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私は夢を見ると、その内容をよく覚えているほうだ。というよりも、ここに来てからそう変わってしまった、というのが正しいのかもしれない。
元の時代にいた頃は、夢を見ても内容はまるで覚えていなかった。目が覚めると同時に景色は消え去って、怖かったとか、悲しかったとか、そういう曖昧な感情だけが微かに残っているくらいで。
けれど、ここに飛ばされてきてからは、一度見た夢の映像や誰かの声が、起きたあとも頭の中にくっきりと焼きついて離れないことが増えた。どこか気が張っているせいなのか、それとも、心が無意識に過去や未来を繋ぎ止めようとしているからなのか。
とはいえ、普段から毎晩のように夢を見ているわけじゃない。
私の眠りは基本的には深くて、布団に入れば朝まで一度も起きないことのほうが多い。毎日体を動かしてくたくたになって眠るから、夜の間はずっと真っ暗な底に沈んでいるような感じだ。
だからこそ、たまに見る夢は、目を覚ましたあとも現実との境目が曖昧になるほど鮮明で――昨夜見たものも、まさにそうだった。
暗闇の中を、私はただ必死に走っていた。背後から迫り来る、得体の知れない気配。振り向かなくても分かる。あれは絶対に捕まっては駄目なものだと。
けれど、足をどれだけ前に踏み出しても、泥に足を取られているかのように身体が重く、まるで前へ進まない。
逃げなきゃいけない。そう頭では分かっているのに、背後との距離は走れば走るほど、縮まっていく。
闇の奥から伸びてくる冷たい爪が、首筋に触れそうになった瞬間。
「っ……!」
ふいに目を開けると朝だった。
息を呑みながら跳ね起き、胸元をぎゅっと掴みながら荒くなった呼吸を整える。肌に張りつく浴衣の感覚に、全身が嫌な汗でびっしょり濡れていることが分かった。
見慣れた部屋を見回し、自分が布団の上にきちんと座っていることを確認して、ようやく小さく息を吐き出す。
…久しぶりに、随分と後味の悪い夢を見てしまった。夢だと分かってからも、胸のざわつきはすぐには収まってくれそうにない。
何だったんだろう、あの夢。何から逃げていたのかも、正体が何だったのかも分からない。
けれど、迫ってきたあの本能的な恐怖はどこか、ここで恐れられている鬼と似ているなと、少しだけ思った。姿形を見たわけじゃない。鬼と出くわしたことのない私に、その本当の恐ろしさなんて分かりっこないはずなのに。
「……お風呂、入ろ」
小さく呟いて、身体を起こす。
昨夜も寝る前にきちんとお湯に浸かったばかりだが、この嫌な汗はどうしても綺麗に洗い流してしまいたかった。足の裏に触れる畳の感触を確かめながら、着替えの薄紅の着物を抱えて立ち上がる。
湯気の中に潜り込んでしまえば、この胸のざわつきも少しは晴れるだろうか。
*
「あちこち歩き回ったね」
「そうですね。でも、お祭り気分だけは感じられてすごく楽しかったです」
手にした買い物籠の重みを確かめながら、並んで歩くきよちゃんが嬉しそうに目を細めた。買い出しを終えて屋敷へ戻る山道は、すっかり秋の色に染まっている。
麓の町では、ちょうど秋祭りの真っ最中だった。この地域では春夏秋冬、季節の変わり目に年四回のお祭りがあるらしい。
この時代に飛ばされてきたばかりの冬、一人で買い出しを頼まれたのが最初だった。春の祭りは見逃してしまったけれど、夏は――あの、忘れられない花火。
そして今日、買い出しの合間に祭の活気に触れて、秋の訪れを無事に肌で感じることができた。
そのおかげか、今朝のあの悪夢の記憶もいつの間にか綺麗に消え去っていた。
ふと、きよちゃんが大事そうに両手で抱えている小さな紙包みに視線が留まる。
「そう言えばきよちゃん、さっき何か買ってたよね。何買ったの?」
「ふふ、これですか?」
きよちゃんは悪戯っぽく笑って、包みの口を少しだけ開けて見せてくれた。
