白い獣


鳥の爽やかな声が耳に届いたというのに、目覚めた死柄木はそれとは対照的な鬱屈とした様子で鬱陶しげに目にかかっていた前髪を払う。
起きたと同時にまだ治りきっていない怪我の痛みを感じながら身体をベッドから起こした。

眠る前には隣にいたはずの千歳は既に起きていたようで、身体を起こしたとほぼ同じタイミングで水が入ったコップを片手に部屋へと入ってくる。
おはよう、と声をかけてベッドに腰かけた千歳を死柄木はちらりと見たものの、返答はない。
死柄木の寝起きが悪いことも承知の上だったが、千歳が気にするような事でもなかった。

コップを死柄木の前に掲げるが、しばらく反応はない。数秒経ってからコップを認識したのか、動く気になったのか、ゆったりとした動作でコップを受け取って水を飲んだ。
口に力を入れる気がないようで、多少の水が口端から顎を伝ってシーツにぽたぽたと染みを作る。
その様子に千歳は小さく溜め息を吐きながら空になったコップを取り上げて、キャビネットの上に置いていたティッシュを取り出して口端を拭ってやる。


「…ちゃんと起きなさい」


声に反応した死柄木が緩やかながらやっと正確に千歳を見て、マットレスに置かれていた千歳の手に中指を浮かせた状態の死柄木の手が重なる。
ただこれだけの動作で、死柄木は人の動きを留めることができるのだ。
しかし千歳は初めて死柄木と出会ったあの日から、それを気にしたことはなかった。
これはただのボディタッチで、本気で彼が千歳を壊そうと触れたのは過去たった一度だけ。それも幼いころの癇癪で、そしてもう過去の話だ。

今目が合っている角度から見える千歳の瞳の色を観察しているのか、しばらく見つめあう形になる。
死柄木が何をしたいのかというのは千歳には予想が出来ない。いつものことだ。
無言で人に見つめられることに緊張を覚える人が多い中、千歳は気にもせずそのまま見つめ返していた。
紅い瞳がかすかにかかる日差しを反射して、きらりと光るのが綺麗だとなんでもないことを考えていたところで、その紅い瞳がぐっと近付いて水に濡れた冷たい唇が、千歳の乾いた唇に合わさる。


「ちとせ」


かすかに合わさったがすぐに離れて、死柄木が千歳を呼ぶ。それに返事をする間もなくすぐさま、そして先程よりしっかりと唇を押し付けられた。
ぺろりと死柄木の舌が千歳の唇を舐めるので、抵抗もせずに口を開けるとぬるりと舌が口内に入り込んでくる。
がぱりと口を大きく開けて侵入してきた死柄木の舌は、千歳の口内を味わうように硬口蓋を舐め、歯の裏をなぞった。
ぞわぞわとしびれるような快感が背筋を走ったことでぴくりと千歳の上瞼が揺れる。


「…っふ……」


微かに甘さを含んだ息が鼻から漏れたのを確認すると、死柄木は嬉しそうに目を細めて、じゅるりと唾液を吸いながら舌を口外に引っ張り出す。
舌を引っ張り出されたことで半開きになる口の端から、うまく飲み切れずに垂れてきた涎がてらてらと厭らしく光った。

散々に吸われて水分がなくなり更に外気に触れていたことで舌が乾いた頃、口端の涎を最後に舐めとって漸く千歳の口は解放された。


「……何なんだ、全く」
「何っておはようのキスだろ」
「目が覚めたなら朝食にしよう。それから痛み止めだ」
「スルーすんなよ」


呼吸を正しつつ立ち上がり、死柄木のロマンチストじみたようなよくわからない言葉をスルーして、千歳は彼の手を取って立ち上がらせた。
死柄木の言葉に反応しない千歳に不満げに文句を言ったものの、繋がれた手にそれ以上の文句を言わない死柄木は、好きな人に手を引かれる子どもそのものだったがそれに千歳が気が付くことはない。

扉を開けた所で、香しい匂いが死柄木の鼻孔を擽った。カウンターには目玉焼きにウインナーとご飯に味噌汁といった一般的な朝食メニューが並べられていて、彼はその正面に座らされる。
その横で見張りの様に千歳が座り食べなさいと死柄木を目で催促してくるので、渋々と言った様子で箸を取り食べ始めた。


