ロマンティック・ストロベリー

 甘ったるいな、と思った。医薬品のツンと鼻に刺すようなにおいの中で、ともすれば幼さばかり強調するようなその甘さは、彼女が身に纏うにしては珍しい。
「このカルテはここでよかったかしら?」
「ああ、ありがとう」
 ファイルに綴じられた書類の束を差し出すマタ・ハリに短く礼を返しつつ、さて何の香りだったかと首を捻る。
 春を前に急遽始めた医療室の大掃除、素材集めに駆り出されたナイチンゲールに代わって彼女は朝から作業を手伝ってくれていた。今まで気づかなかったのは、それが香水の類いよりもずっと微かなものだったからだろう。
「……いちご?」
 暫くの黙考の後呟いて、ああそうだと確信を得る。どことなくこれから訪れる春に向けて心を逸らせるような、甘過ぎるほどの香りはあの艶々とした果実の香りだ。
 対するマタ・ハリは僅かに首を傾げ、思い当たる節があったのか、あっと短く声をあげた。
「ごめんなさい、きつかったかしら?」
「いや、ただ……珍しいなと思って」
 言外に君の好みとは違うだろう、と含ませれば、微かに笑ったマタ・ハリは小さな手をサンソンに向け差し出す。きめ細やかな肌の上、桜貝の爪が行儀よく並ぶ指先から一層濃く赤い果実の香りがした。
「クリームをもらったの」
 あの子に、と続けられた言葉を聞いて漸く合点がいく。彼らのマスターはまだ若い──少女の可憐さをことさら意識させる甘さは、あの年頃が好みそうな類いのものだ。
「似合わないのは分かっていたのだけれど……ふふ、嬉しくって」
 ふくらとした唇が最上の幸福と言わんばかりに謳う。春に染まるその顔(かんばせ)に、思わず目を眇めた。


「──存外純粋なんだな、彼女も」
 スタッフに呼ばれ去っていったマタ・ハリの背を見送って、作業に戻ろうとした矢先、衝立の奥から軽やかな声がかかる。聞き覚えのあるそれに小さく笑うと、灰青の瞳を現れた人物に向けた。
「盗み聞きかい、シュヴァリエ」
「たまたまさ。薬品整理を私に任せたのは君だろう」
 ほら、という掛け声とともに、シュヴァリエ・デオンはその細腕にそぐわない大量の段ボールをどさりと床に下ろす。そういえばそうだったなと眉尻を下げ、乱雑に積まれた箱を覗きこんだ。
「……さっきの君の言葉だが」
「うん?」
「彼女は元々そういう女(ひと)だ」
 取り出した鮮やかな緑の薬品に顔をしかめる。ラベルがないのは概ね正規の薬品ではない。「廃棄だな……」と呟きつつ作業を進めるサンソンの様子に、デオンは微かに口の端を上げると、細い腰を卓に預けた。薄い唇が徐に開かれる。
「余裕だな。嫉妬のひとつもするかと思ったよ」
「僕が? ……まさか」
 ふっと口を吐いて出たのは静寂に溶けて消えるような小さな笑いで、デオンは心外そうに柳眉を上げる。あまり目にすることのないその表情にまた喉を鳴らし、そうだな、と思案げに視線をさまよわせた。
「……可愛いな、とは思ったよ」
 ぽつり。こぼれ落ちたその台詞はデオンの目を見開かせ、やがて頤(おとがい)が呆れたように宙を仰ぐ。その言葉の真意を掬い取ることなど、この騎士には造作もないことだろう。
「──すっかり当て馬だ」
「悪いね」
 笑声混じりのその答えに、デオンは今度こそ何も言わず肩を竦めた。
 最愛の人に送られた香りを纏って駆けていった少女を想い、サンソンは穏やかに笑う。焦がれる姿を好ましいと想ったその眼差しに、恋も焦燥も、浮かぶことはない。赤い果実の残り香がふわりと鼻を擽った気がして、花のように綻んだ少女の幸せが、少しでも長く在るようにと願った。