中から、ほくほくとした湯気とともに、香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。
「焼き栗です。美味しそうだったので、みんなで分けて食べようと思って。お土産です」
「わあ、いいね。絶対みんな喜ぶよ」
湯気の向こうで誇らしげに笑う顔を見つめながら、私は歩幅を合わせて山道を登っていく。
「リサさんは、何も買わなくて良かったんですか?しのぶ様からいただいたお小遣い、まだたくさん余ってますよね」
「うん。今朝ちょっと欲張って食べすぎちゃって、お腹いっぱいで何か食べる気になれなかったんだよね」
「ふふ、そうだったんですね。朝餉の時、ごはんおかわりしてましたもんね」
「う、よく見てるなあ……」
「元気な証拠ですよ!」
屈託のない笑顔に苦笑を返しながら、きよちゃんが抱える紙包みへもう一度視線を落とす。
「でも、それを見てたら、やっぱり何か買えば良かったかもって思ってきちゃった」
夏の祭りの時に立ち並ぶ屋台を片っ端から見て回ったから、今日はもう十分だと思っていたし、あちこちに目を輝かせながら小走りで巡るきよちゃんの姿を、後ろから微笑ましく眺めているだけで十分だったのだ。
けれど、甘くて香ばしい匂いを間近で嗅いでしまうと、やっぱり素直に食欲を刺激されてしまう。
「あ、でもカナヲさん。残念だったね。一緒に行く約束してたのに、急に任務が入っちゃって」
「そうですね……。でも、次は冬があります!冬のお祭りはすっごく寒いんですけど、温かい甘酒とかお汁粉の屋台がたくさん出るんですよ」
「へえ、そうなんだ!」
雪の降る景色の中で、今度はみんなで肩を寄せ合って歩く姿が容易に目に浮かぶ。
「次は、みんなで来られたらいいね」
「はい!すみちゃんもなほちゃんも誘って、みんなで行きましょう!」
満面の笑みで頷くきよちゃんに、私も自然と口元が緩む。
…できれば、しのぶさんも一緒に行けたらいいけれど。柱の仕事の忙しさを思えば、やっぱり難しいだろうか。
そんなことを考えながら、木々の隙間から覗くどんよりと曇った空をぼんやり見上げていると。
「……ああっ!!」
突然、きよちゃんが大きく目を見開いて足を止めた。
「ど、どうしたの急に?」
「く、薬屋さん……!寄るのをすっかり忘れてました……!そのための買い出しだったのに!」
「えっ!ほ、本当だ!」
きよちゃんの悲鳴に、私の頭からも一気に血の気が引いた。
今朝、アオイさんから「調合用の薬が足りなくなりそうだから買ってきてほしい」ときよちゃんが頼まれていたのだ。ひとりで山を降りるのは心配だからと私がついていくことになり、ついでに夕餉の食材も頼まれて――。
お祭り気分にすっかり浮かれて、肝心の一番大事な役目を忘れてしまうなんて。
籠の中に入っているのは、根菜や豆腐、それからきよちゃんが大事そうに抱えている焼き栗だけ。肝心の薬の包みが、どこにも見当たらない。
「ど、どうしよう……アオイさんに怒られちゃいます」
「大丈夫!今から私が急いで戻って買ってくるよ。いつもの藤堂さんのお店でいいんだよね?」
「そ、そうですけど……でも、リサさんを一人で行かせるなんて」
きよちゃんは眉を八の字にして、申し訳なさと不安が入り混じった顔で見上げてくる。
山道を行ったり来たりさせるのは、小さな足のきよちゃんには酷だ。ただでさえ夕暮れが近づいていて、二人で戻って買い直して登り直す時間は惜しい。
「ほら、このお買い物籠をきよちゃんは先に屋敷へ届けてあげて。夕餉の支度もあるし、アオイさんにも『薬は今買い直してる』って伝えてもらえたらきっと大丈夫だから」
「……はい。ごめんなさい、私がお祭りに気を取られちゃったせいで……」
「ううん、私だってすっかり忘れてたんだからお互い様だよ」
手に提げていた買い物籠をきよちゃんに手渡し、私は懐の巾着を確かめた。
以前にしのぶさんから預かったお小遣いは、まだ十分に残っている。アオイさんがきよちゃんに託したお買い物メモもこの中にある。
