いつだってその瞳に救われています

黒しかない空間で足元に爆豪と轟が血を流しながら倒れていた。彼らが夢に出てきたのは、今日の授業のせいだろう。
血を流して倒れている様子に夢だとわかっていても、流れる血の量を見て何とかしなくてはと床に膝をついて腕を伸ばした。救わなくては。救わなくては。
しかし、後ろから伸びてきた細い腕が私を抱きしめてきて、その瞬間、ぴたりと地面に縫い付けられたかのように身体が動かなくなる。母だ、母の腕だ。


「私の言いつけを守ってすぐ助けようと動く。いい子ね、千歳。でも、この子たちより彼らを優先にしなきゃだめよ。ヒーローは大丈夫。この子たちは助けてくれる人がたくさんいるわ。でも、彼らを助けられるのは貴方しかいないのよ」


頬を掴まれて左に顔を動かされる。数歩離れたそこには弔と先生が彼らと同じように地面に転がっていた。何故倒れているのかはわからないが、血は流れていない。気を失っているだけかもしれない。そもそも先生が床に倒れているというのは夢だとしてもどう考えてもありえない。そんなことになる人ではない。それならば2人よりぱっと見で重症な彼らの方が間違いなく重要度は高い。流れてきた血が、床に着けていた膝部分の衣服に染み込んできた。救わなくては。救わなくては。

そう思っていたのに勝手に膝が伸びて一歩、先生たちの元へ足が進んだ。
違う、爆豪と轟の方が重要だろう。トリアージは冷静に行わなくては。貴方も医師だ、わかるだろう。感情で優先する訳にはいかない。


「いい子ね、いい子。皆を助けなきゃいけないけど、彼らの方が大事ね。そうでしょう?」


そうだっただろうか。そうなんだろうか。そうなのか。
頭がぼんやりとして考えがまとまらない。ゆったりとした動きでもう一歩足が勝手に動こうとした時、足首を掴まれる感覚に後ろを振り返る。爆豪が緩く私の足首を掴んでいた。いつの間にか私はヒーロースーツを身に纏っていて、ペストマスク越しに息も絶え絶えに私を見る爆豪と目が合う。はくはくと口を動かすが、ごぷりと爆豪の口から血液が吐き出されて声は出ていない。嗚呼そうだ、私はヒーローで医師だ。彼を助けなくては。いや違う、弔を、先生を助けなくては。違う、優先順位を。


「千歳、いい子でしょう?私の言う事を聞いてくれないと困るわ」


私の足首を掴む爆豪の手を、母の手が引きはがした。支えを失った爆豪の頭が地面に落ちる。彼を救わなくては。救わなくては。爆豪へ無意識に伸ばした腕を掴まれ、母が顔を覗き込んでくる。
いつ見ても彼女の姿は最後の記憶と変わらない。腕も足も、首すらばらばらで血をまき散らしながらも、ぎらぎらと異常な熱を孕みつつ沼のように濁ったシアンの瞳で私を見る。この瞳に見られると頭がうまく回らない。彼女の言葉を聞くと、それを優先しなくてはという思考になる。そういう思考にさせられた。わかっていても逃れられない。彼女が私を見つめて歪に笑う。息が出来ない。爆豪を、轟を、助けなくては。いや違う。違わない。嗚呼、母の、言う事を、聞かなくては。


―――


千歳が慌てて目を覚ましたのは3時間後の朝4時だった。
酷い痛みが脳を走る。肩が大きく上下するほど忙しない息をしながら、血の気の引いた青白い肌に汗を滲ませて起き上がる。夢だとわかっていても、幻覚だとわかっていてもどうしようもないほどの恐怖は寝る度に彼を蝕む。