「……悪くない…」
「それは結構」


大して特別の手間もかけていないというのに、目玉焼きを頬張りつつ千歳からは目を逸らしながらぼそりと呟く死柄木に、作った側としては一応の感謝の意を述べる。
死柄木が普段から食に執着がないというのを千歳は黒霧から聞いていたものの、目の前の青年を見るとそういったことがないようにも伺えた。
千歳はこうやって直に食事をしている場面を見てそうでもない気になっているが、所謂好きな人が作ったものは食べるという面倒くさい感情から出た行動なのを彼が知る由もない。知っている黒霧からすれば食事の用意は千歳にしてもらいたいと思うものだが。

それからはカウンターで黒霧がコーヒーを淹れる音と、死柄木が食事をする音が室内に響いた。
黒霧は金色の瞳をゆらゆらと揺らし居心地が悪そうな雰囲気ではあったが、二人がそれを気遣うことはなく、千歳はただ死柄木が食事をする様を見つめていた。

食事を終え、薬を手渡したところ嫌な顔をする死柄木を無視して、飲む様をじっと見つめる。
視線に耐えかねたのか、引き伸ばしても面倒だと思ったのか、意を決したという様子で錠剤を水で飲み下した死柄木の額へ前髪越しに褒美代わりと唇を落として、千歳は帰宅のための立ち上がる。


「よく出来たな、いい子だ」
「……飲んだから、夜には来い」
「大人しくしていてくれたらな。…黒霧さん、後は頼みました」
「えぇ、お気をつけて」


死柄木の様子を見ることを黒霧に任せ、医療鞄と杖を片手にバーを出る。太陽光が千歳の目を緩やかに刺した。
鞄からスマホを取り出して部下へと連絡すれば、ものの数秒でダミアンが現れる。
相変わらず休んでいるのかと疑問に思いながら口にはせず、手を繋ぎ病院へと帰った。



―――



「……雄英高校の…臨時教師に…?」
「そうなった」


病院へと帰ったところで昨日の話を秘書であるダミアンへと千歳が告げると、持ってきたコーヒーカップをうっかりずるりと指先から落としそうになる程の衝撃を彼に与えた。
ヒーローでありながらヴィランと常日頃から関係のある人間が、そのヒーローを育てる機関に在籍するなど普通に考えてありえない話だ。
今でも公安や他のヒーローにばれていないのは見事ではあるが、それは他のヒーロー達とほとんど関わりがないからであって、本格的に関わるとなれば一体どうなってしまうのかというのは火を見るよりも明らかだ。

そんな危険を冒しながら関わる必要があるのかと、何も言わないながらも苦い顔でそれを千歳に伝える。
言わずとも言いたいことが伝わるような部下の顔を見ながらも千歳は意見を変えるつもりがなかった。
正確に言えば、脳に巣食った母の意見から逃れられないからであったが。

ダミアンの言いたいことを正面から無視して、スケジュールを確認して空きを作れるかを模索する。


「来週1日開けられるな…仮の契約書を昨夜手書きしたから、お前が思う条件を加えて清書しておいてくれ、後で確認しよう」
「…かしこまりました」


彼も何かを言及する気はないようで、言葉を飲み込みつつも命じられたことを了承する。
その他の本日のスケジュールは死柄木に使ってしまった事で大分押しており、温く淹れられたコーヒーを一気に飲み干して椅子にかかっていた白衣を着ながら立ち上がった。

入院患者へいつもより遅れた巡回をしつつ、新たに来た患者の手当をしながら、今日の手術を済ませる―――医者としての仕事は実に多忙だ。
千歳以外の医師や看護師はこの病院に勿論在籍しているが、ヴィラン用病棟は彼と彼の部下専用の区域だ。
一般の患者の治療もあり院長としては最も仕事内容が多いが、それを本人も喜んで受けているしそうであるべきだと考えている。
ついでに多少でも時間が空けば併設している更生保護施設や児童養護施設へ顔を出し、慌ただしい一日はあっという間に日が落ちて暗い暗い夜になった。

