甘いばかりの絵空事でも

 カルデアに幾つかある談話室の中でも、東の端に位置する一室は滅多に人もサーヴァントも通りがからない。幾つかの資材倉庫と資料室に挟まれた小さな部屋は、喧騒から離れて過ごしたいときには最適で、時折そこで暇を潰すのがサンソンの習慣のひとつだった。床上に落ちた薄墨の影は二つ、重なったそれが今日ばかりはこの秘密の小部屋に彼以外の存在がいることを示している。呼気すら溶けて消えそうな静寂は、ぎしりと軋んだ椅子の背をいやに大きく響かせた。
「……さわる?」
 こぼした花唇は眼前で綺麗な弧を描く。椅子の背を握るしなやかな細腕はサンソンを彼女という檻の中に閉じこめて、深い青の瞳が仰向いた彼の薄氷を覗きこんだ。色づいた爪の華やぐ指先が、つと、玉の肌をなぞり豊かに膨らんだ胸元を指し示す。密やかに交わした囁き声と、どことなく気だるげに傾げられた小さな顔。いつもどおりの、他愛ない戯れ。
「……今は、こらえておこうかな」
 宵闇に浮かぶ己の白磁の顔を見据え、答えた口元にうすらと笑みを刷けば、そう、と些か物足りなさそうにマタ・ハリは身を起こした。それに反するように、丸みを描く腰を引き寄せると、傾いだ身体が腕の中に倒れこむ。喉の奥で漏れた小さな悲鳴とともに、ぱちりと瞬いた双眸が彼を見上げ、それからひどく愉快そうに肩を揺らした。
「嘘吐きね」
 身動ぎ、膝の上で器用にバランスをとったマタ・ハリはサンソンの首に腕をまわす。豊かな黒髪が隠す小さな額にこつりと己のそれを当てると、綻んだ果実の唇が触れるだけのキスをした。その先をねだるような啄みに、指の背でなぞった頬を上向かせるともう一度呼吸を塞ぐ。重ねるだけのやわい感触を離してしまうのはひどく惜しい気がして、戯れのようなそれを幾度か繰り返す。やがて離れた花の面立ちは震える睫毛に一抹の名残惜しさを滲ませて、それでもどこか満足そうに笑みを浮かべた。もみじの手のひらが伸びるとやわらかな感触を楽しむようにサンソンの髪を撫でる。見上げてくる視線が矯めつ眇めつじっと注がれるのに、おどけた様子で首を傾げた。
「視線で穴が空きそうだな」
「見惚れてたの。やっぱりハンサムね、あなた」
 口の端を上げたマタ・ハリの肩口を艶やかな黒髪が流れる。宙に浮いた彼女の爪先がゆらゆらと揺れるのを見て、抱えた細腰をさらに引き寄せた。
「君も綺麗だよ、愛らしいひと」
「お褒めに預り光栄だわ。それで、お好きなのは顔だけかしら」
「……知りたい?」
 徒に胸元のタイをほどく指先を掴んだ手のひらで引き寄せれば、再度距離が縮まる。見つめあった視線の先でどちらからともなく吹き出して、今夜ね、と艶めく囁きがサンソンの耳朶を甘く掠めた。