ふぅと落ち着かせるように大きく息を吐いたところで時間を確認して、予定を思い出しながらシャワーを浴びようかと思案しつつ、リモコンで電気を付けながらベッドから立ち上がった。
ふと、机の上に飴が置かれていることに気付いてそれを手に取る。部下の誰かが置いたのだろうかと千歳は頭を捻ったものの何となく彼らではないような気がして、普段は食べないはずの封を開けた。
真っ赤な紅色の飴が千歳の瞳にきらりと映る。それを見て差出人を思い浮かべて口に放り投げると苺の味が舌を擽った。

コンコン、扉を控えに叩く音が室内に響いた。


「千歳先生、起きてます?」
「海か、どうした」
「失礼しますね。俺と丞護で伝えなきゃいけないことが…ん?珍しいですね、飴なんて」
「…差し入れだ」


1人の青年と千歳と同い年ぐらいに見える男性が千歳の自室に入ってくる。
最初に入ってきた青年の蛍光ピンクの髪が照明に照らされてぴかぴかと派手に光った。相変わらず目に眩しい髪だと千歳は若干目を細める。
千歳が飴を食べているというのは傍目から見て確認はできないが、それは彼の“個性”によって看破されてしまった。

関 海せき かい、“個性”【解析】。ゲームにあるステータス画面のように相手の状態を確認できる“個性”。
名前、年齢、身長などの一般的な物から、相手のある程度の心境、状態など少し深いところまで確認ができるのだ。
千歳が飴を含んでいるということはこれで確認したようだが、流石に誰からの物かというのまではわからない。

詮索される事を望んでいない千歳の態度に気付いて、海は“個性”を解除してきょろりと視線を泳がせた。


「それはいい。何の話だ」
「先生が昨日いなかった時、クスリの中毒患者が転がってきました。異形型じゃなかったんで、安善の“個性”で事なきを得ましたが…最近増えてますっていう報告です」


海の話に出ているクスリとは、元々は弱“個性”を補うために作られたものの認可されなかった違法薬物である。
表面上では非常に有用なものに感じるが、種類によるものの実際は非常に高い中毒性があり、その中毒性から常用を繰り返すごとに“個性”は強化されていく。しかし、副作用で“個性”は暴走してしまい扱うことが出来なくなってしまうというものだ。
中毒症状の最終段階までいくと本人にはどうしようもできず、暴走からヒーローに捕まるか、仲間に恵まれていれば仲間がなんとかここまで連れてくるのだが、その件数はここ最近で増加していた。

ここまで拡がっているという事はどこかしらで手を回している組織がある訳だが、千歳はそれにヒーローとして自分から関与する気はない。
千歳はヴィランたちの仕事の決して邪魔はしない。患者として関わりのあるヴィランたちにも、活動中は関与しないし活動中なら治療はしないと口酸っぱく言い続けている。
ヒーロー免許所持者としてあるまじき思考ではあるが、そんな彼らを治療している以上、踏み込んではいけないという矜持があるせいだった。

とはいえ関与しないとは言ってもこうも患者が舞い込んでくるのは困ったもので、千歳の頭をここ最近悩ませるものだった。
更にここで追い打ちをかけてくるように、もう1人の男が6本もある腕の1本で持っていた書類を千歳へ手渡してきた。


「んで、そいつと一緒に転がってきたツレの患者の資料がこっち」


細蟹丞護ささがに じょうご、“個性”【蜘蛛】。蜘蛛っぽいことは大体出来る。左右3本ずつ計6本の腕がある彼は2本の腕を頭の後ろで組み、1本の腕で資料を差し出し、1本の腕で頬を掻き、残りの2本の腕を腰に当てながら、千歳に資料を読むように促してくる。きょろきょろと6つある瞳が忙しなく動いていた。
斜め読みでざっと目を通した千歳の眉間に深い皺が寄る。


「………“個性”因子が傷ついていた?」
「ヤク中同士のもつれあいかと思ってたんだが、よくよく話を聞けばヴィラン同士の抗争だったらしい。んで、相手の1人が銃ぶっぱなして弾に当たったソイツが“個性”が出なくなって、ついでにツレが中毒症状で暴れてすったもんだしながらウチに来たと」
「それで“個性”が出なくなったから“個性”因子を確認したら、傷ついていたと」
「そ。幸い試験的なもんだったのか元々一時的な効果だったのかはわかんねぇが、今は自然治癒済み。やっべーもん出回ってらと思って報告をさ」


