92
…だって、仕方ないだろう。それがいちばん良いことなのだから。彼女の幸せを願うならば、当然の選択だ。
去っていく背中は、一度も振り返らなかった。慌ただしい足音が遠ざかり、やがて門の戸が勢いよく閉まる。普段なら、触れるものすべてに気遣うような彼女が。木戸が軋むほど乱暴に音を立てたのは、それが初めてのことだった。
足元では、驚いて飛び立った寛三郎が水飲み場の縁に止まり、首を傾げてこちらを見ていた。
「……喧嘩シタノカ」
「してない」
「泣イテ、イタゾ」
「嫌われていい。その方が、あいつのためだ」
「馬鹿ジャノウ、義勇ハ」
だが、事実だろう。俺は、最後には泣かせてしまう。それはもうずっと前からだ。残念ながら、今に始まったことじゃない。
あんな顔をさせたいわけではなかった。傷つけたいわけでもなかった。だが、俺の口から出る言葉はいつも過不足なく足りず、最悪の形で相手の胸を抉る。
『冨岡さんは何かを閉じ込めてるんですか?箱庭に、大切なもの』
ただ、こちらの言葉を拾い上げ、純粋な疑問として投げ返されたその一言に我に返ったのだ。
未来をくれてやる覚悟もないくせに、完全に突き放すこともできずに。真っ当な世界へ帰してやらねばならないと頭では分かっているのに、一体、何をしているのかと。彼女のために胸に仕舞うと決めたのなら、最後まで殺しておくのがお前だろう。
訪ねてくれば門を開け、こうして隣に座らせ、手入れをする刀に気を取られるふりをして、すぐ隣にある柔らかな体温に安堵する。生殺しのように縛りつけ箱庭に閉じ込めているのは、俺の方だ。
掴めない。その手を掴むことは、間違っている。俺は、掴んではいけない。もし仮に、彼女の手を取ったとして、味わわせてやれる平穏などほんの一瞬。水に落ちた砂糖が跡形もなく溶けて消えてしまうみたいに。飴玉が口の中で溶けてなくなってしまうみたいに。
最初は笑って暮らせたとしても、最後には必ず彼女を泣かせることになる。
『私も隊士になっていたら、って思うこともたまにあるんですよ』
…馬鹿を言うな。お前はそういうやつだ。無謀で、鈍感で、自分の命の軽さをこれっぽっちも分かっていない。痛い目をみたばかりだろう。
そんな身体で、鬼の爪がどれほど深く肉を裂くのかも知らずに。呼吸の負荷にすら耐えられないくせに。
守りきれずに彼女を失う姿を想像しただけで、胸が締めつけられて息ができなくなった。
手放さなければならない。鬼の影など届かない、真っ当な場所へ。彼女の他愛のない話に笑って耳を傾け、温かい飯を食わせ、白髪になるまで添い遂げてやれる誰かに。
今はささやかな所有印を刻む程度で何とか思いとどまり、必死に理性を保っている。だが、それもいつまで持つか分からない。
触れればもっと深く求めたくなる。閉じ込めたくなる。誰の手にも渡したくないと、どこへも行くなと、押し込めてしまいたいと願ってしまう。手放すべきなんだ。
俺は言葉が足りない。わかっている。勘違いばかりをされて、もうたくさんだ。だからこそ、こんなときは簡単だった。
『残酷なことを、言うんですね』
俺が、それを本当に望んでいると思うか。口にしかけた言葉は言えなかった。
『冨岡さんの考えていること、私分かりますよ。後悔してるんです』
ああ、そうだ。後悔してる。鬼殺隊なんかに連れてくるべきではなかった。最初から、判断を間違えていたんだ。
高月は太陽の下で笑っているのが一番似合う。俺はせいぜい、真夜中にひっそりと月明かりを探し、彷徨っているくらいがちょうどいい。
そこまで物事に執着する性分ではなかった。俺が大切にしている人間など片手で数えられるほどでいい。けれど、そのひとりに、やはりお前は入ってしまったんだな。
