視線のその先

 古い紙とインクの匂いが広い室内に満ちている。背丈を優に超える書棚の並ぶ図書室には、向かい合って座るマタ・ハリとサンソン以外に人影はなく、時折二人が手元の頁をめくる音だけが静寂を破る。ふっと顔を上げたマタ・ハリは、手元に集中していた意識を休めるように顔を書棚の方に向け、それから正面に座る青年に視線を向けた。
 やわらかそうな灰褐色の髪は俯きがちに紙面に向けられている。つるりとした白磁の顔に、節だった丈夫な手が当てられ、頬杖をついていた。薄氷の瞳は珍しくかけられた細縁の眼鏡の向こうでゆるりと瞬きを繰り返し、窓の一つもあれば差し込む茜が精悍な顔立ちに濃く陰影をつけたのだろうが、生憎今は室内灯の味気ない光が甘さの残る目元に睫毛の影を躍らせるにすぎない。
 いつもの白いシャツの上に厚手のカーディガンを羽織っているのは、今日がレイシフトもクエストもない、完全な休日だからだ。対するマタ・ハリも白いケーブルニットにネイビーのチェックスカートという出で立ちで、下ろした豊かな黒髪が背中で揺れていた。休日特有の、くつろいだ空気が二人を包んでいる。
「ねえ」
 ブーツの爪先を揺らし、僅かに身を乗り出した彼女は口を開いた。あまり目にすることのない青年の目元のレンズは、雑誌を読むのにも飽きてきた彼女の好奇心を十分に引く。
「それ、貸してくださらない?」
「うん」と短い相槌を返して、ゆっくりと顔を上げたサンソンは、言葉に合わせて自分の丸い双眸を指す少女に首を傾げる。ややあって意図を察したのか、構わないよ、と続けて目元のそれに指をかけた。
「あっ、待って。そのまま」
 ツルを掴んだ指先を制止する声を上げる。不思議そうに瞬く灰青の瞳をよそに、どこか楽しそうに微笑んだマタ・ハリは立ち上がると軽い足取りで青年の隣に腰を下ろした。
「こちらを向いて」
 かけた言葉に、白い面差しがおとなしくマタ・ハリの小さな顔を見つめ返す。手を伸ばせば互いの頬に触れられる距離で、両の手をこめかみの横に添えれば、漸く悟ったサンソンの薄い瞼が閉じられた。レンズの向こうで白い睫毛の先が微かに震える。そろりと眼鏡を外す動作にあわせて、無意識に惹かれた視線が伏せた瞼から通った鼻筋へ、それからきゅっと結ばれた唇へと流れた。
 遮るもののなくなった青年の面立ちに、艶めく青の視線をじっと注ぐ。けれどつめた息が触れるより早く身を離して、マタ・ハリは取り上げたそれを顔に当てた。
「……どうかしら」
 囁くような声音に、揺れる睫毛の白い影。ゆうるりと持ち上げられた瞼の向こうから、現れた双眸があどけなさの残る花の顔(かんばせ)を映す。
「ああ──似合ってる」
 そうこぼして綻んだ口元は、けれどそのまま一息に距離を詰めて、ふくらとしたマタ・ハリの唇に、吐息がかかる距離で止まった。こつり、合わさった額をやわらかな髪が擽る。触れあわせた鼻筋と、傾いだ視線が互いを探るように交錯する。
「……キスをするには、少し邪魔かな」
 わざとらしく吐かれた言葉に、返す声音は笑声に混じり、挑発的に上げた頤(おとがい)がかさついた親指に捕らえられた。
「……それなら、あなたが外してくださる?」
 そう紡いだ台詞ごと唇を塞がれて、幾らか粗雑に目元に触れた指先に、少女は甘く喉を鳴らした。