平々凡々な日々の出来事

死柄木の治療を終えた後、食事を摂らせ薬を飲ませ、さぁ帰るぞと言ったところで数十分は帰るなと粘られた千歳であったが、それを宥めすかして何とかバーから脱出することに成功した。
どっと疲れたような気がしてぐるりと首を回し、ダミアンへ連絡を取る為にスマートフォンを取り出そうとして――いつも入れている胸ポケットに目的の物がない事に気が付いた。

その事実を千歳の脳みそは一旦受け入れることをやめてしまい、処理しきれない事態にピタリと胸ポケットに手を入れたまま動きが止まる。
数秒止まっていたのち、念の為に医療鞄の中を探りはしたが普段そこへ入れることがない物が入っていることはなく、千歳は思わず空を見上げた。朝日が疲れた彼の目に鈍く刺さる。

腕時計を確認すると現時刻は朝6時。
やらなくてはならないことは山積みで、こんなことで時間を取られている場合ではないという事を勿論千歳はしっかり理解していた。恥を承知で黒霧に助けを求めるのがベストではあるが、戻ったところで素直に病院へ帰れるかどうかの保証が全くなかった。死柄木に絡まれれば帰れない可能性の方が高いと判断したようだ。
判断はしても事態が良くなることはない。その事実で寄りに寄った眉間の皺を人差し指で解しながら、とりあえず人目につかないよう歩こうと考えたらしく彼は足を進め始めた。

この時間の大通りは多少車が通れど、人と自転車はまだ少ない。神奈川から都心なら特急電車で長くて1時間ほど。通勤時間ではない今人通りは少ないが、大通りを歩く訳にはいかなかった。
だが病院があるのは都心ではなく山奥で、ここから自力で帰るのであればあまりにも時間が無駄な状態である。この付近に誰かいないだろうかと、らしくなく都合の良い奇跡を願っていた。


「あれぇ?千歳くん?どうしてここにいるんです?」


のんびりとした女の子の声が千歳の耳に届く。
久々に聞く声だ。昨日からやけに後ろから声を掛けられるなと思いながら半身で振り返った。が、声が聞こえてきた先には誰もいない。

すると今度は正面頭上に気配を感じ取り、千歳は素早く上を見上げる。気配の先にはブロンド髪の女子高生がぎらりと光るナイフを振り下ろしてきていた。
しかし千歳は焦ることなく振り下ろしてきた腕を掴む。小柄な彼女と長身の千歳ではリーチの差が圧倒的であった。
掴んだ腕を押して勢いを殺し、女性相手にするには気が引けたが仕方がないと、担いでいる学生鞄を避けて腰から腕を滑らせ、太腿の裏へと移動させて子どもを抱えるように彼女を抱きとめた。


「んー失敗です」
「渡我…私の血はやらないから、毎回奇襲してくるはやめなさい」
「嫌です。千歳くんは血が出ている方がカァイイです」
「全く…」


千歳の腕に乗りながら見下ろしてくる渡我は悪戯が失敗してむくれる年相応の少女ではあるが、やられた側の彼としては渋い顔をするしかなかった。
気配消しが上手く、身のこなしも素早い渡我の相手をするのは毎回一苦労で、千歳は事なきを得たことにふぅと控えめに息を吐いてから彼女を下ろそうと試みた。
しかし渡我は千歳の頭に抱き締めてきて、降ろされる事を嫌ですと拒絶する。

渡我も千歳から見て分類は死柄木と同じであった。いまいち何がしたいのかよくわからないという点で。
195cmの大男が人通りの少ない裏通りで、小柄な女子高生を抱っこしてしかも頭を抱きしめられているという傍目から見て通報安定のようなこの状況。通報されて困るのは2人とも同じではあるが、果たして渡我がそこまでそれを考えているのかも千歳にはわからなかった。


「わかった、抱えておくからとりあえず頭を離してくれ…何故こんな所にいるんだ」
「今好きな人を追いかけているのです。そうしたら偶然千歳くんを見つけので襲ってみました」


渡我は千歳の言葉でやっと抱えていた頭から手を離す。千歳は不可抗力で胸に埋める形になっていたが故に無意識に止めていた呼吸を再開し、仕方なく彼女を抱えたまま歩き出した。
歩かなくていいって便利ですね、と笑いながら千歳の髪をぽふぽふと撫でてくる小さく無邪気な手に、ついため息が零れた。が、ふと思い至り千歳は足を止める。


「渡我、以前連絡用に渡したスマホ。まだ持っているか?」
「まだありますよ。千歳くんスマホ持ってないんです?」
「忘れたんだ。部下に連絡を取りたいから貸してほしい」
「仕方ないですねぇ、特別ですよ」


仕方ないも何も元々千歳の物ではあるが微塵もそんな事を気にする様子はなく、渡我は背中に担いでいた学生鞄を前に持ってきて、中からスマートフォンを取り出した。


「助かる」
「あ、そうだ!お迎えが来るなら、私も連れていってほしいです」
「構わないが…好きな奴を追いかけていたんじゃないのか?」
「せっかく千歳くんに会えたので、空ちゃんと零ちゃんと恋バナしたいのです!」