心から彼女には幸せであってほしいと思ってる。文字どおり、「心から」。幸せだといいなという意味ではなく、心から微笑むことができるよう心底幸せでいてほしいと思う。
だが、あの冬杜という男だけは駄目だ。だからこその、俺を勘定から省いた上での「宇髄以上、悲鳴嶼さん未満」だった。
これ以上、引き延ばすわけにはいかないのだ。もっと早くに線を引けなかったせいで、この関係で負った傷はすべて俺ひとりが背負って持っていく。お前の胸に刻まれる痛みすら、俺を忘れるための擦り傷程度で済むのなら。
だから、早く忘れろ。ただ、あるべき姿へ戻るだけだ。
「義勇ゥ」
「うん、わかってる」
頭を冷やしたい。水面だ。澄み切った水面であれ。心の乱れは刃を鈍らせる。…そうですよね、先生。
深く、ゆっくりと息を吐き出す。波立つ水面を押し鎮めるように、肺の奥から熱を逃がしていく。すべては水底深くに沈めて、二度と浮かび上がらないように蓋をすればいい。
彼女はいつか笑えるようになる。俺のいない場所で、誰かと、幸せを手に入れて。俺という存在など、通り雨のように綺麗さっぱり忘れ去ってくれればそれでいい。それが本来の筋道だ。最初から、何も狂ってなどいない。
縁側から立ち上がり、手入れを終えた刀を握り直す。無心で木刀を振るか、冷たい板の間で瞑想でもすれば、この燻る熱も少しは鎮まるだろう。
そう思って、道場へ向かった。数時間、無心で刀を振った。汗を流し、息を乱し、雑念を削ぎ落とそうとした。
だが、座り込んでも浮かんでくるのは彼女の顔ばかりだった。
そして今、道場の戸が激しく音を立てて開いた。なぜか高月が肩で息をして、そこに立っていた。
***
こんなに走ったのは、いつぶりだろう。
息が苦しい。肺が張り裂けそうで、喉の奥が鉄の味でいっぱいだった。足がもつれて何度も転びそうになりながら、ただ、一秒でも早く戻らなければと、それだけの思いだった。
足を動かすたびに、あの花火の日がよみがえる。土砂降りの雨が降り注ぐ中、人混みを縫うようにして私の手を冨岡さんは力強く引いた。
濡れて重くなった浴衣も、冷たく肌に張り付く雫も、彼に手を引かれて走るその前には何の意味もなさなかった。
雨は嫌いだった。冷たくて、どんよりした気分になるから。けれどあの日、私の世界は塗り替えられてしまったのだ。
雨が降るたびに、あの日を思い出して、心がぎゅっと温かくなるくらいに。
何度も、私を引っ張り上げてくれたのは誰だった?凍えそうな雨のなかで、その手のひらのあたたかさを教えてくれたのは誰だった?
全部、冨岡さんじゃないか。傷つくのが怖いからって引き返したら、今度こそ彼の背中に追いつけなくなる。
「冨岡さん……っ!」
叫びとともに、道場の戸を勢いよく滑らせた。
板張りの真ん中に、彼はいた。瞑想するように閉じられていた瞳が、私の呼ぶ声にぱちりと開かれる。持ち上がった青が、信じられないものを見るように私を捉えた。
…よかった。まだいた。それだけで視界が滲みそうになりながら、私は彼めがけて一直線に駆け寄った。
「とみっ、冨岡さ……げほ、ごほっ」
彼の目の前に膝をつくと、とっくに限界を迎えていた肺が悲鳴を上げる。
震える。身体も、心臓も、ずっとずっと震えてる。それ以上に心が、いまにも弾け飛びそうなほど脈打っている。
でもね、それさえも私があなたを諦めずに走ってきた証拠みたいで。ちゃんと追いつけたんだって思ったら、それだけで嬉しかった。
「とみっ、とみおか、さ。あのっ」
「帰ったんじゃなかったのか」
驚きに目を見張ったままの冨岡さんが思わず、といったように身を乗り出してきた。背中に、大きい手のひらがそっと当てられる。ゆっくりとさすってくれるその手の温かさに、泣きたくなった。
