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「冨岡さん、私って白いですか?」
呆然と零れ落ちた私の呟きに、冨岡さんの手がほんの一瞬だけ止まる。擦られた油の匂い。拭い紙が鋼を滑る。
私の膝の上には、敷いた小さな座布団越しに、鴉の寛三郎さんが羽を丸めてすやすやと眠りについていた。
「……また質問か」
冨岡さんは目線を刀身に落としたまま、低く呟いた。呆れたような調子に見えて、その声音には咎めるような険しさはない。
「お前は、当たり前のようにここに居座るようになったな」
「鬼があまり出ないと聞いたので、もしかしてお暇かなって」
「……暇ではない」
「でも、屋敷に入れてくださいましたよね?」
少し意地悪く首を傾げて笑いかけると、冨岡さんは眉を寄せ、気まずそうに視線を逸らした。
「冨岡さんは天邪鬼ですね」
一度だけ行けたのだから、もう一度くらいなら大丈夫かなって。そんな淡い期待に背中を押されるようにして、お手紙もなしにまた訪ねてしまったけれど、冨岡さんは何も言わずに私を屋敷へと招き入れてくれた。
「あ、でも鬼は鬼でも冨岡さんは優しい鬼です」
「……そんな鬼はいない」
「いますよ。ここに」
その横顔は困っているようでもあり、私の戯言を受け流しながらも、ちゃんと相手をしてくれているようでもあり。
庭先に注ぐ柔らかな日差しと、心地よい風。肩が触れ合いそうなほどの距離で縁側に腰掛け、彼は刀を手入れし、私は膝の上の寛三郎さんを撫でる。
「それで、何が白いんだ」
刀身を拭う手を動かしたまま、冨岡さんが低く問いかけてきた。
「私です。自分ではあまりそう思わないんですけど」
尋ねてみると、冨岡さんは拭い紙を止め、じっと考え込むように視線を落とした。何を熟考しているのだろうか。ふっと視線をこちらに向けて、私の首元あたりを見つめる。
「……肌が白い。あと、指も、うなじも」
確かに、この夏は屋敷の中の仕事ばかりで、外へ出る機会があまりなかった。日焼けをしていないのは自分でも分かっているけれど、そんな風に観察されていたなんてなんだか恥ずかしい。耳の奥から、じわりと熱が滲んでくる。
「ぶ、物理的な色の話じゃなくて……内面のことです。雪くんが私を真っ白だって妙に真に迫って言うので、気になっちゃって」
「……あいつか」
名前を出した瞬間、冨岡さんの声の温度が一段低くなった。
そういえば以前、雪くんの話を少しした時も、こんな風にあからさまに空気を冷たくしていたっけ。名前を出すと機嫌を損ねるのをすっかり失念していた。
「放っておけ。箱庭に閉じ込めたいだけだ」
思わず首を傾げてしまう。
雪くんの「真っ白」の意味もよく分からなかったけれど、冨岡さんの「箱庭」も同じくらい意図が掴めない。この人もこの人で、時々唐突に難解なことを言い出すから困ってしまう。
膝の上の寛三郎さんが羽を小さく震わせるのを感じて、私はその背を撫でた。
「箱庭って?」
「色がついてないものは外に出せば汚れる。汚したくないから、手元に置いて囲い込む」
「あまりよく分かりません……」
「そう見えるなら、それでいい」
壊れやすい宝物を、自分だけの場所に隠して鍵をかけるみたいなことだろうか。
そう考えると、なんだか少しメルヘンチックというか、この人には似合わない言葉選びな気がする。
「冨岡さんは何かを閉じ込めてるんですか?箱庭に、大切なもの」
瞬間、木漏れ日の揺れる縁側の空気が凍りついた。
何かまずいことを聞いてしまったのだろうか。自分では決して変なことを尋ねたつもりはなく、彼の口から出た言葉をそのまま拾って問い返してみただけなのに。
冨岡さんが手元の鋼を見つめたまま、沈黙に沈み込んでしまっている。
