降谷さんが目を覚まして五日、あれだけの大怪我をしていたというのに驚くほど回復が早い。ベッドの上から動けなかったのは最初の内だけでいくら止めても身体を動かすのをやめなかった。
「あまり動かないで欲しい。」
「それは無理な相談だね。」
今はせっせとフローリングワイパーでリビングを掃除している。
「肋折れてるし、傷も塞がってないのに。私だって掃除くらいできる。」
「骨折は日常茶飯事だし動いていないと体が鈍ってしまうんです。」
無駄に良い笑顔だ。安室め。しばらくは組織の仕事も本業も休みらしい。今までトリプルフェイスなんて言って忙しなく働いてきたんだからこんなときくらい休んで欲しいのだが。
「風見に薬を取りに行ってもらっているから少し遅くなってしまったけど投薬治療を始めようか。」
薬というのは以前哀ちゃんが言っていた成長促進剤だ。薬を飲むことに抵抗はないが問題はそこではなく私にとっては食事が鬼門だ。
「苦痛かもしれないけど胃粘膜保護の為に少しでも食事は摂ってもらわなければならない。」
傷だらけの痛々しい顔が歪んだ。人のことなのに何でそんな顔をするんだろう。
「強くなるって決めたから何でもする。」
安室透は料理が得意だと聞いた。現に以前作ってもらったホットケーキは本に出てくる物と遜色ない位美味しそうに見えた。それは久しぶりに味を感じ難いことが疎ましく思うほどに。
「苦みなら分かると言っていたけどピーマンの肉詰めとかはどうだろう。」
「だめだめ!あれは食べ物じゃないよ。」
記憶の片隅にある、あれは悪魔の実だ。青臭くて苦い、そして変な色。世の中には好きな人もいると聞いてびっくりしたものだ。
「へぇ、名前さんはピーマンがお嫌いなんですね。」
「ふ、降谷さん本当にやめてくださいむりです。」
先程とは違う毒々しい笑顔、何か企んでいる気がする。あんなもの食べる位なら胃の一つや二つ犠牲にする覚悟だ。
「そうですね。これがきっかけで食事自体嫌になってしまっては元も子もないし。」
悩む降谷さんを少ない語彙で説得しピーマンの摂取は免れた。紆余曲折あったが味よりも食感重視で夕飯はうどんに落ち着いた。そして食事を受け入れることを条件に家事をやめさせリビングで寛ぐことにした。空気清浄機の音、本をめくる音だけがこの部屋を包んでいる。恐ろしい程に穏やかな時間が流れていた。
「名前さん、少しお話しないか。」
「いいよ。」
穏やかな時間を終わらせたのは彼、本をテーブルに置きこちらに居直した。言葉を慎重に選んでいるようで口を開いては閉じ、中々話を始めようとしない。
「ジンとはどういった関係なんです?」
どんな話をされるのか身構えていただけに拍子抜けだ。彼なりに気を遣ったのだろうけど。
「ジンは、お兄ちゃんみたいな感じかな。昔はよく遊んでくれたんだよ。」
「あのジンが?」
「そう。あのジンが。組織の中では極悪非道な人間だったみたいだけど。」
血の繋がった家族というものは私には存在しないのでお兄ちゃん、というものがどういうものなのかはよくわからないが。大切にされていた気がする。ライフルを使って正確に何発的を射抜けるか、とか逆探知機を一緒に作ったりしたな。思い出に浸り無意識のうちに顔が綻んでいた。
「後悔していますか?」
「してない。」
ジン、ウォッカ、ベル。私に優しくしてくれた人は組織にいた。その人達ともう一生会えないとなれば寂しさも生まれるのが普通だろう。いつか外の世界が見てみたいと思っていた少年期、色んなことがあって諦めた青年期。目標も生きる意味も分からなくなって全てどうでもよかった毎日。そんな日々にバーボンが現れ、安室名前として普通の人間と関わった。諦めていたはずの夢が息を吹き返したんだ。
それに、私の中の優しい兄は死んだ。降谷さんをあんな目に遭わせたんだからそれ相応の覚悟はしてもらわなければ。絶対に私の手で捕まえ終わらせてやる。
「降谷さんにはすごい迷惑掛けちゃってるけど、本当に感謝しているの。」
険しい顔をしていた彼は安堵の表情を見せた。自信たっぷりの彼も不安になることもあるようだ。ソファに突かれた手に触れると持ち上げられ彼の口元へ運ばれた。そこにキスを一つ。その姿はさながら王子様だ。どこでスイッチが入ったのかなんだかこそばゆい雰囲気に耐えきれず今度は私から話を振った。
「そういえば、ベルがここに来たよ。」
「は…なぜ、どうやって。」
「この前風見の格好して。」
最初に会った風見はベルモットの変装だった。降谷さんの部下ということは彼も公安のはず、それなのに私が出したコーヒーを疑いもなく飲んだ。そこから違和感を覚え始めた。きちんと観察してみればおかしいことだらけだったのだ。
そうか、だから、あの時、なんてぶつぶつ考え込み始めた。雰囲気を壊した代償に私の存在さえ忘れてしまったようだ。
「おーい。」
「あ。あの日、俺は彼女に助けられた。そしてここに組織の人間が来ないということは報告していないんだろうな。」
「ベルは無事、か、な、」
急激に頭が回らなくなって声が上手く出せなくなった。ぐらっと世界が回る。最近なかったが限界が来たようだ。彼が受け止めてくれたおかげで床に落ちずに済んだ。ごめんなさい、話し途中で終わってしまって。声は出なくなってしまったので心の中で謝罪した。