彼女の言う名前は千歳が運営している更生保護施設に居る女性の事で、歳の近い渡我と仲が良い。
両手を合わせて、ね?と強請って来る渡我を拒否する理由はなく、わかったと簡潔に了承して受け取ったスマートフォンからダミアンへと電話を掛ける。
患者からの連絡用のものから千歳の声がした事に驚いていたダミアンだが、事情を話して迎えに来て欲しいと伝えると、1分もかからず彼は“個性”でやって来た。

女子高生を抱いている千歳にダミアンがあからさまに驚いた顔をしていたが、その女子高生が渡我だと分かると早足に近付いて来て千歳の頭を撫でていた手を掴んだ。


「怪我人でもないだろう渡我被身子。さっさと降りろ」
「ダンくんはケチです。それセクハラなので触らないで下さい」
「ご主人様を煩わせるな」
「嫌です。千歳くんが良いって言ったの」


ダミアンに引き摺り下ろされることを警戒して、渡我が再び空いた腕を千歳の頭の後ろから回して抱き締めてくる。成人男性の頭が自分の胸に当たっているのは気にしているのか気にしていないのか。恐らく後者である。
それを見て明らかに不機嫌になったという顔のダミアンと、ぶすくれた渡我とで千歳の頭を挟んで睨み合いが始まった。

主人である千歳には恭しい態度の彼だが、基本的に他者へは決して口が良いとは言えない。
女子高生と喧嘩をするのはどうなんだ、そもそも我が儘を言うから抱えてるだけで良いとは言ってない、そんな事より自分を挟んで言い合いをするな。色々言いたい事が千歳の頭に浮かんだが、時間の無駄だと判断したようで言葉を飲み込んでしまった。


「もういいダミアン。三つ子の所に行ってくれ」
「コレも連れて行かれるのですか?」
「コレ扱いは酷いです。千歳くん、この人置いていきましょ」
「俺が居ないと帰れないが?」
「…煩いからどっちも黙ってくれ」


千歳がはぁとため息をつくと、渋々といった様子でダミアンがコートの内側から試験管を取り出して、白色の髪の毛を1本咥える。
元々掴んでいた渡我の手と千歳の手を掴んだことを確認すると咥えていた髪の毛を舌で掬って呑み込んだ。

ふわりと浮く感覚の後、千歳の視界には見慣れた院内にいくつもあるプライベート室へと到着した。
突然現れた3人に驚いたようで、共同リビングで食事をしていた目的の人物たちが同時にびくりと震えたのが千歳の視界の端で確認できた。
渡我を下ろすと、小走りでそこへ近付いていく。


「空ちゃん!れいちゃん!ついでにうつろくん!トガが来ましたよ!2人とも今日もカァイイねぇ」
「まぁ妖精が来たのかと思ったら!ヒミコちゃんは今日もカァイイね!」
「まぁ天使が来たのかと思ったら!ヒミコちゃんは今日もカァイイね!」
「めちゃくちゃ僕だけついで…」


前髪の分け目以外では見分けがつかないほど見た目も声も態度も同じな所謂双子の彼女たちを、渡我がまとめて後ろから抱きしめた。
わいわいきゃあきゃあと騒ぐ女性3人の前に机を挟んで座っていた双子と同じ髪色の虚が、渡我からの扱いに不満げにしながら食事を再開する。

彼らが千歳と海たちとの会話で出てきた三つ子である。一卵性の空と零に二卵性の虚。
彼女らも元々はヴィランとして数年活動していたが17歳の時にヒーローに逮捕。幸い大きな犯罪を犯したわけではなかった為保護観察処分となり、千歳が引き取った子たちであった。
そのままここに住み着いて現在は高卒認定試験を取得し、保育士となる為に大学に通っているのだ。

――閑話休題。
千歳はやっとここまで帰って来たことにふぅと安堵の息を吐いたところで、ダミアンが耳打ちをしてくる。


「ご主人様、三つ子にあの件の話は後で構いませんか?」
「嗚呼、渡我がいるからな。渡我が帰ると言ったらバーの近くに戻してやってくれ。面倒だとは思うが頼むぞ」
「…かしこまりました」
「そう嫌な顔をするな…。渡我、帰るときはダミアンを呼びなさい」
「はぁい、お仕事頑張ってくださいね千歳くん」


ひらひらと手を振った渡我に手を振り返して、まだわいわいと騒ぐ彼らを後目に千歳は自室へと戻った。



―――



普段とは違う忙しさに揉まれたものの、その後の千歳は順調にいつもの日常を繰り返していた。
ヴィランたちを治療し、一般医療棟・更生保護施設・児童養護施設各種に顔を出し、死柄木の治療を行う――実に多忙ながらも院内での特に大きなトラブルは特にはなかった。