「えっと、刀って重いですよね」
「……持ったことがあるのか」
「あ、はい。蝶屋敷でお掃除をする時に、少し移動させようと思って持ったことがあって。それを片手で軽々と振るっている冨岡さんたちって、本当にすごいなって」
素直な感嘆を口にすると、冨岡さんは刀身から視線を上げ、私の両手をちらりと一瞥した。
「私も隊士になっていたら、って思うこともたまにあるんですよ」
「……お前には無理だ」
「そうですよね。軽々しくごめんなさい。私、筋力も度胸もないですし。ひとたまりもないと思います」
彼の隣にいたい。そんな不純な下心だけで隊士になりたいなどと考えてしまった自分が情けない。軽々しく言うことでもないのに。
「選別さえも通らないですよね」
「そういう意味ではない」
そう思って苦笑で誤魔化そうとした私の言葉を、彼は遮った。
冨岡さんは手入れを終えた刀を縁側の板張りに置き、両手を自分の膝の上で組む。真っ直ぐに私を見据えるその双眸には、いつになく真剣な光が宿っていた。
「お前は、人が良すぎる」
「そんなこと……」
「鬼を前にしても、哀れんだり、話を聞こうとして無防備に近づくのが目に見えてる」
そんなことない。私だって鬼が見境なく人を喰う化け物だってことくらい、もう十分に分かっている。
そう言おうとしたけれど、冨岡さんが首を横に振った。
「それに、今のままでは呼吸の基礎にすら耐えられない身体だ」
「どうして」
「腕に抱いたときに分かった」
さらりと言い放たれて、顔に熱が集まる。居たたまれなさに思わず自分の両腕を抱え込んだ。
「そんなお前を鍛えて、かつ守りながら戦うのは俺でも骨が折れる」
「え……」
「一瞬たりとも目を離せない。そんな場所に行かせられるか」
向いてないとすっぱ切られると思っていたのに。想像もしていなかった言葉の数々に、私は息を呑んだ。
才があるかどうかではなく、私が勝手に死に急ぐ姿まで。そこまで想像した上で出された「無理」だった。
「……冨岡さん。そこまで、考えてくださったんですか……。私、もっと軽い気持ちで……」
隊士になっていれば、冨岡さんに稽古をつけてもらう口実ができたかもしれない。同じ任務に出ることは難しくても、同じ痛みを背負って、もっと彼を理解できたんじゃないか。
そんな都合のいい計算が、私の頭の片隅にあった。けれど、冨岡さんの思考はそこを遥かに飛び越えて……どう考えても鈍臭くて、力もなくて、剣士に向いている要素なんてどこを探しても見当たらない私なのに。
もし、私が本気でなりたいと言ったら。本当に隊士を目指すと言い張っていたら、この人は私に稽古をつけてくれたのだろうか。そんな未来もあったのだろうか。
「……冨岡さん。もし私が刀を持ちたいって言ったら、教えてくれましたか?」
思わず零れた問いに、冨岡さんはぴくりと眉を動かした。そして、視線を逸らしながら言う。
「教えない」
「……うん。そうだと思ってました」
迷いのない即答に、私は息を吐きながら力なく笑った。
分かっていた。たとえ私が隊士になったところで、何も変わることはないのだと。
命をかけて戦ってる人の前で、あまりに軽率だった。心の中に留めておけば良かったものを、不快な思いをさせてしまったに違いない。
申し訳なさで視線を落とし、自分の膝を見つめて反省する。その時、くわあ、と私の膝の上で小さな欠伸をした寛三郎さんが座布団から降り立つと、とてとてと庭先の水飲み場へ向かって歩いていった。
「高月」
名を呼ばれ、おそるおそるその横顔を窺う。
怒っているわけではないのだと、すぐに分かった。ただ、庭を見つめるその瞳の奥には、いつも以上に深い影が落ちている。
今から何を言われるんだろう、と身構えたがその言葉は想像と少し違った。
