怒っている、いやものすごく恥ずかしがっていたくせに、また明日、だけは忘れなかった彼女を思い出して幾度目かの思い出し笑いをしてしまった。普通のいい歳をした男が思い出し笑いでニヤニヤと道路に突っ立っていたら普通は気味悪がられるものだが、彼女も大好きなこの顔は世間受けが良いらしく、きゃあ、と女子高生の黄色い悲鳴が上がるだけで不審者にならずに済んだ。同期の奴らに見られていたらこの顔だろうが全力で気持ち悪がられるだろうが。
 それにしても彼女も、俺があそこまで感情をさらけだしたのだからそこにいた客がヒロだと気付いてもいいだろうに。彼女のせいで完璧になった変装のせいで気付けなかったのならお墨付きもついて安心だが。

「おはようございます」

 あまりにも自然に通り過ぎていくから、通りすがりの女性なのかと思ってそのまま見送ってしまいそうになって固まる。

「ちょ、」

 っと、と引き止める言葉を最後まで言えなかった。だって、いつぞやの彼女を思い出してしまった。彼女ではない、彼女の姿形をした、何者かを。
 毎朝顔を突き合わせているのに時間ですよと俺が教えるまで飽きずに俺の顔を眺める彼女が、こんな風に会釈だけの挨拶で通り過ぎるわけがない。きらきらとした輝く瞳で、本当に絵画を覗き込むような目で俺を見ていた彼女が、ちらりと一瞬だけ目を合わせて通り過ぎるわけがない。ひえ、だなんて言いつつ、一度俺の顔を見たら他のものを見ようとしない彼女が、何もないのにすぐに視線を逸らすわけがない。
 つまりまた、……また、彼女は、手の届かない場所に行ってしまったということだ。
 遠くなっていく背中は俺のことなんて気にせず小さく小さくなっていって、そして彼女ではない何者かは角を曲がって見えなくなった。
 また明日、って君が言ったくせに。






 また明日、って、言ったくせに。
 彼女が会釈して通りすがるたびに、毎日毎日それだけを恨み言のように口の中で転がす。怒りながらも、照れながらも、明日も来てくれるんだと笑って待っていたのに。包帯を交換する約束をしたくせに。ぼろぼろになった包帯を視界に入れて、目を閉じる。ほら、一人で利き腕の包帯替えなんてできるわけがない。一人じゃ無理だって、だから言ったのに。







「お姉ちゃんが、お姉ちゃんじゃないの」

 震える声で、自分でもおかしなことを言っていると思っているんだろう彼女の様子に小さく笑う。それを子どもが冗談を言ったと思って笑われたと勘違いした彼女がキッと涙目で俺を睨みつけたはずなのに、一瞬でその瞳が丸くなって不思議に思う。

「また明日って言ってたのに。あの人は僕なんかよりよっぽどうそつきですよ」
「……あの人は誰」

 俺にだってわからない。わかれば苦労しない。こんな、人智を超えた不思議な出来事にどう立ち向かえばいいのかなんてわからない。
 彼女を怒らせてしまったから?
 彼女を恥ずかしがらせてしまったから?
 眠る前に、俺に二度と会いたくないと思ってしまった?
 だから、眠って、帰ってしまった?

「また明日って言ったのに」

 毎日、まるで呪詛のように同じ言葉を口の中で転がし続けて、最近では飲み込むことができずに音になってしまう。

「……あなたがそんなんじゃ、どうしようもできないじゃない。しっかりしてよ、お姉ちゃんを元に戻してよ」
「僕がしっかりしたところでどうなるんです」

 彼女が俺に怒っていたとして、二度と会いたくないと思ってしまったとして、もしそれでいなくなってしまったとして、もし運命の悪戯で彼女の意思なんて関係なかったとして、そんなこと考えたって意味がない。どんな理由だったとしても、俺ができることなんてない。どうすればいいかなんてわからない。
 こんなにも小さな生き物に八つ当たりしてしまった自分が恥ずかしくて、背中を向けて逃げた。





「……最近なんかあった?」
「いいえ?」

 彼女に会っても何も違和感をもたない人に言っても多忙すぎる俺がとうとう壊れてしまったと思われてしまうだけだから、何も言えない。彼女のことを認識しているのはどうやら積極的に彼女とどうにかなろうとしていた人間だけのようで、それはつまり、二人だけで、二人しかいなくて、やっぱり俺たちがおかしくなってしまっただけなんだろうかと不安になる。おかしくなる原因はそこかしこにある。だけど、おかしくなったわけじゃない。絶対に。俺を見て、芸術のようだと大仰な感想を言う人間は、彼女一人。






