Calinours

 くまが落ちている。

 といっても、ここは緑の深い森の中でもなければ、いわゆるメナジェリーでもない。カルデアにある彼の居室近くの、いたって普通の廊下である。ふわふわとしたはちみつ色の毛が手触りのよさそうな、一抱えはある大きなテディベアだ。なぜか、首元には「拾ってください」と書かれたプレートを下げている。
「……捨てテディベア?」
 捨て犬や捨て猫ならぬ──と、一瞬くだらない思考に陥ったものの、サンソンはすぐに現実的な問題に眉根を寄せる。誰が、何のために、という疑問はひとまず置いておくとして、これほど巨大なぬいぐるみが通路を塞いでいては、当然通行の邪魔になる。目下の問題は、これをどうするか、ということだろう。
 深く考える余地もなく、サンソンは仕方なしにその巨大なテディベアに手を伸ばした。彼の自室はこのすぐ先だ。
 ひとまずは希望どおり拾ってやろう、と豪快に肩に担いだはちみつ色の毛並みは想像どおり手触りが良く、ふわふわと彼の頬をくすぐった。


「まあ。どうしたの、この子」
 それから数日経ったある夜、サンソンの部屋を訪れて開口一番に驚きの声を上げたのはマタ・ハリだった。ぱちくりと丸い瞳を瞬かせ、おおよそ殺風景な青年の部屋には似つかわしくない闖入者を見やる。拾った経緯を話すと、不思議ね、と彼女も首を傾げた。
「とっても可愛らしいけれど、部屋に置くには大きすぎるわねえ」
「近いうちにレクリエーションルームに持っていくよ。あそこなら子どもたちが遊べるだろう」
「ああ、そうね。それがいいわ」
 本当は拾ったその日に持っていくつもりだったのだが、レイシフトや医療室の当番が重なってしまい、巨大な同居”クマ”は未だにサンソンの部屋に居座っている。汚れや破損もなく、どうやら買ったばかりらしいぬいぐるみがなぜあんなところに置かれていたのかは結局謎のままだが、くるりとした栗色の瞳は愛らしく些か愛着が湧いてきているような気もする。
 とはいえやはり存在感がありすぎるのは困りもので、少々手狭に感じる部屋の中央に置いたソファーを彼女に勧めつつ、お茶でも淹れようと備え付けのケトルに手をかけたときだった。
 ビーと低い電子音がして、来訪者があることを二人に告げる。サンソンが踵を返して扉を開ければ、藤色の髪の下からこちらを見上げる視線と目が合った。デミ・サーヴァントであるマシュ・キリエライトが、ひどく恐縮した様子で立っている。
「夜分にすみません、サンソンさん。少しお時間よろしいでしょうか」
「こんばんは、マシュ。どうかしたのかい」
「はい。実は先日ご一緒いただいたレイシフトの件なんですが……」
 申し訳なさそうに管制室まで来てほしいというマシュに一つ頷き、ソファーに座るマタ・ハリに振り返る。
「すまない、少し出てくるよ」
「ええ。何かお手伝いできることがあれば呼んでちょうだいね」
 小さく微笑んだ少女の声が届いたのだろう、「どなたかいらっしゃっていたんですか」と藤色の髪がますます申し訳なさそうに俯くので、小さな背を軽く叩くと、サンソンは足早に目的地へと向かった。
 その黒いコートの背が無機質な扉の向こうに消えるのを見送って、ひとつ息を吐いたマタ・ハリはソファーから立ち上がる。眠る前のささやかなひとときを一緒に過ごそうと彼の部屋にやってきたものの、手持ち無沙汰になってしまった。
 相変わらず部屋の片隅に置かれたはちみつ色のテディベアは自然と視界に入り、何とはなしに歩み寄る。手を伸ばして触れると、ふわふわとした毛足が心地よかった。これだけ大きければ子どもたちが喜ぶだろうと頬をゆるめて、ムと結ばれた口をつつく。そうしていると同じく触れればやさしく指先をくすぐる青年の灰褐色の髪を思い出して、知らず小さく喉を鳴らした。