小さく息を吸い込み、私は登ってきたばかりの山道を駆け足で引き返した。背後から「気をつけてくださいね!」と叫ぶきよちゃんの声が届き、片手を上げて振り返りざまに応える。
日が落ちるのが本当に早くなった。薄暗い木々の間を縫うように下りながら、私は額に滲む汗も拭わずに足を速めた。
***
庭の物干し竿から取り込んだばかりの洗濯物を抱え、私は縁側へと足を踏み入れた。
空を見上げれば、昼間の晴れ間が嘘のように鈍色の雲が垂れ込めている。山の天気は変わりやすいとはいえ、今にも冷たい雨が落ちてきそうな気配だった。
「ただいま戻りました……!」
玄関のほうから、息を切らした声が響く。向かうと、買い物籠を両手でしっかりと抱え、きよが駆け込んできたところだった。
「おかえりなさい。お買い物ありがとう」
「お帰りなさーい!良かったです、雨が降りそうでしたから降られる前に間に合って」
奥から小走りで顔を出したすみとなほも、安心したようにきよを取り囲む。
きよは籠を土間に置くと、大事そうに懐から包みを取り出して、ぱっと顔をほころばせた。
「あのね、これ、みんなにお土産なんです。町の屋台で買ってきた焼き栗!」
「わあ、焼き栗!」
「いい匂い、まだ温かいですね!」
歓声を上げるふたりに囲まれ、きよも嬉しそうにはにかんでいる。
微笑ましいそのやり取りに目を細めながら、私は土間へ視線を戻した。けれど、そこに並ぶはずの履物がもう一足足りない。
「あれ、リサさんは?一緒じゃなかったの?」
問いかけると、きよの笑顔がふっと消え、申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、実は……本当にごめんなさい、アオイさん。お祭りに気を取られて、頼まれていた調合用の薬を買うのをすっかり忘れてしまって……」
「えっ」
「一緒に戻ろうとしたんですけど、リサさんが『荷物を先に屋敷に届けて』って、一人で町へ買いに戻ってくれたんです。藤堂さんのお店ならすぐだから、って」
きよの言葉が耳に落ちた瞬間、私の頭からすっと血の気が引いた。
「……え、リサさんを、一人で町へ行かせたの?」
「は、はい。あの、やっぱり駄目でしたか……?」
青ざめた私の表情に怯えたように、きよがおずおずと尋ねてくる。すみなほも異様な空気を察したのか、栗の包みを抱えたまま口を閉ざした。
「う、ううん。駄目じゃない」
はっとして、慌てて平静を装いながらきよの肩を軽く撫でる。この子たちに余計な怯えや動揺を悟られるわけにはいかない。無理に口角を持ち上げ、いつもの口調を意識して声を張った。
「ほら、みんな。お土産の栗は夕餉のあとにいただくことにして、まずは台所を片付けよう。雨が降り出す前に火を熾したいわね」
「はい!」
きよもようやく安堵したように表情を緩め、すみなほと顔を見合わせながら買い物籠を抱えて小走りで台所へと向かっていく。
ぱたぱたと廊下を駆けていく三人の背中を一人見送りながら、自分の表情からすっと笑顔が消えるのを感じた。
…そう。普段なら何の問題もない。リサさんだって町までの道は何度も通い慣れているし、ただ買い出しの忘れ物を取りに戻っただけだ。
けれど――昨夜、任務へ発つ直前のことだ。しのぶ様が、酷く真剣な光を瞳に宿して自分に下した指示があったのだ。
『アオイ。私が留守の間、リサさんを絶対に一人にしないでね』
…と。
理由は教えてもらえなかったけれど、あのしのぶ様がわざわざ念を押すほどのことなのだ。
おそらく、今はまだ警戒の段階。町にも蝶屋敷の周辺にも、表立った異変など何も起きていない。そういう話を聞いたこともない。大丈夫なはずだ。たかが一本道の山道を往復するだけなのだから。
…けれど。窓から見上げる空は、いよいよ黒さを増し、湿り気を帯びた風がざわりと木々を揺らしていた。ぽつり、と乾いた地面に雨粒がひとつ落ちる。
大丈夫、だよね?
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