死柄木への出張に時間が取られることを考えると困ったものだが、幸いな事は昔に比べれば医師や看護師が増えて夜勤をしなくてよくなった事か。
そう思いながら溜め息をつきつつネクタイを緩める。
来週の雄英生徒に対する授業の事を練りたいので、何とか毎日ではなく数日空けて様子を見に行くことにしたいが、それを許可してもらえるかどうかは願い出る千歳本人の努力があったとしてもさほど関係なく、願い出た際の死柄木の機嫌にかかっているのだ。

せめて学校に行く前まで通い詰めて機嫌を取って、一日空けると機嫌が良い日に告げるしかないな。
辿りついた答えは結局他力本願ではあるが、千歳自身が頑張らなければならないことに変わりはなかった。



―――



ダミアンの“個性”で再度バーの近くに出現し、扉を開ける。
見た目としては隠れ家的なバーの体裁をしているが、誰かが来ることはほとんどない。――稀に酔っぱらった勇気あるサラリーマンが入って来ることはあるのだが。

客が来なくともそれでも扉を開ければ、大体黒霧がグラスを拭きつつカウンターの向こうに立っている。
昨日はベッドに横たわっていた死柄木だが、痛み止めが効いているのか黒霧の正面の椅子に腰かけてぶらぶらとつまらなさそうに脚を揺らしていた。


「千歳」


そんな状態でも千歳の訪問に気付くと、名前を呼びながらぱっと腕を広げてくる。
どうやら機嫌が良いらしい、そんな事を思いながら千歳はそれに逆らうことなく死柄木の元へと行き、細い身体を抱きしめて旋毛に唇を落とした。
千歳の腹に顔を埋めてぐりぐりと押し付けてくる死柄木の様を見て、ふぅと黒霧から何とも捉え難い溜め息のようなものが漏れたのを聞きながら、千歳は彼の背中をぽんぽんと撫ぜる。

腹から顔も上げず声も出さずそのままじっとしていた死柄木だが、ばっと突然顔を上げると椅子から立ち上がり、千歳の手を掴み別室へと歩き出した。
死柄木が座っていた椅子の隣に置いた医療鞄を咄嗟に掴み、連れられるがままついていく。


「弔、どうした」
「なんでもない」


死柄木は連れてきた千歳をベッドの傍らに立たせると、無言のままぐっと肩を押してくる。一瞬踏ん張ろうとも考えたが逆らわずにそのまま腰かけると、立ったまま見下ろしてくる。
身長差故に普段は見下ろしている死柄木を見上げるというのはいつでも少し不思議な気持ちになると考えていたその時、何を考えているのかよくわからない紅い瞳の奥でめらりと何かが燃えているように感じて、千歳はベッドの上で少し腰を引いた。

死柄木はそれを素早く感じ取って逃げようとしたそれを防ぐように、中指を浮かしたままの両手で千歳の顔を掴むと、がぱりと大きく口を開けて彼の唇を食んだ。
歯と歯はぶつからなかったものの結構な衝撃に「ぅ」と小さく呻いた千歳を楽しそうに見下ろしながら、今度は開けろと穏やかに促すわけでもなしに、無理やりに舌で千歳の唇をこじ開けてくる。

衝撃によって引き結んでいた唇だったが、ぐにゅりと差し込んできた舌を迎え入れると死柄木のそれは蛇のように口内に侵入してきた。
迎え入れるとは言っても応えるとは言っていないと言わんばかりに舌を引っ込めていたが、長い舌は呆気なく千歳の舌を絡めとる。
ぬちゃ、と唾液同士が絡む音が何度か響いてから、漸く死柄木は千歳の口を開放し、鼻から吸い込むよりずっと多い酸素に小さく咳こんだ彼を楽し気に見下ろした。


「っは…ったく、何なんだ朝から」
「ヤろう、千歳」
「おい、待て…」


千歳の額、瞼、鼻、頬、それぞれに小さく唇を落としつつ、死柄木は片手でネクタイを緩めながらもう片方の手でカッターシャツのボタンを外していく。
中指を浮かせながらもたつくことなくするすると外していく死柄木の手に、器用なことだと、注目すべきはそこではないことを思いながら何とか言葉で止めようとするものの、言葉を塞き止めるようにその都度べろりと舌が唇を舐めた。