「お前は、普通の暮らしをして幸せになれ」
「……私、今すごく幸せですよ?」
冨岡さんとこうして一緒にいられる。隣で同じ風に吹かれて、お話をして笑い合える。
そう思ってすぐに返したけれど、冨岡さんは何かを慎重に選ぶように口を開いた。
「そうじゃない。先の話だ」
庭先に敷かれた砂利が、白く光っている。昼下がりの日差しは柔らかく、縁側に落ちた影はまだ短い。時おり遠くで鳥の声がして、それからまた静まり返る。
さっきまで、穏やかな時間が流れていたはずなのに。膝の上で着物の布地をきゅっと握りしめながら、私はその唇が動くのを待った。
「お前は……、年上にしとけ」
「年上?」
「ああ。結構年上でもいい。宇髄以上、悲鳴嶼さん未満だ」
庭の木の葉が、風もないのに一枚だけ、はらりと落ちた。
以前の嫁入りの話だろうか。微動だにしないその横顔からは、何の迷いも感じ取れない。
「残酷なことを、言うんですね」
知っているはずなのに。私が誰を見ていて、誰のためにここへ来て、誰と今を重ねたいと思っているのか。
全部分かっていて、あえてそこから自分を外してみせるこの人のずるさが、どうしようもなく悔しかった。
だから、責めたくなった。独り言みたいに零されたその言葉を、聞き流してあげる気になんて到底なれなかった。
「……冨岡さんだって、いつか誰かをお嫁にもらうくせに。どうして私にだけそんなこと言うんですか」
「俺はもらわない」
「どうして、ですか」
思わず食い下がると、冨岡さんはふっと視線を落とした。
「いつ死ぬかも分からない、先の見えない男など嫌だろう」
その声があまりにも静かで、淡白で。
柱として、鬼狩りとして、明日をも知れない命を背負い続けている人。自分の幸せを最初から勘定に入れていないその横顔が、たまらなく痛い。
「なぜ、お前が泣きそうな顔をする」
…分かる。痛いくらいに分かってしまう。冨岡さんが何を考えて、どんな覚悟でその言葉を口にしたのか。少しだけ彼の深さを知ってしまったからこそ、その裏にある諦めと優しさが、痛いほど伝わってきてしまうのだ。
そうやってずっと、誰の手も取らずに、一人で暗い場所を歩き続けるつもりなんだと。
「先のことなんて誰にも分からないじゃないですか。私は、今を大事にしたいです」
「だからこそ、だ」
…やっぱり、ひどい人だ。優しそうな顔をして、誰よりも残酷に線を引く。私はそれ以上何も言えなくなって、きつく口を結んだ。
鼻の奥にツンと集まりかけた熱を誤魔化すように俯く。視界の端で水をごくごくと飲んでいる寛三郎さんの姿さえ、滲んでぼやけてしまいそうだった。
怒りと、悔しさと、それ以上に胸を締め付けるやるせなさ。泣いてしまえば、本当に子ども扱いされてしまう。そう思って、目に力を入れてなんとか耐える。
「お前が誰かと所帯を持ってさえくれば、俺は安心する」
けれど。落とされたその一言に、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「どうしてそんなこと言うんですかっ!!」
瞬間、自分でも驚くほど鋭い音が喉から飛び出して、水飲み場にいた寛三郎さんがびくりと羽を震わせた。けれど、もう止まらない。
「私の気持ち、知ってますよね!?なのに……どうしてそんなこと言うんですか!?ひどいです!!思わせぶりに触れてきて、頭を撫でたり、抱きしめたり、思わせぶりなことばかり言ったくせに……っ!」
煮え滾る感情が、熱い奔流となって喉元までせり上がってくる。
どうして、この人はこんなにも分かってくれないのだろう。
「それが冨岡さんの答えなんですか!?責任って何なんですか!?もう、意味が分からないです!!」