まだ、そんな顔を私に向けてくれるんですね。心配そうに下がった眉尻が。穏やかな声が。まだ、自分に向けられているとわかって安堵する。
「帰ったけど、すぐに戻ってきました!冨岡さんっ、あの……言いたいことが、げほっ」
「とりあえず落ち着け。息を吸え」
「でも……っ」
言葉を紡ごうとするたびに咳き込んでしまう。早く伝えないと、早く言わなきゃいけないのに、肝心の身体が言うことを聞いてくれなくてひどくもどかしい。
「まず水を飲め。今持ってきてやる」
「まっ、待ってください行かないで……っ!」
無我夢中で手を伸ばし、彼の羽織の合わせ部分をぎゅっと掴んだ。
行かせられない。今、言わなければ。水なんて飲んで、息を整えて、冷静になんてなってしまったら、また言葉を呑み込んで、何も言えなくなってしまう。
ただならぬ私の様子に、冨岡さんは引こうとした身体を止めた。それ以上は何も言わず、再び膝をついて私の背中をさすり続けてくれる。
荒い息を一度、深く吐き出した。握りしめた羽織に力を込める。
「冨岡さん」
「……うん」
「あの、冨岡さん」
どうやって話そう、とか。なんて言葉で始めよう、とか。そんなものは全部吹っ飛んでしまった。冨岡さんを前にすると感情が纏まらなくなる。ぐちゃぐちゃになって、絡まって、すごくみっともない。
本当だったら恥ずかしいとか隠したいとか思うのかもしれないけれど、なんでだろう。彼には、どうしようもなく伝えたくなるんだ。
「さっきはごめんなさい」
嘘をついた。冨岡さんが無責任だなんて、これっぽっちも思っていないのに。
冨岡さんは黙ったまま、伏せた瞳をかすかに揺らす。
「冨岡さん、いつも何を考えてるのか全然わからないし、急に冷たくなるし、今日だってすごく酷いこと言うからカチンときてしまって」
「……ああ」
「でも、わかってます。私をわざと突き放そうとしてるんだってことくらい」
背中をさすっていた彼の手が、ぴたりと止まった。
本当に、どこまでも不器用な人だ。自分が悪者になって嫌われさえすれば、私が離れていくとでも思ったのだろうか。
それなら、もっと冷酷に、跡形もなく断ち切ることだってできたはずだ。彼はそれができる強さも立場も持っているのに、そうはしなかった。
「冨岡さんは、川なんです」
「……うん?」
「海でもあります」
そう続けて顔を上げると、彼はますます眉間に皺を寄せ私を見つめ返した。
「……俺は川で、海なのか」
「はい。すごく深くて、流れが速いんです」
本当に速くて、激しくて、困ってしまう。だから、追いつこうと必死にもがいているうちに、私はいつの間にかあなたの深さに呑まれてしまっていた。底が見えないことが、ただ怖かった。
だから、勘違いしてしまうのだ。溺れそうだと。彼が急に冷たくなったわけでも、遠くへ行ってしまったわけでもない。最初からずっと、彼はこの深さの中でたった一人、立っていたのに。
「たくさんのことを頭の中できっと考えているんですよね。私には想像もつかないくらい」
彼は変わってない。変わったのは、私が見ている彼の深さの方。勝手に決めつけて、浅瀬だと思い込んでいたのはこちらの方。
「冨岡さんの線引きが中途半端だった理由もそれなんだってわかります。どうしてそんなに思わせぶりなことばかりするんだろうって、何度も悔しくなりましたけど、今ならわかります」
拒絶するような言葉を投げつけてくるくせに、本気で私を遠ざけようとはしなかった。扉を閉ざすような態度を取りながら、指先ひとつ分の隙間をどうしても残してしまう。
あの迷いや揺らぎの本当の意味に、ようやくたどり着いた気がした。
「私との間に線を引いていたんじゃなくて、冨岡さんが自分自身に線を引いていたんだって」
