彼女の名前

 三角形の描かれた盤の上、中途半端に進められた二色の駒を前にマタ・ハリは頬杖をつく。相手のいなくなったボードゲームほどつまらないものはない。吐いたため息は賑やかしいレクリエーションルームの空気に紛れ、片付けてしまおうと伸ばした指先が、不意にかけられた声音に動きを止めた。
「やあ、マタ・ハリ」
 青年と少年の間くらいの、少し高めの声音。太陽の下で輝く砂漠のような金髪の下で、向けられた人懐っこい笑みにマタ・ハリもすぐに相好を崩した。
「こんばんは、ビリー」
 ウイスキーの入ったグラス片手に、ビリー・ザ・キッドは僅かに首を傾げる。
「あれ、ロビンはどうしたんだい?」
 まさについ先ほどまで空っぽになった向かいの席に座していた相手の名前に、マタ・ハリは小さく苦笑を浮かべた。
「エリザベートに連れて行かれたわ」
 何だかんだと面倒見のいいロビンフッドがことさら甘いのがあの少女なのだが、それはそれとして、彼がおとなしくこの場を去ったのにはもうひとつ理由があった。盤上を見遣ったビリーもすぐに気づいたようで、ああ、と喉を鳴らす。
「姐さん、この手のゲームは強いからなあ」
「負けた方がお酒を奢ることになっていたのよ」
 白と黒の十五の駒は、彼女の形勢が有利であったことを示している。もちろんロビンとて敗走を決めるつもりなどなかったのだろうが、普段は渋々といった体でエリザベートに呼ばれていくところを素直についていったあたり、そういう算段もあったのだろう。
「仕方ない。じゃあ続きは僕が」
「あら、いいの?」
「僕が負けたらグリーンの秘蔵の酒を奢らせよう」
「私が負けたら?」
「その時は姐さんのお気に入りを僕に飲ませてよ」
 ぽすりと一人がけのソファーに腰を下ろして、素知らぬ顔で自分の懐は一切痛まない条件を示してきたビリーにたまらず笑声をあげると「いいわね」と頷いた。
 バックギャモンはすべての駒をどちらが先にゴールさせることができるかを競う。賽子を振り、自陣の黒い駒を進めたビリーは、そういえば、と盤上を見つめたまま口を開いた。
「聞きたいことがあったんだけど」
「あなたが、私に? 何かしら」
「マルガレータって、君の本当の名前?」
 投げかけられた予想外の言葉に、丸い双眸を瞬かせる。顔を上げたビリーはまったく他意はないという様子で不思議そうに首を傾げた。
「お医者先生がそう呼んでるのを聞いたからさ」
 先生とビリーが呼び、かつマタ・ハリのことをその名前で呼ぶ相手は、このカルデアには一人しかない。もっとも、灰褐色の髪をしたあの青年がその名前を口にするのは彼女と二人きりの時に限るのだが。
「言っとくけど、盗み聞きしたわけじゃないよ。たまたまアサシン部屋近くの廊下を通りがかったら、君たちがキスしてただけ」
 マタ・ハリの顔色から何かを読みとったのか、僅かに口角を上げてビリーはそう嘯いた。肩を竦めた彼女は「別に構わないわ」と呟くと、止まっていた手を賽子に伸ばす。
「とっくの昔に忘れられた名前よ」
「……ふうん」
 気のない素振りで返せば、ビリーは拍子抜けしたように相槌を打ち、ウイスキーのグラスを一口呷った。
「まあ、いいよ。『陽の目(マタ・ハリ)』以外の呼び方があるなら教えてほしいと思っただけだから。ほら、よっぽど耳馴染みがいいだろ?」
 「マタ・ハリ」とはそもそも「陽の目」や「暁の光」を意味するマレー語だ。ニューヨーク生まれの彼に馴染みがない言葉なのは仕方のないことだろう。つい先程彼がロビンを指して口にした呼び方を思いだし、ふとあることを思い付く。
「それなら『マリーナ』と呼んでちょうだいな」
「うん?」
 思わぬ提案につり目がちの瞳が丸く見開かれる。マリーナ、と口の中で繰り返すと、ビリーは満足そうに頷いた。
「いいね、呼びやすい」
「気にいってくれたかしら」
「まあね。それで? はじめに君をそう呼んだのは、誰なのかな」
 組んだ脚をぶらつかせ、こちらを伺う愉快そうな視線にマタ・ハリの唇も悪戯っぽく弧を描く。
「私の最後の恋人よ」
「うへえ」
 悪趣味、と舌をつき出し仰け反る少年を前に鈴の笑声がマタ・ハリの喉を震わせる。卓上のボードゲームは、相変わらず彼女に有利なままだった。