あの日、後頭部を掴まれた熱も、引き寄せられた腕の強さも、私の唇に触れた優しさも、全部、全部嘘だったとでも言うのだろうか。ただの同情や、庇護欲や、行き場のない憐憫だけであんな触れ方をしたのだとしたら、あまりにも残酷すぎる。
未来から放り出されて、この時代のどこにも居場所なんてなくて、右も左も分からなかった私に、最初に確かな体温をくれたのはこの人だった。
それなのに自分は最初から安全な外側に立っていたみたいに「誰かと幸せになれ」だなんて。どうしてそんな風に切り捨てられるの。分からない。分からないですよ。あなたが考えてることなんて、これっぽっちも。
これ以上ないくらいに胸を抉られて、悔しくて、情けなくて、息がうまく吸えなかった。
「私が誰かと所帯を持ってしまえば、冨岡さんはもう私に責任なんて取らなくて済みますもんね」
感情を荒らげないよう、できるだけ抑えたつもりだった。けれど、静まり返った庭先では、その声音こそが剥き出しの刃のように落ちる。
「……俺が、」
「冨岡さんの考えていること、私分かりますよ」
一度開いてしまった心の傷口からは、黒い感情が溢れて止まらない。
「後悔してるんです。私が可哀想だから、だからここまで良くしてくれて」
そうだ。この人は優しい人だから。行き場を失った哀れな娘を見殺しにできなくて、ただ背負い込んでしまっただけ。
「それで、身寄りも無いからお世話してくれて」
頼るあてもない私を放っておけなくて、責任感だけでここまで面倒を見てくれた。全部がその延長線にあったもの。
「けれど、本当は今、貴方は私を拾ったことを後悔してる」
重荷になってしまったのだ。
これ以上縋りつかれても困るから、だから早く誰かに預けてしまいたいのだ。誰か善良な人に引き取らせてしまえば、この人はもう私のこれからの人生に責任を感じることも、罪悪感を抱くこともなくなる。
「………」
冨岡さんは何かを言いかけたはずなのに、言葉を押し戻すように唇がきつく結ばれる。庭の木々が擦れ合う音だけが、落ちた言葉の続きを埋めていく。
そうやって、いつも肝心なところで扉を閉ざしてしまうんだ。訊き返す勇気すら湧いてこない。逆にこれ以上、取り返しのつかない決定的な言葉で突き放されるのも怖かった。
せっかく一緒にいられる時間だったのに。自分から仕掛けておいて、収拾がつかなくなった空気に居たたまれなくて仕方がなかった。
「っ、帰ります!」
叫ぶように言い捨てて、私は立ち上がった。
草履を履く足がもつれそうになりながらも、振り返ることすらできない。呼び止められることも、引き留める手が伸びてくることもないと分かっているのに、背中に突き刺さる彼の視線から一秒でも早く逃げ出したくて。
滲んで歪む視界のまま、私は屋敷の門を飛び出し、蝶屋敷へ続く道をただ無我夢中で駆け抜けた。
*
太陽はまだ高い位置にあって、青空には薄い雲がのどかに流れていた。
蝶屋敷の門をくぐり、玄関へと足を踏み入れた瞬間、張り詰めていた身体から急速に力が抜けていく。草履を脱ぎ散らかすようにして上がると、廊下の壁に背中を預け、そのまま滑り落ちるようにしてうなだれた。
「……はぁ」
胸の奥が、冷たい泥で塗り潰されたみたいに重くて息苦しい。ずーんと沈み込んでいく思考を止められない。
何をしに行ったんだろう。せっかく穏やかな時間を過ごせていたのに。どうして、あんな言葉を投げつけてしまったんだろう。
でも、悔しかった。大真面目な顔をして自分を蚊帳の外に置いた彼が許せなくて。
私の気持ちなんてこれっぽっちも分かってくれていないんだと被害者ぶって、八つ当たりみたいに刃を向けてしまった。
ごつん、と後ろの壁に後頭部を押し当てる。
「……私の馬鹿」
傷つくのが怖くて、先回りして予防線を張って、相手の気持ちを決めつけて切り捨てたのは私の方じゃないか。
