Silent Night

 湯上りの甘い香りがまだ室内に漂っていた。ローブを羽織った細い背が思案気にクローゼットに向かっている。行儀よく姿勢を正して出番を待つドレスたち。聖夜に控えたパーティーに彼女が着ていくならばやはり深紅だろうか。あるいは、とうつ伏せにベッドに寝転んで、マタ・ハリのしなやかな肢体を眺めるサンソンは思考を巡らせる。
 室内灯に照らされて浮かび上がる少女の顔には既に美しく化粧が施されていた。華やぐ指先は薄く桃色がかかったベージュに、可愛らしくパールとゴールドのラメがあしらわれている。華奢なその指先がいくらか迷うそぶりを見せて、選んだモスグリーンのドレスに、予想は外れか、と口の端をゆるめた。
 するりとローブがほどけ、薄い肩を流れて落ちる。ほどよく肉のついた、しなる柳のような背。肩紐の間にくっきりと浮いた肩甲骨が彫像のように美しい。締まった足首からやわらかなふくらはぎ、腿へとサテンの生地が覆い、胸元から袖にかけて刺繍が施されたレース生地の向こうに瑞々しい肌が透ける。五分丈の袖口から手、腕、丸い肘と伸びて、マタ・ハリはちらりと視線を寝転ぶ彼に向けた。
「……留めてくださる?」
 サテンとレースの切り替えの位置で、小さな金具が揺れている。身を起こし、端に腰かける彼女までにじり寄ったサンソンの動きに合わせて寝台のスプリングが軋む。
 常は流れる絹糸のような黒髪が今はゆるく巻かれて波打っていた。片側に寄せられたその下から、現れたうなじの細さに目を眇める。レース越しに透ける吸いつくようにきめ細かな肌から、匂い立つ甘い香り。チュベローズとジャスミンの咲き誇るような濃い香りだ。夜の花、異性を惑わすと言われるその芳香に、今宵の催し物があるいはエスコートを必要とする類のものであったなら、承諾はしなかったかもしれない、と内心嘯いて、華奢な金具に手を伸ばした。瑞々しいその背をレースが覆い尽くしてしまう前に、半ばまで上げたファスナーの上、覗く肌に口づけを落とす。薄い唇が触れるだけ、それでも幾分長く触れたぬくもりに、マタ・ハリが僅かに微笑む気配がした。
 振り返った彼女は深い青の双眸に素肌のままの上体を晒すサンソンを映して、その白磁の頬に手を添える。アイラインの引かれた眦がつと下げられ、彼の顔を覗きこんだ。
「あなたも来る?」
 その誘いは数日前にも一度発されたもので、いくらかの気遣いと期待とが静寂に溶ける声音に含まれている気がした。
「……魅力的な申し出だが、友人の集まりを邪魔してしまうのは忍びない」
「……そう」
 今夜は彼女が普段懇意にしているサーヴァントたちとささやかなパーティーが開かれる予定だった。聖夜に限らず酒精に目がない彼女たちだが、今年に限っては、ドレスアップした姿で華やかに過ごすことにしたらしい。マタ・ハリも随分と前からそれを楽しみにしていたことをサンソンは知っている。わかった、と小さく呟いた彼女はルージュの塗られた唇で一度サンソンのそれを塞ぐと、艶やかに微笑んだ。
「そろそろ行くわ。ブーディカに髪をセットしてあげる約束をしているの」
「ああ。楽しんで」
 見送る台詞にマタ・ハリは小さく頷く。彼女にしては珍しく澄まして尖ったハイヒールが扉に向かって歩く足元でコツンと硬質な音をあげた。