だから、あんなにも言動に一貫性がなかったのだ。誰かを突き放したいわけじゃない。ただ、自分を律して、自分が誰かに触れてしまうことを、自分が踏み込んでしまうことを、彼自身が許せなかったのだ。
周りの人はみな、その線を「壁」だと勘違いしてしまうのだろう。けれど違う。彼は他人を締め出しているんじゃない。自分を断ち切っているだけなのだ。
確かにそうすれば、誰かを傷つけることも、失う痛みに怯えることもない。けれど、そんな生き方はとても虚しい。
「でも、冨岡さんが自分のことをそうやって切り捨てたら、誰が拾ってあげるんですか。自分のことは自分が一番大切にしてあげなきゃいけないんですよ」
覚悟の差、なのかもしれない。明日を当たり前だと思える私と、そんな明日を守る冨岡さん。そもそも見ている地平が違う。
私たちの何気ない日常を守るために。その覚悟があるからこそ、彼は自分の幸せや、誰かと分かち合うはずの温もりを、平気な顔で置き去りにしていく。
その生き方を、否定したいわけじゃない。やめてほしいとも、無理に変わってほしいとも思わない。だって、その手に守られてきた人たちが大勢といるのだから。
けれど、彼が私たちを守るために、自分自身の幸せを切り捨てていってしまうのだとしたら。
「そんなの、駄目です。私が拾います。冨岡さんがいらないって捨てちゃっても私がぜんぶ拾って、大切にします」
あなたが捨てていくものを、私が隣で抱えていれば、あなたは何も諦めなくて済む。
そうすれば、あなたの足元からは何も失われていないはずだから。全部、私が持っているから。
「それで、冨岡さんがやっぱり返してって言うまでちゃんと大切に持ってます」
落としたりしないように、埃がつかないように、胸の真ん中でぎゅうって抱きしめて温めておくんだ。
重たくたって平気。私の腕が塞がっちゃったって構わない。ちゃんと、一番綺麗なままで取っておく。だから。
「だからもう、そんな悲しいこと言わないでください。自分を責めるのも、無理に突き放そうとするのも、もうやめて。可哀想です、冨岡さんが。誰にも弱音を吐かないなんて……そんなの、見ているこちらのほうが胸が張り裂けそうなんです。誰かのために命を削るのがあなたの役目だとしても、あなた自身を幸せにする役目を、誰も引き受けないなんてあんまりです」
何かを背負い直す必要なんてない。だから、ただ、私があなたの隣に立っていることだけを、どうか許してほしい。
「冨岡さんが優しいのは、誰よりも知ってます。ご自分にももう少し優しくなれませんか?」
「……やめろ。お前が俺に向ける感情は全部、買い被りだ」
それまで黙っていた冨岡さんは、背中に当てていた手をするりと下ろした。そして、私の手をほどくようにして羽織を取り戻すと、深く腰を落とし視線を伏せる。
拒まれた指先が、冷気に晒され冷えていく。
「それを、言いに来たのか」
「……はい」
「息を切らして、ここまで走って。それを言いに戻ったのか」
「は、はい」
下を向いたままの冨岡さんは、どこか思い詰めたような顔をしていた。どことなく、苛立っているようにも見えて少し怖い。
「そのまま逃げていればよかっただろう。俺の言動に振り回されて、嫌気が差したはずだ」
「でも、私まで冨岡さんのことを切り捨てたくなかったから……」
突き放して、突き放されて。そんなやり方、もうこりごりだ。
消え入りそうな私の声を拾い上げた冨岡さんは、重い吐息をすべて吐き出した。やり場のない感情まで吐き出すようなその仕草に、空気まで重く沈んでいく。
「俺は、そんないいものじゃない。……これ以上言っても無駄だ」
もどかしい。踏み込むたび一線を引かれてしまう。どうしたら、伝わる? 一人で重たそうに背負っているものを、どうしたら分けてもらえる?