ごつん、ごつんと、後頭部を壁に押し当てて頭を振る。
「リサちゃん?そこで何してるの?」
ふいに頭の上から声が降ってきて、ひょこりと顔が覗き込まれた。動きを止め、壁に預けていた頭を起こして見上げる。
「甘露寺さん……」
「おかえり!どこ行ってたの?」
目の前に立った甘露寺さんは、入院着ではなくいつもの見慣れた隊服を着ていた。頭や腕、脚にはまだ痛々しい包帯が巻かれているけれど、肌の血色は良く、表情もとても明るい。
ぺたりと座り込んでいた私は、慌てて立ち上がった。
「もう、回復訓練も終わりなんですか?」
「すっかり良くなっちゃったのよ。しのぶちゃんにも、リサちゃんたちにもたくさんお世話になったわね。本当にありがとう!」
「そんな……。甘露寺さんが無事で本当によかったです。私、運ばれてきた時すごく心配で」
「ふふ、ありがとう」
ふわりと花が咲くように笑う彼女を見て、胸のつかえが下りていく。
全身傷だらけだったのに、たった数日で起き上がって自分の足でこんなに元気に歩き回っているなんて。強さも、何もかもが並外れている。でも、本当に良くなってよかった。
「でも、退院は数日後だって聞いてましたけど……もう行っちゃうんですか?」
「しのぶちゃんがもう大丈夫だろうって言ってくれたのよ」
「そうだったんですか」
寂しいな。喜ばしいことなのに。この屋敷にいると、怪我が治った人から順にいなくなっていく。
特に甘露寺さんのように周りをぱっと明るく照らしてくれる人が去ってしまうのは、やっぱり寂しい。
「リサちゃんは……以前よりは顔色が良くなったわね」
「私ですか?」
「うん」
優しく細められた緑色の瞳。
甘露寺さんと最後に会ったのは、私が冨岡さんのことで思い詰めて大泣きしてしまった時だった。あの時、彼女は私の背中を何度も何度もさすりながら、まるで自分のことのように心を痛めて一緒に涙ぐんでくれたのだった。
「甘露寺さんのおかげです」
感謝を込めて微笑んでみせたけれど、甘露寺さんは首を傾げると、私の瞳をそっと覗き込むようにして言った。
「ううん。私は何もしてないよお。でも、なんだろう。今は何か別のことで悩んでる?」
「……甘露寺さんは、よく気づきますね」
「ふふ、リサちゃんが分かりやすいのよ」
本当に敵わないなと思う。張り詰めていた気持ちが、彼女の柔らかさに触れるだけで零れ落ちそうになってしまう。上弦の鬼との過酷な戦いだったはずなのに、彼女の纏うあたたかさは少しも失われていない。
「冨岡さんと何かあった?」
変わらぬ声色に、少しだけ心痛の響きが滲んでいた。
「ごめんね。私、遠回しに聞くのとか苦手だから。嫌なら全然無理して話さなくてもいいのよ」
えへへ、と気遣わしげに笑った彼女の眉尻が下がる。
今更甘露寺さんに取り繕ったところで、全部バレているのだろう。小さく息を吐き出してから私はそっと瞼を閉じた。
「私、どうしたらいいか分からなくて」
ううん、嘘だ。言いたいのはそんな中途半端なことじゃない。
本当は、自分が何を求めていて、何にこんなにも打ちのめされているのか、とっくに分かっている。
言葉が足りない人だってことくらい、最初から知っていた。甘い言葉を囁いてくれるような人じゃないし、気の利いた約束をしてくれるわけでもない。分かりやすく優しさを表現できる人じゃないことなんて、出会った頃からずっと見てきたから分かっている。
だから、多くを望むつもりなんてなかった。立派な言葉なんていらないし、甘やかしてほしいわけでも、尽くしてほしいわけでもない。ただ隣にいさせてくれるだけで、たまに目が合って、静かに頷いてくれるだけで、それだけで充分幸せだったはずなのに。
でも、それだけじゃもう耐えられなくなってしまった。
