花の餌

 噎せ返るような甘い薔薇の香りがする。吹き抜けになった硝子の天井は優美な曲線を描き、降り注ぐ人工灯の光を受けて葉は緑の色を濃くしていた。花芯から幾重にも重なった花弁が放射線状に伸びる、大ぶりの薄桃色の花はオールドローズの一種だ。透きとおるようなその花弁は、レディの名に相応しい。レディ・ソールズベリ。札に書かれた英字を確認し、その名に頬をゆるめたサンソンは、溢れるほど咲き誇る一輪に鋏を当てた。
 一年のほとんどが吹雪に閉ざされたカルデアに、温室があると知ったときは随分と驚いたものだ。鑑賞するのはもちろん、こうして時々手入れを頼まれるのも、良い気分転換になる。
 パチン、刃の合わさる硬い音とともに、八重の花が手中に落ちる。と同時、不意にひやりと冷えた温度が目元に触れて、視界が暗く遮られた。
「だーれだ?」
 鼓膜を震わせる鈴の音のような声。ふわりと漂う香水がより一層、濃く甘く、薔薇の匂いを際立たせる。朝露に濡れる花弁のように艶やかなその唇が楽しそうに弧を描いているのだろうと想像して、つられてゆるみそうになる口元を、引き結ぼうと意識を向ける。
「仕事中だよ、マタ・ハリ」
 わざとらしく吐いたため息は、けれど目の前で笑う彼女にはほとんど無意味だろう。丸い青の瞳に映り込んだ彼の顔は眦を穏やかに下げていたのだから、無理もない。掴んだやわい手のひらはするりとサンソンの手を抜け出して、襟元に絡みつく。
「ええ、もちろん。わかっているわ、ムッシュー。手伝わせてちょうだい」
 ことさら甘い声を紡ぐマタ・ハリも先程まで水やりをしていたはずだが、この様子だと、どうやらすべて終えたらしい。どうにもあどけなさの残る愛らしい顔立ちは悪戯っぽく微笑んでいるようで、首を傾げているうちに、僅かな衣擦れの音とともに細い肢体が離れていく。くるり、軽快に踵を返した彼女の手に握られたスカーフに気づいて慌てて手を伸ばしたが、もう遅い。
 薔薇の茂みの影に身を躍らせ、その花の顔(かんばせ)だけ覗かせた彼女は、手にした薄布を見せつけるようにひらひらと振った。
「追いかけっこよ」
 弾む声音とともに愉快そうな笑声をあげて、少女は緑の向こうへ駆けていく。
「……困ったひとだ」
 遠ざかっていく足音を聞きながらもう一度小さく息を吐いたサンソンは、はめた手袋を放り出すと笑い混じりに小さく呟いた。

 駆け抜ける振動に、ティージング・ジョージアの黄色い花が揺れる。視界の端を泳いだ黒髪を追い、曲がった先に広がるのはレッチフィールド・エンジェルの白い花びら。
「マタ・ハリ!」
 呼びかけに答える声は押し寄せるほど咲き誇る花に紛れて聞き取りづらい。硝子の天井からめいっぱい光を取り入れる室内は暖かく、いつものコートを脱いでいてよかったとサンソンはひとり息を吐いた。濃い緑の中を駆ける白いシャツの背、その前を行く、マタ・ハリの纏うオレンジの薄布はひらりひらりと花影の中を舞い踊る。蝶のようだ、と呟いた口元は自然と綻んだ。
 薔薇の茂みはちょうどサンソンの背丈ほどで、女性にしては上背があるとはいえ、華奢なマタ・ハリの姿を容易に隠してしまう。それでも歩幅の違いは二人の距離を徐々に縮めて、とうとう晒された素肌の背を視界にとらえた。薄桃色の花弁がしなやかなそれに影を落とす。
「──捕まえた!」
 伸ばした彼の武骨な手のひらはマタ・ハリの細い肢体を確かにとらえ、勢いのまま、腕の中に引き寄せた。悲鳴混じりの笑い声をあげて、仰向いた彼女はまだ逃げようと身を捩る。
「ああ、もう!」
「降参かい、マドモアゼル」
「ええ、ふふっ。残念だけどそのようね」
 豊かな黒髪越しにこめかみに口づけ囁いたサンソンに、返されたマタ・ハリの声音は言葉にそぐわない軽快さをもっていた。腕の中で身を翻すと、背伸びをした額がサンソンのそれに当てられる。鼻筋が擦り寄せられ、丸い双眸が薄氷の内を覗き込んだ。
「意地悪ね、手加減してくれないなんて」
「蝶を捕まえるなら本気にならないと」
 返した台詞はお気に召したのか。細い喉が一層愉快そうに小さく震える。つけて、とねだると、細い指先が素直にスカーフを襟元に巻きつけた。美しく整えた結び目を見て、思案げに傾げられた首が満足そうに一つ頷く。
「上出来。これなら蝶も逃げ出さないわ」
「それは何よりだ」
 親指で撫でた滑らかな頬に、瞬いた彼女の睫毛の影が揺れる。引き寄せられるように傾けた顔を近づけて──響いた乾いた咳払いに、重なりかけた唇はぴたりと止まった。
「あら。私、お邪魔してしまいました?」
 一際丁寧な口調に反して、向けられた声音は幾分低い。揃ってあげた視線の先で、腕組みをして立つ聖女の姿に、どちらからともなく苦笑を浮かべた。
「……いいえ、マルタ。私たち、とっても真面目に働いているもの。ね?」
 平然と嘯いたマタ・ハリの言葉に、こぼされたマルタのため息は諦めにも近い。親しい分手厳しくもなる彼女は、生来面倒見の良い性質なのだろう。意思の強そうな瞳が、些か咎めるような色をしてサンソンにも向けられる。
「……甘やかしすぎはよくありませんよ」
「申し訳ない」
 肩を竦めて答えれば、やれやれと首を振ったマルタは温室の奥に歩いて行った。その背を見送って、顔を見合わせたふたりは小さく笑い合う。
「約束どおりお手伝いするわ。間引いた分は貰ってもいいんですって。部屋に飾りましょう?」
「ああ、それは、名案だ」
 並んだ後ろ姿が歩き出す。足下に落ちる濃い影に、はらりと落ちた花弁が、鮮やかに色を添えた。