「別に、綺麗なところだけ見たくて戻ってきたわけじゃないです」
どこが好きかって聞かれてもそんな大層な理由じゃない。隣にいるだけで胸の奥があたたかくなって、へこたれそうだった足元にちゃんと力が入って。ずっとこのまま続いてほしいと思えるくらい心地がいい。
「ただ隣にいて、同じ空気を吸って、明日もまた頑張ろうって……それだけじゃ駄目ですか?私が冨岡さんの傍にいたいって願うことすら、駄目ですか?……迷惑ですか?」
私の差し出しているものは、そんなに迷惑ですか。私の気持ちは、あなたにとって、それほど恐ろしいものですか。
伏せられた彼の濃い睫毛が揺れる。沈黙でやり過ごそうとするその顔から、絶対に視線を逸らすまいと見つめ続けた。
「私のこと、嫌いですか?」
「……ああ」
意外にもすぐに返答が返ってくる。それだけで終わらせればいいものを、まるで自分を追い詰めるように、彼は乾いた言葉を継ぎ足していった。
「迷惑だった」
「冨岡、さん……」
「ままならないんだ。最初から。苦手だった」
喉の奥がきゅうと縮こまる。そんなふうに思われていたんだと悲しくて、けれどもっと奥に隠れた何かがあるような気がして、ただ黙って見つめ返す。
「話が通じない」
「……」
「勝手に踏み込んでくる。放っておけば死にそうになる」
「……」
「調子が狂う。目障りだ、ずっと」
決していい言葉ばかりではない。けれど、なぜだろう。どうしてか貶されているようには聞こえなかった。
伏せられていた瞳がすっと持ち上がって私を捉える。
「……眩しくて、堪らないんだ」
ぽつりと落とされた声は、ひどく掠れていて。
目障りだなんて言いながら、私を見るその瞳は全然怒ってなんかいなかった。ただ困り果てて、どうしようもなくなって、ひどく淋しそうに揺れている。
たまらなく泣きたくなった。迷惑だったのも、調子が狂ったのも、全部本当。でも、嫌いだから突き放したんじゃない。
目に幕が張って、彼の輪郭が潤む。涙を堪える私を、冨岡さんが呆けたように見下げた。その眉根が切なげに寄って、酷く迷っているような瞳を見つめているうちに――そうか、足りなかったんだなと思い至る。
板間に手をついて膝を進める。私はためらわずに、胡座をかいたまま身動きひとつしない彼の腰へ、両手をきゅっと回した。
冨岡さんが息を呑んだ気配がするけれど、突き放されることはなかった。伝わってくる体温は、私の胸を痛くさせるくらい、やっぱりこの人の心と同じくらいあたたかい。
「好きです、冨岡さん」
額を胸元へと預け、逃げられないようにさらにぎゅうと腕に力を込める。
触れているところからじんわりと熱が溶け合って、強張っていた身体の隅々まで解けていくみたいで、ただそれだけで、泣きたくなるくらい胸がいっぱいになってしまう。
「私、こうしているだけで元気が出る気がします。……冨岡さんは、違いますか?」
ちゃんと伝えたい。逃げてばっかりで、与えてもらうばっかりで。私は今、返せているだろうか。彼がくれたことと同じくらい。ううん、それ以上。
「冨岡さんが『頼れ』って私に言ってくれたんですよ。だから、次は冨岡さんの番です。情けないところも、弱いところも、全部私に見せてください。壊れたりしませんから。……私、冨岡さんが思ってるよりずっと頑丈ですから」
冨岡さんもあの時、こんな気持ちで言ってくれていたのだろうか。
目の前で泣きそうになっている誰かを放っておけなくて、ただその痛みを肩代わりしてあげたくて。こんなにも胸がぎゅうと締めつけられるような思いで。
そう思ったら、堰き止めていたものが限界だった。ぽろぽろと、両目から溢れて止まらなくなる。頼ってほしいと言っている側なのに、しゃくりあげる声が胸元にこぼれて彼の隊服を濡らしていく。
「ここにいます」
鼻をすすりながら、なおもしがみつく。どうしようもない。本当に、ままならない。でも、不思議と胸の内は凪いでいく。
初めてですよ、こんなに体当たりで誰かを好きになったのは。
「ここにいます。どこにも行きません。好きです、冨岡さん」
ぎゅう、と隊服を握りしめ、しばらくの間静かな呼吸を聞いていた。
ひとしきりその温もりに縋って泣いていると、離れ時がわからなくなってしまった。
勢いだけで抱きついて、言いたいことも全部ぶちまけて。胸元を涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡らしてしまった今更、どんな顔をすればいいだろう。
恥ずかしい。でも、ここで自分から腕を解いて離れてしまうのも、なんだか怖い。
このまま一生こうしていたいような、でも早く離れて顔を隠したいような。どうしていいかわからず、彼の胸元に額を押し付けたままやり過ごしていると、私の両肩に躊躇うように重みが乗せられた。
引き剥がされるように顔を上げると、ぼやけた視界のすぐそこで、冨岡さんは私を捉えたまま瞳を揺らす。
ひどい顔をしていると思うから、あまり見ないでほしいと思うのに。なぜか、逸らせなくて。その瞳は、届かない光を遠くからじっと追っているみたいに、痛々しくて、澄んでいて。
「……泣くな」
我慢できないと言ったように落とされた声は、さっきまでの刺々しさはどこにもなかった。
肩から両手が持ち上がると、触れていいものか迷うように、そっと私の両頬を包み込んでくる。刀ダコで固くなった手のひら。私の目元を、親指の腹で丁寧に、何度もすくい上げるようにして拭ってくれる。
「泣くな」
その温もりが肌を通して伝わってくるたびに、せっかく拭ってくれたそばから新しい涙が零れ落ちてしまう。
そんなふうにされたら、余計に駄目だ。言われれば言われるほど、拭われれば拭われるほど、次から次へと溢れ出して止まらない。
「……泣くな」
困り果てたように眉尻を下げて、冨岡さんがもう一度呟く。親指がまたそっと目元を滑って、耳元まで流れていった。
「だって、冨岡さんがそんな顔をするから」
「……うん。泣くな」
すごく、淋しい顔をしている。その瞳に映る寂寥感を、どうにか取り除きたい。頬を包むその大きな手に自分の手を重ねる。
まだ、足りない?私の言葉じゃ、私の気持ちじゃ、全然足りてない?