「今日、冨岡さんのところへ行ったんです。もっと知りたい、分かりたいと思ってるのに。知れば知るほど、どんどん遠くなっていく気がして」
瞼を開けると、甘露寺さんがじっと静かにこちらを見つめていた。
「冨岡さん、私に心を開いてくれているようで全然開いてくれないんです。大切にしてくれているのは痛いくらい伝わるのに」
線を引きたいなら、最初から触ってこないでほしい。私を巻き込みたくないなら、あんなに優しい目を向けたりしないでほしい。
中途半端に優しくして、期待させて、そのくせ「俺は関係ない」と言わんばかりに遠くへ立たれるのが、どれだけ惨めで、胸を抉られるか。
「私……もう辛いです。このままずっと背中を見つめ続けて、拒絶されるたびに一人で傷ついて。それでも諦めきれずに、ずっとこの気持ちを引き摺らなきゃいけないんだって思うと」
戦いが終わるまで。彼が刀を置く日まで。その時まで私は、この行き場のない熱を抱えたまま、ただ待つことしか許されないんだろうか。
まずい、泣きそうだ。こんなところで泣くわけにはいかない。せっかく退院する甘露寺さんを困らせてしまう。ぐっと息を止めて、込み上げてくる感情を必死に押し戻した。
それと同時、ふと違和感が頭をかすめる。
「さっき……甘露寺さん何て言いました?」
「うん?」
「ど、どうして相手が冨岡さんだって……」
以前話を聞いてもらった時も、誰のことかは言わなかったはずだ。甘露寺さんに隠したかったわけではないけれど、相手の名前を彼女に口にした記憶はなく、なぜ知っているのか思い当たる節がどこにもなかった。
呆然と問い返すと、甘露寺さんは「えっとね」と視線を泳がせ、気まずそうに人差し指で頬を掻いた。
「あのね。一部ですこーしだけ噂になっててね?リサちゃんと冨岡さんがその……とても深い仲で一夜を共にした、みたいな……」
「は?」
声が裏返った。猛烈な勢いで頭の天辺まで沸騰していく。
一夜?共にした?心当たりなら、痛いほどあった。あの朝、蝶屋敷の門前で、大勢の隊士たちが見ている前で彼が平然と行った言動だ。あの場にいた人たちが、まともな意味で受け取るはずがなかったのだ。なんてことをしてくれたんだろう。
「い、いやっ違います!それは、そういうのじゃなくて!確かに一晩一緒にいましたけど、その、それも初めてじゃ……あっ、いやっ、そういう意味じゃなくて……!」
「分かってる!もちろん分かってるわよ!?」
私が両手をぶんぶんと振ってしどろもどろに弁解すると、甘露寺さんも顔を真っ赤にして両手を胸の前で慌ただしく動かした。
「ただ、相手がまさかあの冨岡さんだとは思ってなかったから衝撃で……!」
「すみません!?ずっと話してなくて!」
「いいのよ!?全然いいの!無理に話してほしいわけじゃないんだから!」
「決して甘露寺さんに隠したかったわけじゃなくて!ただ、自分でもどう言っていいか分からなくて……!」
「謝らないで!?私の聞き方が悪かったのよ、ごめんなさいね!?」
ふたりで頭を下げ合い、真っ赤な顔を見合わせながらわたわたと手を振り合う。
ひとしきり慌てふためいて、ようやくふたりで小さく息を吐き出す。
甘露寺さんは熱を帯びた自分の両頬をぺちんと手で挟むと、少しだけ呼吸を整え、それから柔らかな目をして私を見つめた。
「でもね、噂を聞いた時なんだかしっくりきたの。リサちゃんすごく泣いてたけど、普通の失恋とはわけが違うように見えたのよ。ただ振られたとか、気持ちが通じ合わなかったとか、そういうのじゃないんだろうなって」
胸を突かれて、息が詰まる。
…もう、どうしたらいいんだろう。前に進むことも、このまま引き返すこともできない。