細蟹の報告に、千歳は相澤の“個性”が脳裏に浮かんだ。
しかし恐らく彼の“個性”の仕組みとしては、“個性”因子を一時的に停止させるだけのもので、“個性”因子自体を傷つかせている訳ではないだろうという考えに落ち着く。
だがそうだとすれば打ち込まれたそのクスリの恐ろしさにごくりと喉を鳴らした。
これが完成前の物だった場合、完成品が出回ればこの超人社会は恐ろしいほどの混乱に見舞われるだろうということに。

これに関しては調査した方が良いだろう。次から次へと来る問題と頭痛に千歳が頭を抱えていると、次はダミアンが扉をノックして入ってきた。


「失礼します。ご主人様お伝えしたいことが…お前たちもいたのか」
「患者のことでさ。ダンはどうしたの?」
「ブローカーの義爛についてです」
「あぁ〜〜〜…患者から聞いたなぁ…」


ダミアンの言葉に海が何とも言い難いような顔をしながら、気まずそうに頬を掻いた。


「義爛がどうした」
「あのブローカー、我々が彼らに対して無償で行なっている事を知っているはずなのですが、紹介を希望する相手に対して金を受け取ってやっと此処を教えているようでして…」
「紹介された患者には俺から金返しときましたよ」
「…はぁ…義爛を探しておこう。義爛の件はお前たちが新しく来たヴィランたちを中心に話を聞いといてくれ」


情報に関しては恐ろしさすら感じるプライドを所持している義爛に千歳は十分すぎる程の信頼を抱いているが親しき中にも礼儀あり、本当に親しいのかは置いておいてこれは見逃せないと痛む米神を抑えた。
彼は千歳がどうせ怒らないと思ってやったのだろうが、流石に度が過ぎていると感じたようだった。

頭の痛いその話たちは一旦置くことにして、千歳はふと思い出したように嗚呼と小さく声を上げる。


「ダミアン、三つ子に伝えておいてくれ。雄英体育祭1年の部を見て似たものを作っておけと。体育祭は私も見るから録画も頼む」
「かしこまりました」
「本当に雄英の先生になったんですねえ…体育祭って来週にあるやつですか?なんでです?」
「授業に連れていくからだ、元になりそうなサポートアイテムはいくつかあったはずだからな。なるべく早く使えるようにと伝えておいてくれ。私は風呂に入ってくる」


渋い顔をする海は無視をして、千歳はシャワールームへと移動する。自分に使っている時間が無駄に思えてならなかったが、医師である以上清潔にすることは当然のことだった。
自室に隣接している脱衣所で服を脱ぎ、ハーフアップにしている髪を解きながら風呂場へ入りシャワーコックを捻る。キュ、と小気味いい音が鳴ってから勢いよく水が流れ出した。

冷たい水から頭に被ったとき、鏡に千歳自身の姿が映る。
首、腕、胸、腹、足…自分で何度見ても気持ち悪さを感じる全身の縫合痕はいつまでも見慣れないままで、彼は鏡を見るのが嫌いだった。
本人も嫌いなこれを愛しいものを撫でるように触れるのは、この世でたった一人だけ――死柄木弔だけ。
死柄木と千歳が先生と、ドクターと呼ぶ彼らは、これをただ面白そうにずたずたにするだけだ。
千歳が死柄木を大切にするのはこういった理由も含まれていた。

そこでやっと千歳は自分の喉仏にある赤黒い歯形に気付いたようだった。
ステインに舐められた時に血が滲んでいたということは理解していたが、死柄木に噛みつかれて縫合痕が裂けただけだと思っていたようである。
湯によって体温が上がり、血流がよくなったことでじわりと血液が滲んではシャワーに流されていく。
ぼんやりとそれを眺めていると、すりガラス越しに黒い影が見えた。