千歳個人の事であった大きな出来事と言えば、5月頭にAFOから一緒に雄英体育祭を見ようという誘いがあったことだ。
雄英に臨時教師として就くことになったことを、千歳はAFOや死柄木に勿論伝えてはいない。
ばれたのかと一瞬ヒヤリとした千歳だったが、仕事を理由に断れば珍しく彼はすぐに引き下がった。それに多少の違和感を感じたものの、藪をつついて蛇が出るのは困ると不要な詮索は避けたのだ。

それから、ニュースでヒーロー殺しが保須市でターボヒーロー【インゲニウム】を襲ったという事件。相変わらず彼は元気に活動しているようだ。

録画していた雄英体育祭を見て三つ子たちが作るサポートアイテムのアドバイスを出しつつ雄英生徒への授業日程を決め、5月半ば。
千歳は再び雄英高校の前に立っていた。


「お久しぶりです、ドクター。今日もよろしくお願いします。はいこれ、許可証です」
「助かります、相澤先生。怪我は完治されましたか」
「ええ、まあ。そもそも処置が大袈裟なんですよ」


以前と同じように、千歳を出迎えに来たのは相澤だった。今日も1-Aから授業のようである。
すっかり包帯の取れて初めて見た相澤の顔を、ペストマスクで視線が隠れていることを盾に無作法に見た。
ぼさぼさの髪は変わらないが、無精ひげを生やして控えめに少し小汚いと思いかけて視線を逸らす。
思いかけた時点で遅いことに千歳自身も気付いてはいたが、忘れようと今日の授業内容を頭の中で復習した。

本日千歳が彼らにするのは「捕縛授業」。
先月の授業では単純な力量確認としての戦闘訓練のみだったが、本来彼が教えようとしていたのは捕縛を主とするものだ。
千歳の“個性”は対人に関して一部を除いては異常なまでの制圧力を誇る。それにヒーローとして敵を無力化するのは人的・物的損傷を少なくするために非常に重要なものである。

それを行うために選んだ場所が、緑谷たちは既に入試・授業で体験をしていたグラウンド・βだった。


「生徒達にはHRの時点で着替えてグラウンド・βに来るように伝えているので、早ければ先に到着していると思います。あと、昨日ヒーローネームの考案をしたので、良ければ聞いてやってください」
「助かります。…ところで、緑谷は無事でしょうか」


ふと、録画した雄英体育祭の様子を思い出して千歳は相澤へ疑問を投げかける。
先月の授業中には見られなかった緑谷の“個性”を体育祭で初めて見た千歳の感想としては、恐ろしい程の力を持っていたが余りにも自分の身体に合っていなさすぎると言うものだった。
それを教師側も理解しているはずだが、彼が入学から現在まで除籍されていないのは何故なのか。千歳にはそれが疑問だった。

自身すらも破壊する“個性”は明らかな諸刃の剣だ。威力が高ければ良いと言う訳ではない。
最も多い街中での犯罪に対して利用できるような力にも見えなかったのだ。
千歳の言葉から千歳が考えていた事を予想したのか、相澤は一度左小指で下瞼を摩る。


「まァ…腕は歪んだようですが、完治してます。無茶苦茶ですが体育祭のアレも当初よりマシにはなりました…使いこなせるようになると俺は信じてますよ」
「…随分楽観的な返答ですね」
「奴のヒーローへの想いは確かなものです。…想いは人を変えます」


どこか確信があるような相澤の言葉に、千歳はふむと頭を捻る。

緑谷と轟の会話に関してはテレビ越しでは聞こえない部分だった。会場で見ていた観客も、彼らが会話していた内容に関しては聞こえていなかったようである。
轟は緑谷といくつかの会話があってから、千歳にも言っていた「戦闘には使用しない」と言っていた半燃の“個性”を開放していた。心の蟠りが緑谷によってある程度解消したと考えられる。
結果試合には負けたが人を救う為に自分の身体を心配しないという緑谷の行動は、千歳の思うヒーローとしての最重要な項目ではある為、雄英体育祭を見てから千歳の緑谷に対する評価は上昇していた。

楽観的ではあったが確信しているような彼の言葉を聞いたところで、彼らはグラウンド・βへ到着する。
既に生徒達はコスチュームを着用して待っており、2人が到着したと同時にタイミング良くチャイムが鳴り響き、色とりどりの彼らが全員居ることを確認した相澤は簡潔に「しっかり学ぶように」と伝えて去っていった。


「せんせー!体育祭見てくれましたかー?」
「嗚呼、見させてもらった。お疲れ様」
「先生、今日は何をするのかしら?」
「屋内戦闘はしたと聞いた。今日はここを使用しての屋外戦闘。私相手に複数人で戦ってもらう」


雄英体育祭を経て、やる気に満ち満ちた声が生徒たちから上がる。


「チームメンバーはどのように決まるのでしょうか!」
「先生を捕まえるって厳しくねぇか…?」
「屋外なら機動力と索敵の両方が大事になりそうですわね」
「逆に罠張って追い込むのもありか!」
「ブッ殺していいんだよなァ」
「せめて捕まえるって言いなよ…」


同時に生徒たちがわらわらと喋り出してしまい、千歳は目を閉じてペストマスク越しにこめかみを抑えた。
これから長い授業が始まる。


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