諦めて誰かのところへ行くことなんて最初から選べるはずもないのに、だからといってこのまま彼の隣で、いつ途切れるとも知れない細い糸に縋り続ける覚悟も持ちきれない。もう、途切れてしまったのかな。
欲しがれば遠ざけられ、離れようとすれば引き留められる。この進退窮まった中で、私は一体どうやって呼吸をすればいいのか、まるで見当もつかなかった。
喉の奥へ押し寄せてくる熱いものを、必死で飲み込む。すると、私の様子をじっと伺っていた甘露寺さんが困ったように頬を掻いた。
「えーっと……。これ、私の口から言ったら不公平っていうか、卑怯になっちゃうかもしれないんだけど……。いや、でもこれは言うべきね」
眉尻を下げてしばらく小声で呟いたあと、意を決したように私の目を見つめてくる。
「お館様にね、リサちゃんを蝶屋敷に置いてあげてほしいって頼み込んだの、冨岡さんらしいのよ」
「え……?」
「普通はね、鬼殺隊と関わりのない一般の大人って、もし鬼の存在を知ってしまっても、そのまま一般の世界に帰されて終わりなの。鬼殺隊は一般人を保護する義務まではないから、冷たいようだけど関わらせないのが基本なのよね。もちろん、最終選別だって育手に認められた見込みのある人しか受けさせてもらえないし……」
早口に告げられる言葉を咀嚼しきれず、私は目を見開いて甘露寺さんを見つめ返した。
「だから、リサちゃんがこうして蝶屋敷に置いてもらえるなんて本当に凄いことなのよ!私ももともと鬼の存在は知らなかったんだけど、私の場合は特別なしがらみがあって、煉獄さんに稽古をつけてもらったから……」
耳の奥で、甘露寺さんの声が遠く反響する。頭が真っ白になって、言葉が出てこなかった。
なんで。だってそんなの、一言も言ってくれなかったじゃない。さっきまで、『普通の暮らしをして幸せになれ』なんて言っていたのに。
冨岡さんにとって、私ってそういうものなんだって。結局はただの一時的な預かりもので、本当は関わらせたくないんだなと。ここに連れてきてしまったことを、本当は後悔しているんだろうと。
そうやって勝手に解釈して、心を閉ざしていた。
出会ってから今までずっと、彼はいつだって私を安全な箱に閉じ込めて、傷ひとつつかない場所へ逃がそうとしてきた。
でも、もし彼の今までの言動がすべて本意で、問いかけてきたあの言葉も、心の底からのものだったのだとしたら。
「リサちゃん!?」
突然息を呑んで顔を上げた私に、甘露寺さんが驚いたように目を丸くする。
足が、勝手に動いていた。
「ごめんなさい甘露寺さん、ありがとうございます!」
「えっ!?ちょっと、どこ行くの!?」
「もう一回会ってきます!」
叫ぶように言い残し、私は草履を引っ掛けると蝶屋敷の玄関を飛び出していた。背後で甘露寺さんが何かを叫ぶ声が聞こえたけれど、立ち止まることなんてできなかった。
最初に切り捨てたのは、私じゃないか。決めつけて、分かった気になって、冨岡さんの気持ちにちゃんと向き合っていなかったのは、全部、全部、私の方だった。
見ていたくせに。聞こえていたくせに。苦しそうな表情も、震える声も、何一つ疑う余地がないくらい本物だったのに。
ただの自己防衛だ。自分が傷つくのが怖いだけだった。いつか、もっと本気で突き放されてしまうのが怖かったから。だから「彼はそういう人だ」と勝手に予防線を張って、傷つかないための逃げ道を作って、逃げ続けていただけだ。
彼が差し出してくれようとしていた本音から、ずっと目を逸らしていたのは私の方だった。
待っていてほしい。どうか、まだ屋敷にいてほしい。伝えなきゃいけない。ごめんなさいも、ありがとうも、私が本当に言いたかった言葉も、全部。
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