◇◇◇

「やあ、マリーナ。今日も先生の手伝いかい?」
 医療室の扉が開き、現れたビリーはマタ・ハリの姿を認めるとにこやかに手を振った。どうにも無傷とは言いがたいその手を見て、呆れたように眉尻を下げる。
「そういうあなたはまた怪我したの?」
「あはは、ちょっと遊びすぎたかな。悪いね、先生」
「そう思うなら無茶な戦闘は控えてほしい」
 ざっくりと切れた腕の傷を前に、苦笑を浮かべるサンソンもこの程度は日常茶飯事だと言いたげに手早く処置していく。数分もしない内に綺麗に塞がった傷口を見て満足げに頷くと、ビリーはさっさと立ち上がった。
「ありがと。二人は今日一日医療室当番かい?」
「いや、午後はフローと交代だよ」
「それじゃちょうどいいや。ランチのあとロビンたちとカードゲームの約束をしてるんだ」
「よかったら二人も来なよ」と続けたビリーは扉に向かって踵を返しかけ、ふと思い出したように足を止める。
「次は勝つからね、マリーナ」
「えぇ、楽しみにしてるわ」
 くすりと笑ったマタ・ハリの声を背にビリーは今度こそ扉の向こうに消えていった。
「仲が良いんだな」
 こちらも笑いを含んだ声音でかけられたサンソンの言葉に、薬剤を整理していた棚から振り返る。
「君のことをマリーナと」
「ああ……ふふ、そうね」
 悪趣味だと笑った呼び方をどうやらビリーは気にいったらしい。あれ以来、面白半分親しみ半分でそう呼びかけられることが多くなった。英霊としての外見年齢はそう変わらないが、あの年頃の少年にその名前で呼ばれると、少しだけ面映ゆい。
 知らず頬をゆるめるマタ・ハリを見てサンソンはつと灰青の瞳を細める。ゆるりと首を傾げ、カルテで隠した口元に笑みを刷いた。
「……浮気かい?」
 放られたその言葉は明らかに揶揄いの色を含んでいたので、答えるマタ・ハリもまた、軽やかな笑声をあげる。
「そんなのじゃないわよ」
「ああ、冗談だ」
 くすくすと二人して喉を鳴らして、残った作業を片付けるとビリーにならって食堂に向かうことにした。奥のスタッフに声をかけてから医療室を後にすると、幾分高い位置にあるサンソンの横顔を見上げる。
「でも、少しくらいは本気にしてくれてもよかったのに。あなたの妬いてるとこ、見てみたいわ」
 冗談混じりの台詞に、並んで歩く青年の瞳が虚を突かれたように瞬いた。暫くしてマルガレータ、と呼ばれた声に足を止めれば、屈んだ上背がマタ・ハリの顔に影を落とす。小さく息を呑むのと同時、薄い唇が彼女のそれと重なった。
 ふくらとした下唇をやわく食まれて、心臓がひとつ跳ねる。深すぎず、けれど触れるだけとは言いがたい熱は甘い音を立てて離れていく。持ち上げた瞼の先で、白磁の顔がこちらを見つめていた。
「……嫉妬していない。とは、言ってないかな」
 やわらかな髪から傾いだ首筋が覗く。細められた薄氷の瞳を前にマタ・ハリは名残惜しさを感じる唇を一度開いて、それから小さく息を吐く。
 私の負けね、という言葉は、まだ彼には言いたくなかった。