お嬢と渇望

私が正式に若頭を拝命する前、家庭教師をしてくれていた明美さん。彼女はただの善良な一般市民だった。




「今日から名前の家庭教師をする、宮野明美さんだ」
「なんで?」
「名前は数学が得意ではないだろう。成績も下がってきていると報告を受けた」

確かに私は数字に滅法弱い。学校の授業で理解できないところはお兄ちゃんに聞いたりもしたが元々出来る人には出来ない人の気持ちが分からない。
なんでわからないんだ? と何回言われたことか。

私の理解力が乏しいのかもしれないがお兄ちゃんの説明では駄目だったのだ。同じく赤井さんの説明も理解できない。そして最近ケンカばかりの零にはもちろん頼ることはできない。

「そうじゃなくて、なんで急に、この人どう見てもカタギでしょ」
「私が、赤井さんを轢きかけてしまって…」
「あ、赤井さんが?!大丈夫?」
「この通りぴんぴんしてるさ」
「それでなんで家庭教師になるの?」
「まぁ…いろいろあったんだ」

ふいっと顔を逸らして懐から煙草を取り出した赤井さんはこれ以上話すことはない。 と体現していた。過去の経験上こうなった赤井さんから話を聞くことは九十九パーセント無理だ。

赤井さんは親しくなれば良い人と分かってもらえるが初見では九割が怖いと言うだろう。赤井さんが何と言ってここまで連れてきたのか分からないし、彼女が本当に本人の意思でここにいるのか確認しなければいけない。

「納得しているんですよね?」
「はい、もちろん」

怯えた様子もなく笑顔を浮かべる明美さんを見て本心ということが確認できた。私もこれ以上ついていけなくなるのは困るので彼女の厚意に甘えることにした。


「本当に出来ませんけど、よろしくおねがいします」
「こちらこそ、よろしくおねがいしますね」






それまでカタギの若い女性と関わることのなかった私にとって明美さんはハッキリ言ってよくわからない人、 だった。
しかし様子を窺いながら関わっていくうちに彼女は善い人だということがわかり、それからはおこがましくも姉のように思っていた。

私が無力だったせいで彼女は奴らの毒牙にかかって未だ透き通った双眸は閉ざされたままだ。あれから私の生きる目的は復讐、それだけになった。

「志保さん、本当にごめんなさい」
「何度目よそれ。もう聞き飽きたわ」

人生を狂わされた彼女の妹、志保。彼女もまた私のせいで生き方を変えざるを得なかった人の一人だ。
冷たいと捉えられがちな彼女の言い方も付き合っていくうちに隠された本当の意味が分かるようになってきた。
先程の発言は嫌みなく本当に聞き飽きたという意味、顔を合わせる度にする謝罪も彼女にとっては煩わしいものにしかなっていないのだろう。それでも謝らずにはいられない、これはエゴだ。

志保さんは私の分のコーヒーを淹れ、向かいのソファーに座った。緊張で硬くなった身体を緩めるように深呼吸を一回。

「片岡っていう三下が烏合組に嗾けられて殺された」
「なっ…!」

数ヶ月前の出来事を彼女の伝えるべきか最後まで悩んだ。あれから奴らの痕跡を死に物狂いで探しまわったがなにも、何も出てこなかったからだ。

それで、その先は? と話の続きを視線でせっついてくる志保さん。進展のない話をして彼女に無駄な期待を抱かせてしまうことに心苦しさを感じていた。

「ごめん、いくら探っても何も出てこない。何も分からなかったの」
「…そう。一筋縄でいかないことは分かっているわ。私も調べてみるからその話もう少し詳しく聞かせてちょうだい」

志保さんは少しだけ落胆した様子を見せたけれどすぐにいつもの格好良い彼女に戻った。


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