サイレント・サイレント

 古い映画の曲が流れていた。彼女の好きなミュージカル。雨に唄えばと繰り返されるフレーズを聞くと、淹れたてのコーヒーの香りに混じって街路から上る雨のにおいを嗅いだ気がした。
 ベロアのソファーに座ったマタ・ハリは上機嫌で、刷毛にのせた爪紅を塗っている。ふっくらとした果実の唇はきっと綺麗な弧を描いているのだろうと、頭の片隅で他愛もない想像を巡らせて、隣で小説に目を落とすサンソンも、悪くない気分だった。聞き馴染んだ小節に無意識に鼻歌をこぼせば、鈴の音のような歌声が重なる。微かな笑声に細い喉を震わせて、マタ・ハリは満足そうに手のひらを掲げた。
 どうやら終わったらしい。と、パタリと読みかけの頁を閉じて声をかければ、細い肢体がにじり寄る。腕の中におさまったぬくもりに知らず頬をゆるめ、色づいたばかりの指先を手に取った。丸く形の整った十の花弁は室内灯の白い光に反射して、彼女好みの深紅に艶めく。似合っている。そうこぼして手の甲に落とした口づけに、擽ったそうにあがる声。
 滑らせた唇はそのまま指の背へ、食んだ隙間から覗かせた舌先が指間をなぞる。ピクリと薄い肩を跳ねさせたマタ・ハリの、制止する声に咎める色はない。手のひら越しに覗きこんだ深い青の瞳は愉快そうな色をして、ダメだったら、と再度彼の唇を押し返した。
 残念。悪い子ね。叱るような言葉でいて、その実変わらず弧を描く淡い花唇はサンソンの頤(おとがい)に触れ、華奢な肢体をすっかり彼に預けるので、離しがたいと思ってしまう。
 小説の続きを読んで聞かせてと言った彼女は、けれどすぐに難しい話は嫌だと悪戯に頬を膨らませた。小さな我が儘は少し冷えたコーヒーに砂糖変わりの甘さを足すだろうか。
 古びたレコードは変わらず雨の合間に恋を歌っている。紡ぐ言葉の先を促すように、繋いだ手のひらがそっと握り返された。