或いは唄うように

 ぼんやりと持ち上げた瞼の先に、無機質な天井が映る。窓のないこの部屋で、朝の光を浴びることはない。それでも肌を撫でる冷えた空気は、確かに夜明けの気配を感じさせた。
 シーツの波間から身を起こし、まだ靄のかかったような意識のままサンソンは枕元のデジタル時計に視線を向ける。点滅する数字は非番の日に目覚めるには早すぎる時刻で、生前から染みついた習慣に些か辟易しつつ、足下に散らばった衣服に手を伸ばした。
 ぶるりと震えた肩にとりあえずとシャツを羽織る。無意識に触れた喉に渇きを覚えて、水差しを取ろうと浮かせた腰に不意に細い腕がまわされた。ベッドの軋む音と同時に、艶やかな黒髪が滑る音が耳朶を叩く。
「……起きたのか」
 振り返った先、縋りつくように抱きついたサンソンの腰に埋められた少女の顔は未だ見ないはずの夢を惜しんで、薄い瞼を閉じている。甘えるように額を押し当てるその仕草にたまらず小さく笑声をもらすと、湧きあがった悪戯心はそのままに行動に移すことにした。
「……おはよう、可愛いひと(Bonjour, mon lapin)」
 ちゅっと軽快に落ちるリップ音。煩わしそうに睫毛の先が震え、それでも抵抗を続けるあどけない顔立ちに、囁きとともに唇で触れる。ひとつ、ふたつ、繰り返されるそれに、とうとう観念したように少女は小さく笑声をあげた。
「ふっ……ふふふ。ああ、もうっ」
 ぱっと開いたマタ・ハリの丸い双眸が、サンソンの顔を仰ぎ見る。薄暗い室内でも輝く、吸い込まれそうな深い青。
「今朝の小鳥は随分囀ずるのね」
「不満が?」
「いいえ。悪くない朝だわ」
 弧を描いた果実の唇は言葉どおりひどく機嫌が良い。起き上がった彼女は猫のように一度伸びをすると、立てた膝に頬を預けた。晒された薄い肩を流れる黒髪が、ほんの少し乱れていることに小さな独占欲が満たされる。肌さえ重ねなければそんな感情を抱くこともなかったのだろう。決して恋にはならない関係は、それでもどうしようもなく本能に近い場所でありきたりな証を求めてしまう。相反するようなそれは、けれど存外心地良かった。
「……寝癖」
「ん」
 眇められた眼差しがサンソンの灰褐色の髪を流れ、ついで華奢な指先がそれに触れる。ひどいわ、と笑いを含んでこぼされた言葉に「君もね」と返す。
「見せるのはあなただけ」
「ああ、知ってる」
 こぼした笑声は互いに混じり合う。ゆったりと囁きを塞いだ温度はひどく穏やかで、このままもう一度夢路に戻ってしまうのも、悪くない気がした。