SAUVAGE

 ──香りが違う?
 豊かなブルネットから覗く耳朶に鼻先を埋めたときだった。組み敷く少女の小麦の肌が、常夜灯の光の下で艶かしく浮かぶ。吸いつくようにきめ細かなそれからは、いつも匂い立つ花の香りがした。
 彼女の好みはそれなりに知っているつもりだ。真夏の夜の茉莉花、雪に埋もれるチュベローズの惑うような甘い香り。けれど、今夜のそれは知っているそのどれとも違う。少し苦みのある柑橘のような、瑞々しく甘い香りだ。
 一段と濃く香る気がする耳裏に舌を這わすと、ふるり、と薄い肩が震えた。繋いだ手が耐えるようにサンソンの指先に縋りつく。触れるだけの口づけ。舌先でなぞって、もう一度。首筋、肩、胸元、繰り返すそれに噛み締めた桜色の唇が息をつめる。それでも僅かにもれる甘い吐息が、脳裏に掠めた違和感を徐々に焼いていった。理性が押し潰されて、より本能に近い衝動がじりじりと腹の底を焦がす。
 ひとまずは強情に結ばれたままの花唇を開かせようと、太陽の香りが生む違和感を押しやって、彼は薄いネグリジェのリボンに手を伸ばした。


「もう、シャルルったら」
 火照った肌を、ぬるめの湯が跳ねる感触が心地いい。シャワールームの壁に背を預けたマタ・ハリの声は、言葉とは裏腹にちっとも咎める気配がなかった。存外厚いサンソンの胸元を押し返して、細い喉から楽しそうに笑声をあげる。
「先、戻ってるわね」
「……ああ」
 するり、腕の中から抜け出した後ろ姿へ返した声音に、わざとらしく含ませた名残惜しさに捕まるほど彼女は甘くない。僅かに振り返った口元に小さく笑みだけを刷いて、ガラス扉の向こうに消えていった。
 そのまま汗を流すサンソンの耳には、水音に混じって曇りガラスの向こうから微かな衣擦れの音が届く。その気配が完全に消えるのを待ってから、ぬるま湯を吐き出す蛇口を止めた。
 シャワールームの前には、部屋と区切るように衝立が置かれており、そこに掛けられたタオルを取ると濡れそぼった身体を拭く。向かいの壁際にはコンソールテーブルがあり、化粧品や小物の類いが整然と並べられていた。
 ふと、額に張り付く髪の隙間から気づいたそれに目を凝らす。幾らか並んだ小瓶のうち、少し小さめのガラス瓶。一見濃い青色に見える液体は、瓶の口から僅かに減っていた。何とはなしに手にとって、鼻先を近づける。小口から匂ったのは、つい先ほど、彼女から香ったのと同じもの。
 ──ああなるほど、と漸く合点がいった気がした。妙に頭の隅に引っ掛かった違和感はこれだったのだと、サンソンはその男性用の香水瓶をまじまじと眺めやった。


 香水を変えたのか、と問うと、マタ・ハリは一度丸い瞳を瞬かせて、それからすぐに何か思い当たった節で頷いた。
「ダ・ヴィンチに、もう使わないからと譲ってもらったの」
 手を差し出すマタ・ハリを見て、一度踵を返すと香水瓶を取る。
「男性ものだけれど、香りは気に入っているのよ」
 と、小瓶を受け取った彼女が手招くので、誘われるまま寝台に腰かければ首筋に一吹きかけられた。指先で馴染ませて、スン、と鼻を近づけた彼女は満足そうに笑う。
「ほら、いい香り」
 吐息が耳朶に触れる。湯上がりのほんのりとあたたかい肢体が肩口に寄りかかるのを、そのまま抱き寄せれば幾分愉快そうな声音が鼓膜を震わせた。
「手癖の悪い殿方には多少牽制になるかしら?」
「……どうかな。君の香りまで染めようだなんて余計に焚きつけてしまうかも」
「あら。今のあなたみたいに?」
 抱き寄せた動きのまま、なし崩しに寝台に倒れこむと腕の中の少女は彼の顔を覗きこむ。艶やかな髪が頬を撫で、見下ろす青の瞳は、星が瞬くはずの夜に太陽のように輝いている。
「……耐え性はあるつもりだよ」
「ええ、もちろん。よく知っていますわ」
 返された言葉も冗談めかして軽やかに響くので、一つため息を吐くと腕の中の彼女ごと体勢を変えた。シーツの海の中、抱きしめる腕の力を強くするとマタ・ハリはますます愉快そうに喉を鳴らす。仕返しとばかりに耳朶に甘く歯を立てれば、大袈裟に細い足をばたつかせた。子どものような戯れは、太陽の香りを一層濃くする。先ほどまで彼女からしていたそれが彼自身からも漂っていることに、思考がとろりと溶けていく気がした。混ざりあって一つになった心地よさが、瞼に穏やかな眠りを誘う。
 弾けるような鈴の笑声がやがて密やかな囁きに変わり、見ないはずの夢に沈むまでの束の間、鼻を擽る香りはやはり甘かった。