朝焼けを呑む

 ガラス張りの室内に、煙草の煙が渦を描きながら昇っていく。雪深い山に位置するカルデアの、地上に覗く部分──のさらに端に位置する喫煙室は、サーヴァントたちの居室からも随分と離れていた。それでも足を運ぶものが絶えないのは、愛煙家の悲しい性だろうか。
 常習者というわけではないが、ごくたまに口寂しくなると、こうしてサンソンもわざわざここまで訪れる。吸い口から肺に紫煙の豊かな香りが広がって、茫とした視線を窓外に向けた。立ち上る白の向こうには同じくけぶるばかりの白が広がっている。それでも遠くに夜明けの気配が感じられる今朝は、穏やかな方と言ってよかった。
「おやあ、珍しいじゃないか」
 がちゃり、と扉の開く音がして、軽薄そうな声が耳に届く。その人物がここに向かってきているのには気づいていたが、あえて意識しないようにしていた──というのに、その声音を聞いた途端ぴくりと眉根を寄せてしまい、諦めたサンソンは煙草から口を離すと小さく息を吐く。
「なぜそのタイミングで、顔を合わせるのが君なんだ」
「さあね。案外気が合うんじゃないか、僕ら」
「冗談だろう」
 戯れ言にしたって酷すぎる、と口角上げて吐き出した彼に、アマデウスは黙って肩を竦めた。ちらりと視線を向けた先の、彫像のような色素の薄い顔は幾分疲れた色をしていて、エメラルドの瞳の下にはクマができている。どうやら徹夜したらしい。
 芸術家というのは大概こうで、不摂生が続けばいくらサーヴァントとはいえ身体に障るぞ、と頻繁に同じような顔をしている高名な作家たちの顔を思い出しつつ開きかけた口は、言葉を紡ぐ代わりに煙草の吸い口を噛んだ。出そうと思えば小言の一つや二つは容易く浮かんだが、身体に残った気怠さがそれを上回る。
 ベッドに甘いぬくもりを残して抜け出してきた身体は不快ではないが未だ重く、背が鈍い痛みを訴える。皺の寄ったシャツの襟元から茉莉花の香りがして、それが先ほどまで触れていた熱を思い出させた。これを吸ったら部屋に戻ろう、と湧きあがった名残惜しさと一抹の罪悪感を胸中にしまって煙を吐き出せば、壁際で同じくふかせていたアマデウスが口の端を吊り上げる。
「辛気くさい顔もたまにはマシになるじゃないか」
「誰のおかげか知らないけれど」と続けたこの妙に勘のいい男には、どうやら何もかも筒抜けらしい。やはりシャワーくらいは浴びてくるべきだったか、と嘆息混じりに煙を吐きだし、タイもつけずにいた襟元の釦をとめる。それにくつくつと喉を鳴らしたアマデウスは、ふと、何か思い出したように視線を宙に向けた。
「ああ、そういえば。"彼女"のこと、マスターが探してたよ」
 はっきりと名前は出さなかったものの、特定の人物を指して向けられた言葉に顔を上げれば、男にしては細い指先が吸いさしの煙草から灰を落とす。
「昨夜のことだけどね。何か聞きたいことがあるんだってさ。どうせこのあと会うんだろ? 伝えといてくれよ」
 音楽家の言葉は確かに間違ってはいなかった。が、告げられた内容に今度こそサンソンはため息を吐く。
「わかった。……マスターには僕から訊いておく」
「うん?」
「……たぶん、今日は部屋から出られない」
 すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付けて、返した台詞に意味を悟ったアマデウスはポカンと口を開け──それからこの男にしては珍しく、心底呆れたふうに眉尻を下げた。
「おまえさあ……」
「何だ」
 ぎろり、と視線でねめつければ大仰に両手を上げる。
「はいはい、口は災いの元ってね」
 クワバラクワバラ、とサンソンには聞き覚えのない台詞を吐いて、血の気の薄い唇で煙草をくわえなおしたアマデウスは今度こそ視線を逸らした。ブーツの踵が床を叩く音が彼の前を通りすぎる間、宣言どおり閉じられていた口はけれどサンソンが扉に手をかけると同時に再び開かれる。
「今日の厨房当番はブーディカだったぜ。頼めば何か作ってくれるんじゃないか」
 舌の根も乾かぬうちに、と毒づきかけて、投げられた言葉に別の意味で眉根を寄せる。
「それは……少し、叱られそうだな」
「自業自得だろー」
 こちらに視線を向けずひらひらと手を振る軽薄さには相変わらず苛立つが、残念ながら返す言葉はない。
 混ざり合う感覚の心地よさは時折彼を溺れさせる。かさついた己の指先が残してしまったまろい腹の青痣も、代わりにつけられた背の赤い爪痕も、過ぎた夜の名残に痛みと同時に充足を得ているのなら──彼女の友人からの叱責くらい、甘んじて受けるべきなのだろう。
 その上であたたかいスープや滋養のあるものを用意してもらえればありがたいのだが。
 未だベッドで眠る太陽の花を思い出して再び湧いた罪悪感にひとつ懺悔の息を吐くと、サンソンは今度こそガラス扉の向こうに歩き出した。