「ご主人様、死柄木弔からお電話が…」
「風呂だからかけ直す」
「いえ、そうお伝えしたのですが…」
「……勘弁してくれ…」


困ったように口ごもる部下からの言葉に、千歳は心の底から溢れる気持ちをそのままぼそりと呟いた。
すりガラスを隔てて聞こえた主の声は誰がどう聞いても本心と思える程の疲れたものだったことに、顔は見えないながらも容易く想像が出来たそれにダミアンは苦笑いを零す。

一旦間があってから、戸が開いて白い手がダミアンの元へ伸びた。湯で暖まっている様子が感じ取れる血色に少し彼は安堵する。
完全防水のスマートフォンを千歳へと手渡して、ダミアンは主の代わりに戸を閉じた。


「よお、千歳」
「…おはよう弔。どうした、普段なら昼まで起きてこないだろう。傷が痛むか?」
「あ?…あーそうだ、そうなんだよ。痛いから見に来てくれよ」


千歳の言葉に対して、思い出したようにわざとらしく痛いと言い出した死柄木に千歳は少し顔をしかめる。
どう好意的に解釈しても実際に痛いとは思っていなさそうな声色ではあったが、患者が痛いと伝えてくる以上千歳は医師としてそれを無碍にする訳にはいかない。
死柄木はそんな千歳の考えをわかっているといった様子だった。


「痛み止めは?ちゃんと飲んだのか?」
「勿論だ、俺は良い子だからな。飲んだけど痛みで起きたんだ」
「………わかった。行くから少し待っていなさい。ただ、今日は様子を見たらすぐに帰るぞ」
「はぁ?やだよ」
「嫌なら行かんぞ」
「オイオイそれが医者の言う事か?」
「勘弁してくれ、仕事が溜まってるんだ」


ザアァと水音が鳴り響く風呂場内でもしっかりと聞こえる程の、あからさまな溜め息が千歳の鼓膜を揺らした。
それを聞いて一瞬申し訳ない気持ちになった千歳だが、ん?と首を捻った。
そもそも大して用も無いのに呼びつけてくる死柄木に千歳が溜め息をつく場面なのではないか?と。実に真っ当な意見である。

しかし千歳がその真っ当な意見を彼に伝えたところで、わがままな大きい子どもは考えを改めない。自分がしたい事をして、自分のさせたいようにさせる。
こういう他人が迷惑を被る様な所ばかり貴方に似るのは困る。千歳は一度そう真面目にAFOに言った事があるのだが、僕に似るなんて良いことじゃあないか、と一頻り笑われただけだった。

そもそも、死柄木が千歳を頻繁に呼び出す理由を、千歳だけが正確に理解していなかった。
千歳としては死柄木の過去も理解した上で構ってくれる人間が自分以外にいないからだと思っているが、とんでもない勘違いである。あれだけ死柄木に特別扱いをされていて、あまつさえ身体まで重ねているのに。
死柄木も報われない状態だが、それ以前に言葉にしたこともないのだから当然と言えば当然ではあるが。


「頼む弔、良い子だから」
「、……わかったよ、今回だけだ」


わがままなで自己中心的な大きな子どもと千歳は死柄木を例えるが、千歳が真剣に困っているという状態で懇願をすれば、結局彼は普段は変えない意見を変えるのだ。今回のように。知らないのは千歳本人だけだった。


「じゃあな、待ってるぜハニー」
「…嗚呼、待っててくれダーリン」


自分が折れることになったものの、千歳が死柄木を最優先にしているという事実に彼は上機嫌そうにそう言って通話を切る。
ふぅと溜め息をつきながら、鏡の中の自分自身と目が合う。千歳から見えた自分の瞳は死柄木のような、ステインのような紅い瞳の色をしていて、口の中の飴をかみ砕いた。

起きてからずっと千歳を襲っていた頭痛はもうすっかり消えていた。


title:ギリア