彼女と彼の

 マタ・ハリはすっぽりと包まれた毛布の中で、どうしたものかと思考を巡らせていた。目の前では大層綺麗な青年の顔が、すうすうと気持ち良さそうに寝息をたてている。白磁の顔は陶器のような美しさに反して青年らしい精悍さも合わせ持っていた。喉仏の浮いたがしりとした首、そこから続く思いの外筋肉質な両腕は今、横たわる彼女の身体にまわされている。素肌同士が触れあうそれはもちろん幸福な温度ではあったけれど、今まさにマタ・ハリの頭を悩ませている理由そのものでもあった。
 気怠さの残る身体はしっとりと汗ばんでしまっている。豊かな黒髪がうなじにはりつくのも生来綺麗好きな彼女には些か居心地が悪かった。このまま眠りにつく前に、シャワーを浴びにいきたい。つまるところその一心なのだけれど、単純なそれは、この状況において随分と難しい問題だ。規則正しい寝息を乱さないようにとそろりと僅かに身を動かせば、途端、秀麗な顔がしかめられる。短く揃った白い睫毛が震えて、ぎゅうっと一層、抱きしめられる腕の力が強くなった。
「……困ったわねえ」
 苦笑混じりの言葉とともに、頬にかかる髪を梳く。常夜灯の淡い橙の光に照らされて、ぼんやりと暗闇に浮かぶ灰褐色の髪は印象に違わずやわらかい。腕の中の彼女のぬくもりに安心しきったように薄く開いた唇は彼らしからぬあどけなさも見えるようで、くすりと口の端をゆるめた。
「……可愛いひと」
 呟いて、それからマタ・ハリはたまらず顔を俯かせる。ほとんど無意識だったそれは、我ながらなんて甘い声音をしているのだろうと喉を鳴らした。すっかりほだされているだなんて、今に始まったことでもないけれど。
「……マルガレータ?」
 舌ったらずな声音が彼女の名を呼ぶ。上げた視線の先で、薄氷の瞳が緩慢に瞬きを繰り返している。
「ごめんなさい、起こしてしまったかしら」
「いや……どうかしたのか」
「眠る前にシャワーを浴びてこようと思ったの。あなたは先に寝ていて」
 きっと抑えきれなかった笑声が、彼を眠りの淵から引き上げてしまったのだろう。そう思うと申し訳なく、だが、ベッドから抜け出すにはちょうどいいタイミングだ。
 うなじを擽る乾ついた指の感触は些か名残惜しいけれど、とそんな彼女の心中に応えるように、ぐいと身体を引き寄せられて視界が暗くなる。先程よりも更に強まった腕の感触に、マタ・ハリは不思議そうに瞳を瞬かせた。
「シャルル?」
「……明日の朝、一緒に浴びればいいじゃないか」
 その、声が、どこか拗ねたような色をしていたので。
 くっと、とうとう彼女は声に出して笑った。分厚い胸板に手を当てると、とくりとくりと心臓が脈打っている。黒髪に埋められた鼻筋が流れて、薄い唇がつむじに軽く当てられる。
「ねえ、でも、べたついてしまって気持ち悪いでしょう?」
「お互い様だろう。気にならないよ」
「汗の匂いだって」
「そそられる甘い香りはするけれど」
「もう」
 頬に落ちる口づけの雨に笑いながら身を捩れば、くるりと視界が反転した。熱い手のひらがマタ・ハリの指先をシーツに縫い止める。覆い被さる姿勢で彼女を見下ろす灰青の眼差しに、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「……物足りなくて?」
「……どうかな」
 言いながら、すっかり目が覚めた様子の彼は晒されたマタ・ハリの首筋に齧りつく。煩わしく思っていた下腹部に残った熱が再度じわりと火照っていく感覚には、素直に溺れることにした。