけたんだ」
そう言って冨岡さんが視線を投げた先、彼の後ろにいた鎹鴉の寛三郎さんが、どこか誇らしげにバサリと羽を広げる。
そうか、鴉は光るものが好きだというから…。きっとこの帯留めが、暗い森の中で道標になってくれたのだろう。
「ありがとう、寛三郎さん……」
「お前が捕らえられていた蔵の位置は、あの薬屋に吐かせた。…神崎から話を聞いてすぐに向かったが、それでも遅かったな。…すまない」
「いえ、そんな……」
「男たちはどこだ?」
「あ、それが……逃げてる間にどこかへ……」
「…そうか」
その優しい声音に、私は改めてこの人の凄絶なまでの強さを思い知る。
アオイさんから事情を聞き、藤堂さんを捕らえて蔵の場所を吐かせ、広大な森の中から落とした帯留め一つを頼りに私を見つけ出した。そして、あの恐ろしい鬼さえも、一瞬のうちに葬ってしまった。
そのすべてを、彼はたった一人でやってのけたのだ。
「男たちは後日必ず見つけ出し、しかるべき役所に突き出す。相応の報いを受けさせるから安心しろ」
「ありがとうございます……。本当に、何から何まで……」
そう言いかけると、冨岡さんはふと、私の泥だらけになった手をその大きな掌で包み込んだ。
「高月」
「……はい」
「生きていてくれて、良かった」
感極まった私の瞳から、また大粒の涙がこぼれ落ちた。
冨岡さんがいてくれなければ、私は今頃どうなっていたか分からない。命があったとしても、心はもう壊れてしまっていたかもしれない。
「…寛三郎。すぐ蝶屋敷へ向かえ。高月を保護した、じきに戻ると伝えろ」
冨岡さんが鋭い声で命じると、寛三郎さんは力強く羽ばたかせた。その迅速な判断を横目で見ながら、彼女たちのことを思い出す。
…アオイさん。なほちゃん、きよちゃん、すみちゃん。しのぶさんやカナヲさんが不在の中、どれほど心配をかけてしまっただろう。アオイさんが、冨岡さんに助けを求めに行ってくれてなかったら…。
それを考えれば、一刻も早く顔を見せて、安心させてあげなければならないのは分かっている。分かっている、けれど。
「…ま、待ってください冨岡さん」
立ちあがろうとした彼の羽織の裾を、私は離したくないという意志を込めてぎゅっと握りしめた。
「……まだ、一緒にいてください。帰りたく、ありません……。そばに、いてください……いえ、帰らなきゃいけないのは分かっているんですけど……」
蝶屋敷に帰るのが怖い。男の人が怖い。鬼の声が忘れられない。自分を物のように扱い、嘲笑ったあの声が耳から離れない。
けれど皮肉なことに、その恐怖を拭い去ってくれるのもまた、冨岡さんという一人の男性の存在だけだった。
「……身勝手なことを言って、すみません。でも、今だけは……」
震える声でそう付け足すと、冨岡さんは立ち上がろうとする動きを止め、再び私の前に膝をついてくれた。それから、自らの羽織を脱ぐと、それを私の肩にふわりと掛ける。
「寛三郎。伝言を変える。……高月は、今夜このまま俺の屋敷へ連れ帰る。神崎たちには、明日改めて俺から送り届けると伝えろ」
バサバサ、と翼を打つ音が聞こえ、寛三郎さんが承知したように一度鳴いて夜の闇へと消えていく。
そのやり取りを呆然と聞きながら、私は瞳を大きく見開いた。
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