もっと言わなきゃ、もっと伝えなきゃ。言葉を探して、零れそうな想いを受け止めてほしくて、視線を絡ませた私を冨岡さんはふいに引き寄せた。
落ちる影。重なる吐息。あまりにも自然に、躊躇いもなく、唇の上にそっと柔らかな感触が落ちる。
――え。
見開いた瞳のすぐ近くに、わずかに伏せられた彼の深い青色があった。あれほど溢れていた涙は、すっかり引っ込んで。固まった私の唇に冨岡さんは吐く息をまとわせながら離れていく。
どう、して?今、なんで口づけを?駄目、ですよ、冨岡さん。そんなの、そんなの。まるで……。
胸の奥がきゅうと痛む。言葉を紡ごうと震える唇へ、遮るようにまた彼の端正な影が重なった。
「ん……」
一度、二度、甘く擦り寄せるように重なってからゆるく下唇を啄まれて思考がひどく曖昧になっていく。
下から落ちそうな息ごとすくい取られ、下唇を挟まれ、食まれ、じわりと持ち上げられる感触に身体が震えた。
涙で濡れた私の唇はきっと冷たかったはずなのに、そこに触れる彼の唇は、驚くほど熱くて柔らかい。
冷えているはずの空気も、触れ合う息遣いも、どうしてこんなにあたたかいんだろう。
どう、応えたらいいのかわからない。こんなの、慣れてない。けれど離れたくもない。瞼を閉じて身を委ねるように寄せると、さらに口づけは深くなった。
縋るように彼の胸元を掴む。顎を少し持ち上げて、受け入れるように顔を傾けると、冨岡さんは逃げ場をなくすみたいに、私の後頭部へ大きな手を滑り込ませて引き寄せた。
押し当てられる唇の隙間から、ふいに熱い舌先が微かに触れて、小さく開いていた私の唇の間を割って入りかけた。
びくりと背中を跳ねさせると、驚かせたと気づいたのか、それ以上は踏み込んでこない。けれど離れてもくれなくて。
焦らすように、確かめるように、甘く何度も唇の端や中央を啄まれる。ちくちくと触れては離れるその感触がくすぐったくて、息がもたないくらい苦しいのに、もっと欲しくてたまらなくなる。
――まるで、愛されているみたいだ、なんて。そんなことを考えてしまう。
冨岡さんのほうからその距離を埋めてくれたことが嬉しくて、やっと受け入れてくれたような気がして、私の中にあった想いが際限なく溢れて止まらなくなる。
「すき、です」
もうそれしか言えなくなっていた。
「……好き、です」
うわ言みたいに繰り返して、なおも口づけの合間に息を吸い込む。
今なら、幸せすぎて死んでしまうんじゃないかと、そんなことを言っていた誰かの気持ちがわかると本気で思った。
「冨岡さん、すっ……」
小さく開いていた下唇を、少し強めに甘噛みされる。歯の硬さがはっきりと伝わってきて、思わず顔を離してしまった。
冨岡さんは名残惜しそうに私の頬を撫でてから、隊服を掴んでいた私の手をほどくように引き寄せる。胡坐をかいた足の間にすっぽりと身体ごと引きずり込まれ、背中に回された腕に力を込められた。
ずっと、ずっと欲しかった温度だった。全然、足りていなかった。この気持ちを伝えきれる言葉なんてこの世にないんじゃないかと思うくらい、胸が熱くて、苦しくて、たまらない。
私も指先をゆっくりと動かし、彼の広い背中へと腕を回した。ぎゅう、と自分からも力を込めて返すと、冨岡さんの腕がさらにひと回り強く私を閉じ込める。
耳を寄せた胸元から、とくとくと鼓動が直に伝わってくる。呼吸を整えようとしているはずなのに、ちっとも静かになってくれない。
「心臓、すごく速いです。冨岡さんでも、こんなにどきどきするんですね」
「……お前のほうが、ずっと速い」