肩を押し返そうとしてもいつの間にか千歳の太腿を跨いで死柄木の膝がベッドに置かれているため、上から押さえつけられている状態になっており、体格差があれど押し退けるのが難しい状況になっていた。
とはいえ千歳と死柄木では10cm以上身長も違う上、痩躯な彼と違って千歳は分厚いまではいかなくともそれ相応に筋肉があるのだ。本気になれば十分に押し返せる。

押し返すことを止めたのは、ごり、と千歳の腹筋の形を確かめるかのように硬い物が押し付けられたからだった。
それに気付いて死柄木の顔を見る。
彼は興奮から頬を紅潮させつつ、自分を落ち着かせるようにふーっふーっと浅いような深いような荒い呼吸を繰り返していて、千歳と目が合うと呼吸で乾いた唇を舌なめずりをするようにべろりと舐めた。


「夜の分の薬も飲んだから褒めろ」
「は?っひ、ぃ」


正当な理由だと言わんばかりに堂々とした言葉に千歳が呆気に取られている内に、カッターシャツをはだけさせて現れた首筋、その首筋をぐるりと一周している縫合痕を抉る様に容赦なく噛み付いた。
突然急所を噛みつかれて引き攣った声が、奥歯を噛み締めたものの千歳の喉から鳴る。
唐突な刺激によって固まった身体は容易くベッドへと押し倒された。

その様子に死柄木はにんまりと微笑みながらガジガジと縫合痕を齧っていると、引き裂かれた皮膚からじわりと血が滲んできたため、先程と違って労わるようにその血を舐め取って唇で吸い上げる。
びくりと千歳の身体が震えたのだから、彼は尚にんまりと楽しそうに笑った。


「おいっ、ぁ…まて…」


千歳からの絞り出すような苦情を聞き入れる気はないらしい。
怪我や縫合などで薄くなった皮膚は敏感になりやすい、場合によっては性感帯になり得る、というのを死柄木が知ったのは随分前だが、知った時には絶対に試してやろうと心躍らせたものだ。
勿論全ての人間が該当する訳ではないが、死柄木には有難いことに千歳はそれが該当する人種だった。

カッターシャツのボタンを全て外して露わになった胸や腹には、手術で“個性”を使用するために条件を満たされた各種縫合痕が存在している。
臍より下の位置になる開腹手術の際に使用する縦切開・横切開、臍あたりに点々と並ぶ内視鏡挿入時に必要な切開、胸の真ん中を縦に横断する胸骨正中切開――述べればキリがない数の縫合痕。
これが全て他者を助ける為に行われた行為の痕であることにいつだって非常に腹が立つものの、快楽を拾う術になることにだけは死柄木は感謝をしていた。

小切開心臓手術時に使用する肋骨と肋骨の間にある縫合痕をぐいぐいと押しつつ、もう片方の手で刺激により立ち上がった乳首をきゅっと摘まむと面白いほど千歳の身体が震えた。
噛みついている首筋は出血と快感ですっかり熱を持っており、視界に微かに映る白魚のような頬は薔薇が咲くように真っ赤に染まっていて、じわりと背中を這いよる興奮で死柄木の口から涎が垂れる。

普段冷静で無表情な彼をこれほどまでに変えられるのは自分だけだと、満足げにしながら垂れた涎をそのままに首筋から口を離して組み敷いている千歳を見降ろした。
死柄木の口元から垂れる銀糸が千歳の視界から見えるそれは、照明できらりと光りながら首に繋がるリードのようで。


「とむらの、けがもある、から…ほどほどに…してくれ…」


抵抗をしませんというように身体から力を抜き、何度もしているのに未だ恥ずかし気に下を向きながら手の甲で口元を隠す仕草に加えて快感から舌が回っていない千歳に、更なる興奮と支配欲が死柄木の全身を駆け巡り、何もしていないのに達しそうになるのを気合で押し留める。
獲物を前にした肉食獣のように、ぐる、と喉から漏れそうになる呻き声と、口の中いっぱいの唾液を丸ごとごくりと飲み込んで、口元を隠す千歳の掌を宥める様にべろりと舐めた。


「あ゛ーー…程々に、程々に…なぁ?」


ぎらぎらと興奮で光る獰猛な紅い瞳に、彼は帰れないことを理解した。


title:馬鹿