ワンデイ・ウィークエンド

 カルデアにいるサーヴァントの中には嗜好品の類いをほとんど持たない者もいるが、生前から洋服や靴に目のなかったマタ・ハリは、どちらかと言えば衣装持ちの部類に入る。
 クローゼットから取り出した桜色のブラウスに袖を通して、下ろした髪をかきあげると、いつもより小ぶりな飾りを両耳につけた。フレアスカートの裾をふわりと翻し、卓上に用意していた冊子を手に取る。オフの日の今日、何をして過ごすかは既に決めてあった。
 問題はどこに向かうかだが──暫くの黙考の後、談話室に向かうことにする。図書室ほど息が詰まることもないだろうし、作業に飽きてしまったら、食堂にでも移動すればいい。
 特に急ぐ理由もなく、散策も兼ねてのんびりと進めた足は、数分後ようやく目的地にたどり着いた。日や時間によっては、作家や音楽家たちが話に花を咲かせていたり、賭け事好きのサーヴァントがカードゲームに興じていたりするが、今日の先客は一人だけのようだ。
 ソファーにゆったり腰を下ろして、組んだ足の上で広げた雑誌に視線を落とす見慣れた横顔に、知らず口元がゆるむ。パンプスの踵を鳴らさないよう気を付けて、マタ・ハリは誌面に顔を向けたままのサンソンに近づいた。
「ごきげんよう、シャルル。お邪魔してもいいかしら?」
 呼びかけに白磁の顔が上げられる。凍てついた冬の青空を閉じこめたような薄氷の双眸が、灰褐色の髪の隙間から彼女を見上げた。随分くつろいだ様子から見るに、今日は彼も非番らしい。
「やあ、マルガレータ。もちろん、構わないとも」
 精悍な顔立ちの中で甘さを漂わせる目元がやわらかく下がり、ローテーブルを挟んだ向かいのソファーを指し示す。促されるまま腰を下ろしたマタ・ハリは、彼が熱心に読んでいた雑誌の中身に目を止めると口を開いた。
「あら、今夜はあなたの手料理が味わえるのかしら」
「君の舌を唸らせる自信はあまりないな」
「そんなことないわ。私、あなたの作る料理、好きよ」
 優しい味がするもの。と、くすりと喉を鳴らせば、サンソンは些か照れたように頬をゆるめる。料理雑誌の頁を徒にめくり「君は……」と続けた口元が、マタ・ハリの手にあるものに気づくと、納得したように頷いた。
「ああ、新しいアルバムだね」
「ええ、聖ゲオルギウスがまた写真をくださったから」
 かの高名な聖人は、カルデアに来てから趣味でカメラを始めたらしい。日常の風景や、季節のイベントが開かれる度、撮影した写真をサーヴァントたちにも配ってくれる。渡されて見たきりという者もいるが、アルバムやノートに綴じて保管している者も少なくない。元々マタ・ハリは生前も自分のポートレートや記事の切り抜きをこまめに保管していたし、英霊として現界した今も、その時々の──例えば気に入った雑誌の切り抜きや美しい包装紙、チラシやメモ書きの類も綴じたそれは、簡易な日記を兼ねてもいた。
 ぱらぱらと広げられた写真に目を通したサンソンは、当時の記憶を思い出すのか、時々愉快そうに小さく笑声をもらす。その様子を横目に用意していた包装紙の余りに鋏を動かしていると、気づいた彼が首を傾げた。
「それは?」
「アンデルセンに見せてもらったの。彼、切り絵が得意なのよ」
「へえ……それは、知らなかったな」
「ナーサリーライムたちがとても喜んでいたわ。案外面倒見がいいんだもの、彼も」
 ここにはいない、外見に反して随分おとなびた声音の童話作家の話題を口にして、互いに小さく笑った二人はやがてそれぞれの手元に視線を落とす。心地の良い静寂が、談話室の空気に広がった。

 ふと顔を上げると、作業を始めてから随分と時間が経っているようだった。時刻を確認しようと視線をさまよわせていると、向かいのサンソンがマントルピースの上の置時計に目を向ける。昼の時分はとっくに過ぎて、カルデアが深い雪に閉ざされていなければ中天の太陽がそろそろ傾きかけてもいい頃合いだった。
「食堂でコーヒーと甘いものでももらおうか」
「そうね……少し疲れたわ」
 集中した甲斐があって、手元のアルバムはもうほとんど完成に近かった。ふう、とひとつ息をこぼせば、サンソンは小さく笑う。閉じた雑誌を片付けようと手を動かす彼の、伏し目がちの目元に淡く影が落ちた。薄い瞼がまばたきをする度、かすかに震える白い睫毛が降り積もった雪のけぶるようで、つい視線が惹かれてしまう。そうして見つめていると、額を撫でる灰褐色の髪の下の時折幼くすら思える面差しが、どうしてだか今は彼女よりもずっとずっと年上の男なのだと思わせて、くすぐったいような、ひどく懐かしい気持ちになった。サーヴァントである自分たちにとって、こんな感覚は可笑しなことかもしれないけれど。
「……どうかしたかい?」
 注がれる熱視線に、気づいた青年は不思議そうに首を傾げた。何も、と笑ったマタ・ハリは一足先に立ち上がり、けれど何かを思い付いたように振り返る。愛らしく小首を傾げた面差しが、サンソンを見つめた。
「……ね。やっぱり今日は、あなたの淹れたカフェオレが飲みたいわ」
 その、声音に含まれた甘さに、彼は気づいただろうか。虚をつかれたように瞬いた瞳が、やがてゆるやかに細められる。
「それじゃ、腕によりをかけようか」
「ふふ。ミルクたっぷりでお願いね」
 頷いて立ち上がったサンソンがマタ・ハリの隣に並ぶ。ミルクの優しい味がするから、甘い砂糖は必要ない。綴じた思い出を辿って、夕食まで過ごすのも良いだろう。穏やかな休日を紡ぐ二人の足音は、ひどく軽やかだった。