僕らから見た彼ら

▼職員Aの目撃談

 丁度食堂の入口辺りだった。私はマタ・ハリちゃんの後ろを歩いていて、声をかけようかどうか迷っていたときだ。
 ブルネットの艶々した髪に、赤い柘榴の花飾り。オレンジの薄い衣装から大胆に小麦の肌が覗く後ろ姿はすぐに彼女だとわかったのだけれど、私はどうにも、あのきらきらした華やかなオーラを前にすると緊張してしまって、「おはよう」と一言かけるのにも随分勇気を要するのだ。
 そんなふうにぐずぐずと悩んでいるうちに、別の誰かがマタ・ハリちゃんに気づいて声をかける。
 すらりとした体躯に纏った黒のロングコート。
「あ」
 ──サンソンくんだ。よく医療スタッフを手伝ってくれる彼とは比較的親しい。ちょうど朝食を終えて出ていくところだったらしく、立ち止まった彼は整った相好をやわらげた。
「やあ、おはよう、マタ・ハリ」
「ごきげんよう、サンソン。いい朝ね」
「ああ、君に会えたからね」
 もしかしたら、今なら、私も自然に会話に入れるんじゃないか。そんな淡い期待を抱いて勢いよく一歩を踏み出してしまったから、交わされた会話をはっきりと聞き取ってしまう。
 いつもの落ち着いた声音に、ほんの少しの甘さを含んだ台詞。まあ、と上機嫌に喉を鳴らしたマタ・ハリちゃんの、ふっくらとした唇がサンソンくんの頬に軽く押し当てられる。長身を屈めて寄せられた白い頬に、それでも僅かに背伸びした、彼女の足元。
 私はポカンと大口を開けて、ひどく間抜けな顔をしていたと思う。何でもないことみたいに別れて再びこちらに向かって歩いてきた彼は、私にもあいさつをしてくれたけれど不思議そうな顔で首を傾げていた。
 でも、次の瞬間口からぽろりと出てきた言葉は「ズルい」だったので、私も大概だと思う。
 その朝は結局、彼女に声をかけることはできなかった。



▼職員Bの観察

 足首まで覆う黒のコートに、灰褐色の髪。モノトーンの背の隣に並ぶのは夕焼け色の鮮やかな衣装だ。ブルネットの艶やかな髪が背で揺れている。
 前を行くシャルル=アンリ・サンソンとマタ・ハリの姿に、こうしてみると随分と対照的だな、と首を傾げる。普段から絵になるふたりだとは思っていたけれど、そのコントラストは後ろ姿だけでも十分目を引いた。
 と、不意にサンソンの手が伸びて、隣を歩くマタ・ハリの薄い肩を引き寄せる。疑問に思う間もなく、そのすぐ傍を、端末に目を落としていたスタッフが通りすぎた。すぐに気づいたらしい彼が慌てた様子で謝るのに、気にするな、というようにふたりは笑う。すれ違ってしまえばすぐに、サンソンの手はコートのポケットに戻ってしまったけれど。
 その些細な出来事にふたりの間にある親しさを見た気がして、無意識に「いいなあ」とこぼしてしまう。
 例えば、頭ひとつ高い彼が俯きがちに歩くのは、マタ・ハリの声を聞こうとしているからだとか。踏みしめるようなゆったりとした足取りは、彼女の歩幅にあわせているのだろう、とか。
 そうしてそれを、マタ・ハリはすべてわかっていて、隣に並んでいるのだろう。
 交わされている会話は聞こえるはずもないのに、見合わせた横顔がただ、お互いへの親しみをこめて笑っていたので、そのささやかな秘密を覗いてしまったような気がした。



▼職員Cの疑念

 その日は絶対最高の一日になる!と僕が確信を持てたのは、ブリーフィングルームのガラス扉の向こうにマタ・ハリさんの姿を見たからだった。真剣な顔つきで手元の書類に目を落としている。伏し目がちの薄い瞼が目元に影を落としていて「ああ、今日も綺麗だなあ」と思う。
 資料室も兼ねているそこで、探し物でもしているのだろうか。一緒に作業をしているのはどうやら同じアサシンクラスのサンソンさんのようだった。
 ほんの少し難しい顔をしたマタ・ハリさんが、彼を呼ぶ。資料の並ぶ棚から振り返ったサンソンさんは、乞われるまま、彼女の後ろから手元の書類を覗きこんだ。頭一つ高い整った顔立ちが彼女の肩口に寄って、気づいマタ・ハリさんは書類を目線の高さまで持ち上げる。……顔、近くない?
 いや、そうじゃなくて。何か困りごとだろうか。それなら、手伝った方がいいだろう。
 と、ガラス扉を叩こうとしたのと、同じタイミングで。書類を持つ彼女の手をサンソンさんの手が上から掴む。目線の高さにあったそれが、完全にふたりの顔を隠す位置まで持ち上げられた。
「……え」
 灰褐色の髪が揺れる。それはほんの一瞬で、すぐに書類の向こうから現れたふたりの顔はいつもと変わらない表情をしていた。
 それから、こちらの存在に気づいたのだろうマタ・ハリさんの瞳が瞬いて、サンソンさんが扉を開ける。見上げた彼の顔は、ほっと安堵しているように見えた。
「ちょうどいいところに、ムッシュー。もしよろしければ、少し手伝ってもらえませんか」
「あ、う、うん。僕でよければ」
「助かります」
 そう言って、僕を招き入れたサンソンさんはいつもの落ち着いた空気を纏っていて、だからあれは勘違いだったのかなと思う。
 持ち上げられた書類の向こうでふたりの顔が重なって、キスしたように見えたのも。次に覗いたサンソンさんの瞳が、一瞬、冷えた色をしてこちらを見ていたような気がしたのも。
 ぜんぶ、僕の勘違い。
 ……かなあ?