POCKY

 また妙なことが流行っているな、くらいにしか思っていなかったのだ。きっかけは赤のセイバー、もとい、夏の装いも涼しい赤いライダーの勘違いからだという。しかし、そもそもを辿ればそれすらも黒幕は彼女だという噂だから、今目の前にいるその人物の手に派手なパッケージのチョコレート菓子が握られていたとしても何の不思議もない、のかもしれない。
「……一応聞くが、それは?」
「チョコスティックよ。今カルデアで流行っているの。知らない?」
 知っているとも。バレンタインの一件で面白がった子どもたちによってまことしやかにカルデア内に広まったそれは、マスターを中心にいい年をしたおとなたちを困惑と叫喚の渦に陥れているのだから。
 ゲームと題したそれは、棒状のチョコレート菓子を二人がそれぞれ端から咥え、どちらが先に口を離すか競う。要は根競べだ。
「そもそも君が広めたんだろう?」
「あら、あなたもその話、聞いていたのね。私はちょっと大げさにあの子に伝えただけなのに」
 ぶう、と頬を膨らませる少女──マタ・ハリを前にサンソンは困ったものだと息を吐く。わかっているくせに、本当に性質が悪い。
「それで? まさかとは思うが、それを僕にもやれと?」
「ふふ。せっかくだもの。流行にはのっておくべきだわ」
 ほら、と差し出されたチョコレートのコーティングされたスティックを前にほんの少し身を引く。いくらここが宴の席で、彼女もサンソンも酒が入っているとはいえ、こんな人目のつく場所で口付けの真似事など──。
「えっ、サンソンとマタ・ハリでするの!? スティックゲーム!」
「マスター……」
 今ならまだ逃げられるという淡い期待は響いた彼らの主の一声で無残にも砕け散った。その上その声音につられて、周囲で飲んだくれていたサーヴァントたちの視線も一斉にこちらを向いている。
「あらあら、注目の的ね。やりがいがあるわあ」
「……勘弁してくれ」
「女性からの誘いを断ったりしないでしょう? シャルル」
 にこりと笑んだその顔はまさしく小悪魔的な可愛らしさ。ここまできて、逃げ出すのは確かに格好がつかないだろう。
 差し出されたままの菓子を前に観念すると口を開く。くわえたそれはほのかに甘かった。
 持ち手の部分を同じようにマタ・ハリがくわえ、ちらりとあった視線がゲームの開始を合図する。
 ぱくり、先に齧り付いたのは彼女の方だった。ふっくらとした唇が一口こちらに近づく。思っていたよりも距離が近いな、と迫る端正な顔を前に半ば瞳を伏せて、進めた一口はマタ・ハリのそれより僅かに大きい。負けず嫌いは彼の性分なのだ。ぱくり、ぱくり。一口進める度、距離が縮まる。互いの前髪が触れ、覗き込めば深い青の瞳に己の白い面差しが映り込む。時折覗く口腔の奥の赤い舌先に大衆の面前でなければさっさと塞いでしまっているのに、などと邪なことを思った。酔いどれたちの固唾を呑んだ視線は横顔に突き刺さって痛いほどだ。マスターなど、先程から両手で顔を覆っている。そのくせ指の間からしっかりと覗き見ているのだから、あの年頃の好奇心は恐ろしい。
 と、逸れた思考を引き戻すように、しゃく、と砕く音が耳朶を叩いて、また一つ彼女との距離が近づいた。艶々とした頬が眼下に迫り、僅かに首を傾げる。鼻筋が触れる。
(……いつまで続けるつもりだろう)
 いくらここが宴の席とはいえ、まさか本当に最後まで続ける訳にもいくまい。頃合いを見てどちらかが引かねばならない。ならない、のだが。しゃくり、さらに進めた唇を前に少女の顔は動じた様子を見せなかった。それどころか伏し目がちの花の顔は更に距離を縮め、残された互いを隔てる障壁はあとほんの数センチだ。
 不意に放り出していた片腕に彼女のやわい手のひらが触れる。それは身体のバランスを取ろうと伸ばした手に過ぎなかったが、サンソンの肩は反射的にびくりと揺れた。その僅かな動揺に合わせるようにマタ・ハリは更に一口と齧り付き──唇が触れるか、否か。確かに柔らかく甘い感触を掠めるように彼の唇に残して、最後の一口を飲み込んだ少女の顔は離れていった。
「……私の勝ち、かしら?」
 微笑んだ愛らしい面持ちとともに、触れていた手のひらも離れていく。
「え! 待って、マタ・ハリ! 今本当にしたの?」
「さあ? どうかしら」
「なにそれ!」
 きゃあきゃあとかしましいマスターとともに愉快そうに咽を鳴らしたマタ・ハリは去って行く。その背を見送るサンソンの肩を、近くで静観していたサーヴァントが大笑いしながらバシバシと叩いた。
「あっはっは! 災難だったねぇ! まあ良い余興にはなったよ」
「やかましい」
 人意地悪く笑う音楽家の手から杯を奪い取ると、不機嫌な顔のまま一口呷る。
「負けず嫌いはお互い様かな。で? どうするのさ、随分と熱烈なお誘いを受けていたようだけど」
「こういうときばかり目敏いな君は」
 ドカリと隣に腰を下ろして、口の端を歪めるアマデウスを前に呆れたように息を吐く。
 彼の言うとおり、結局最後まで互いに引くということをしなかった。だが最後の瞬間、ほんの一刹那唇を掠めていったあのとき、至近距離でぶつかった瞳は確かに笑んでいた。ひどく蠱惑的で挑発的な──ここまでされて黙っているの、と問う悪魔の囁き。要するに煽られたのだ。あの愛らしい顔をした少女に。
「……売られた喧嘩は買う性分なんだ」
 なみなみと注がれた杯を見下ろす。へえ、と愉快そうに頷いた男を余所に一息に麦酒を飲み干すと、ごとりと杯を置いた。知らず口には笑みが上る。後に音楽家はそれを凄惨だったと語ったけれど。
「……今夜絶対抱き潰す」
 低く零した声音に「目が笑ってないよ」というアマデウスのケラケラと軽快な笑い声がかぶさった。