 思ったよりも時間がかかってしまった。
 自室への通路を戻りながら、サンソンはひとつ息をつく。もちろん、ごく小さな特異点とはいえ人理の修復という重要な任務に数あるサーヴァントの中から選ばれた以上、責任をもって臨むのは当然だ。
 とはいえ部屋に待ち人、それも女性を待たせたままというのはやはり気が引ける。
 幾分急ぎ足で部屋に戻り、けれど自身の寝台からすうすうと穏やかな寝息があがっていることに気づいた彼は、おや、と意外そうに目を瞬かせた。
 艶やかな黒髪が流れる、ふくらとした少女の頬は、はちみつ色の毛並みに埋もれている。部屋の片隅にあったはずのテディベアは、今しなやかな二本の腕の中にあった。
 珍しいこともある、と息を潜めた彼は横たわるマタ・ハリの傍によると、夜陰の中で蕾を閉じたような、花の顔(かんばせ)を伺う。覗きこめば深い青の瞳は伏せた瞼の向こうに隠れて、黒々とした長い睫毛が淵で揺れている。薄く開いた濡れた果実の唇から漏れる、吐息の甘やかさ。
 ぬいぐるみを抱いて眠る横顔はあどけない少女のそれで、彼女が幾人もの将校や貴族を篭絡した魔性の女性とは、俄かには信じがたい。──もちろん、それだけ人を惹きつける魅力のある女(ひと)だとは、サンソンもよく知っていたけれど。
 叶うならこのまま暫く見つめていたかったが、注ぐ視線にやがてピクリと少女の瞼が揺れる。
 小さく鼻にかかった甘い声音が鼓膜を揺らして、ぽかりと開いた陽の目がサンソンの白磁の顔を映した。
「……シャルル? 帰ってたの……?」
「ああ。遅くなってすまない」
「私の方こそ……ごめんなさい、うとうとしてしまって」
 わずかに持ち上がった頭は、けれどそのままぽすんとテディベアの上に戻った。未だ眠そうにまどろむその顔に小さく笑声をもらし、紅のさす頬を指の背で撫でる。
「シャワーを浴びてくるかい? それとも、このまま?」
「そうね……」
 瞼を閉じたまま、思案するように呟いたマタ・ハリは、名残惜しそうにはちみつ色の毛並みに鼻を埋めた。随分と気に入ったらしいと口の端をゆるめていると、些か舌足らずな言葉が少女の口からこぼれる。
「この子、あなたのにおいがするのよ……」
 ぱちり、と音がしそうなほど灰青の瞳を瞬せた。
 ──それは、つまり。
 と、口を開くより早く、覆い被さるようにしてテディベアを抱きしめていた細い身体が、ずるずるとシーツに降りて大きな背の向こうに隠れてしまう。
「マルガレータ?」
「……忘れてちょうだい」
 どうやらすっかり目が覚めたらしい。返された声音は明らかな羞恥をはらんでいたので、たまらずサンソンは頬をゆるめた。
「顔は見せてくれないのかい」
「今は、いや」
 ふるふると細い首を振って、花の顔をはちみつ色の毛並みに押し付ける、ブルネットから覗く耳朶も赤く染まっているような。
「……君の瞳が見たいな」
 可愛いひと。囁きとともに赤らんだそれに唇で触れる。降りしきるやわい雨に、やがて観念したように顔を上げた彼女は整った眉をすっかり下げていた。
「……失態だわ」
「どうして? 僕は構わないよ」
 漸く目にすることができた少女の面立ちは、愛らしい目元に朱を散らしている。潤んだ薄暮の瞳が星を纏ったように輝いていて、愛おしさに震えた喉が密やかな笑声をもらした。頬を撫でた指先で髪を梳く。シーツの上で絡めたてのひらは彼のそれよりもずっと小さく、色づいた桜貝の指先が観念したように手の甲に甘く爪を立てた。
「……甘やかしてくださる?」
 囁きは最後の駆け引きとばかりに艶めかしく吐息に混ざり、伏せた瞼が彼を呼ぶ。仰せのままにと、こつりと額を合わせれば、少女の顔は今度こそ淡く微笑んだ。