「私のこれは、走ってきたからです」
ばれていたのが気恥ずかしくて、胸元にぎゅっと顔を埋めた。すると、頭の上に彼の顎が乗せられて、深く、長い吐息が髪を揺らす。
「飼い犬に、噛みつかれた気分だ」
「……噛みついたのは冨岡さんなんじゃ」
「拾った時はもっと大人しかった」
「……冨岡さんが頑固だから、こうなったんだと思います」
なんだ、最初からこうしていればよかったんだ。触れてしまえば、この人だって同じ血の通ったひとりの人間だった。
文句を言いながらも、抱きしめる腕はちっとも緩めてくれない。
「敵わない」
「敵わないのは、私のほうですよ」
こんなにも振り回されて、泣かされて、それでも嫌いになんてなれなくて。
「ずっと、冨岡さんの手のひらの上です」
腕の中にすっぽり収まったまま拗ねてみせると、頭を撫でる大きな手のひらが、不器用に、けれど愛おしそうに髪をすいた。
「……高月」
「はい?」
何を言おうとしているのだろうとゆるゆると顔を上げる。聞き逃したくなくて、その顔を見て言葉を受け止めたくて、身じろぎをしていると、バサバサとした羽音が遠慮がちに道場に滑り込んできた。
「ギユウ。日没ジャ」
板の上をトコトコと歩いてきたのは、寛三郎さんだった。首を傾げながら、抱き合ったまま固まっている私たちの手前で立ち止まり、しょぼくれた瞳でじーっと見つめてくる。
鴉だとわかっていても見られたことに変わりはなく、離れなきゃとその胸を押すのに、冨岡さんの腕は少しも解かれない。
それどころか、頭には変わらず重みを残したまま、寛三郎さんを見つめる。
「ギユウ」
返事のない彼に、寛三郎さんがもう一度、催促するように短く鳴く。ようやく、頭の上で小さく息が吐き出された。
「……そうだな」
冨岡さんは立ち上がりざま、私の両脇にそっと手を添えて、ふらつく身体を抱き起こすようにして立たせてくれた。
ふわふわとしたまま、呆けたように冨岡さんを見上げていると、寛三郎さんがまた『日没ジャぞ』と鳴いて、私の顔はさらに赤くなった。
「か、帰ります。……暗くなる前に」
「送る」
「だ、大丈夫です!」
「いや、送る」
「大丈夫です!自分で帰れます!」
「なぜ」
なぜ、じゃない。心臓が破裂してしまいそうだし、今すぐ床に潜り込みたいくらいなのに。
もごもごと口ごもり、俯いて赤くなっていく私に、大きな手がそっと伸ばされ触れる。
「そこまで言うのなら、わかった」
「……あの、冨岡さん」
胸元で両手を握りしめ、伏せていた視線をゆっくりと持ち上げた。
さっきの口づけも、抱きしめてくれた腕の強さも、全部がそれを教えてくれている。わかっているのに。拒まれないってちゃんと知っているからこそ、もっと聞きたくなってしまった。
「その……。また、ここに来てもいいですか」
「お前ならいつ来てもいい」
「……っ、はい」
返事をした声が、震えてしまった。まだ、夢の中にいるみたいで。許されたことが嬉しくて、けれど、心はどこか頼りなく揺れていて。
すべてが現実のものなのだと確かめるように息を吸い込めば、彼の匂いと、分け合った体温が胸いっぱいに満ちていく。
自分の心すべてを捧げたい人に出会った時、誰かになぜ、不確かなものに全てを委ねられるのかと聞かれたら、これからはにこりと笑ってこう言えるよ。
「ただ、ただその人が好きだから」
って。
あなたを幸せにしたい。それが、私の選んだ、たったひとつの道だった。
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