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数日後、午後十時。
僕は緑葉製薬本社ビルの前にいた。
石嶋という男は当該の会社で会長をやっているのだそうだ。柔道六段、合気道五段、剣道にいたっては八段のつわものらしい。また、会社での信頼も厚く一般社員よりも遅くまで会社に残り仕事をしているのだそうだ。今日も例に漏れず一人で残業をしていると名前から情報提供を受けた。
僕は清掃員として潜入、石嶋のデスクを探し無ければ本人の元へという算段だ。文字にしてみたら簡単な計画かもしれないが本人への接触は出来る限りしたくない。ヘタに関わってしまうとジンのことだ、有無を言わさず始末しろというはずだ。保管していた大事なデータを盗まれた、と警察に掛け込んでも証拠がなければ足が付くこともない。本当はそのまま泣き寝入りしてくれるのが一番良いのだが。
影も屈託もない声が右耳から聞える。彼女には本社内のセキュリティ解除等システム関係を頼んだ。
「バボ、準備できたよー。」
「了解しました。」
こんな簡単な任務早く終わらせて家に帰りたい。そんなことを考えてしまったからフラグが立ってしまったのだろうか。
インカムから聞こえる声に従い社内を歩く。
「次、指紋認証があるからそこで二秒待って。」
扉の前に立ちきっかり二秒で開かれた。
「さすがですね。」
「これ位昼めし前よ!あ、あと五十メートルで石嶋の部屋だよ。」
「わかりました。その手前の会議室で少し様子を見ます。あと、朝めし前ですよ。」
ベルモットは彼女を溺愛しているからわざわざ言うとは思えないし、ジンの訂正はわかりにくい。こんなときではあるが謎の責任感が働き訂正することにした。
「…あ、石嶋が部屋から出たよ。」
話を逸らしたな。
「了解しました。これより中に入りますので彼が戻る前に教えてください。」
素早く室内に入り石嶋のデスクへ向かう。彫が美しいマホガニー材のデスク、テーブルや椅子も値が張りそうなものばかりだ。
梁上の君子よろしく抽斗を下から順に開けていく。しかし抽斗の中に入れていないだろうとは思っていた。身長で警戒心の強い人間が当たり前の場所に置くとは考えにくい。ならば…とデスクの下に手を伸ばそうと屈む。
「バボ、早く逃げて。あいつ走ってそっちに向かってる!」
「…っ!」
デスク、来客用の椅子、テーブルと必要最低限のものしかないこの場所には隠れられないが今ここを出たら鉢合わせる可能性が高い。
どうする、どうする。肉弾戦でもいいが以後の接近が難しくなる。
「バボ、USBはあった?」
「ありましたよ。デスクの下に。」
「じゃあそのままデスクの下に隠れてて。私に任せて。」
何も策がない自分よりこの場は彼女を信じるしかない。息を潜めて身を丸めた。
バタンッ、壁に当たり音が鳴るほど勢いよくドアが開き石嶋が入ってくる。
「っ何だ、誰もいないじゃないか。……何だっ!」
スッと室内の明かりが消える。向かいのビルは煌煌と光っている。
「バボ、石嶋はドアから離れてるから出るなら今。」
名前の合図で動き出し、石嶋のすぐ隣をすり抜ける。
「…っ誰だ!おい!何をしていた!」
数秒あけ同じく飛び出してきた石嶋の怒号がだだっ広い通路に響く。
「あと五秒でロックするからすごく走って。」
「五十メートルを五秒とは随分鬼畜ですね。」
「伸ばしてもいいけどあの人も付いてくるよ。」
「なるほど。」
ぐんっと足を力強く前に進める。あと十メートル、あと五、あと二。ゼロ。
「おい!お前誰だ!おい!!」
石嶋がガラス製のドアを拳で何度も叩く音を聞きながらビルを後にする。
「Mission complete.おつかれ、バボ。」
「…っはぁ、久しぶりにこんな、全力疾走しましたよ…っ。」
「全力しっそう?」
「力の限り全速力で走ることです。」
「ふーん。私は後の処理とジンに報告、やっておくから早く帰ってきてね。」
「…は、い。わかりました。」
まさかあんな声色で早く帰ってきて、なんて言われるとは。緩む口元を押さえながら愛車に乗り込んだ。