 彼女は友達だから監視しなかった。けど、今いる彼女じゃない誰かは俺の友達じゃない。職権濫用すぎるし、罪を犯したわけでもない人間の、それも女性を監視するなんてそれこそ心が病みそうだがそうも言っていられない。

 かたん、と彼女じゃない何者かが出勤する音が聞こえた。いつも時間通りだ。時間通りに出かけて、時間通りにポアロの前を通って、軽い挨拶をして、立ち止まりもせず仕事場へ向かっていく。ほら今日もまた、彼女じゃない。今日で何日だ。たまに奇跡を信じて話しかけてみても奇跡なんて起きるはずもなく。

 彼女じゃない何者かはまるでロボットかのように一度も体調を崩さず、一度も寝坊をしたこともなく、毎日同じ時間に起きて同じ時間に出勤していた。なのに今日は全く物音が聞こえない。盗聴器が壊れたか、と内心眉根を寄せていれば、さらり、と布団の擦れる音がして耳を澄ます。どうやら壊れていなかったようだ。
 ひ、く、ひっく。
 聞こえてくる吐息は確実に涙を流していて瞠目する。
 話しかければまるで人間のように彼女を模した受け答えをするのに、外部から接触がなければ室内で鼻歌やひとりごとをこぼしたこともないロボットのような彼女が、泣いている?

「おはようございまーす!」

 タイミングよく梓さんが元気良く出勤してきて付けたばかりのエプロンを外す。

「すみません梓さん! 急用が入ってしまったので後はよろしくお願いします! 埋め合わせは必ずしますので!」
「えっちょっ」

 もう!と怒られるのを覚悟して早口に言えば、急なことに驚いているものの怒りは全く見せない梓さんを不思議に思いながらも足早に店を出る。

「まあ久しぶりですし、なんだか元気も出てきたみたいですから特別ですよー」

 朗らかな声が背後で聞こえて振り返る。閉まる扉の隙間からにこりと微笑まれて心の底から頭を下げた。
 その間もずっと嗚咽音が聞こえるイヤホンに気が急いた。





 ぴんぽん。息切れする呼吸を整えながら連打したい気持ちをおさえこむ。
 鳴らした瞬間、ひゅ、と驚いたように泣き声が止まって確信する。この部屋の中にいるのは、ロボットのような何かじゃない。
 ぴんぽん、ぴんぽん、ぴんぽん。
 なのに何度鳴らしても開かない扉に、涙する声が聞こえるイヤホンに痺れを切らして扉に手をかけた。引っ越しはしてほしくないがこんなに簡単にピッキングができてしまう部屋は危険すぎるし、ここよりももっとセキュリティのしっかりした場所を紹介しよう。自分のしたことを棚に上げてそんなことを考えながら扉を開く。

「鍵、あいてましたよ、寝坊ですか?」

 いけしゃあしゃあとのたまいながら部屋に一歩を踏み入れる。ちょうど立ち上がろうとしていたところなのか顔を涙で濡らした彼女と目線が合って固まる。

「ふ、安室さんっ!!」

 涙で枯れた声だけど、はっきりと聞き取れた。俺の名前を呼んだ。あんなに泣き喚いていたくせに、やっぱり俺のことを一番に考えてくれる彼女は偽名を叫んでくれて顔が歪む。顔中を涙で濡らして、声が枯れるほど泣いて、ただの一般人なのだから偽名を呼ばなくちゃいけないなんてこと頭から抜けていても仕方がないのに、俺が第一の彼女はきちんと切り替えることができていて俺なんかよりよっぽどたくましい。一般人の彼女がちゃんと体裁を保ってくれているのに、ポーカーフェイスをいやでも叩き込まれたはずの3つの顔を持つ俺が、表情を崩すなんて。彼女が帰ってきたことに歓喜してここから一歩も動けないだなんて。抱きついてきた彼女をただ支えることしかできないだなんて。なんて、情けない。

「っ、もしかして、……今日の預言はなんですか?」
「も、もう本当に何もわからな、」

 彼女と同じくらい震える声になってしまった気がする。だって、この言葉だけは聞けなかった。またあの時のように否定されたら今度こそどうなるかなんてわからなくて。首を振りながら俺にすがりつく彼女の答えに全身が感動で震えそうになるのを抑えて全力で抱きしめてしまった。

「ひ、」

 こきゅ、と骨を鳴らしてしまった音がして慌てて力を緩める。本当に申し訳ないと思ってる。でも少し我慢してほしい。こちとら何ヶ月君に会えなくて気が狂いそうになっていたと思っているんだ。狂いそうというか、たぶん側から見たら少し狂っていたかもしれない。また明日って言ったくせに、を呪いの言葉のように紡ぎ続けていたのだから。それも彼女なのに彼女ではないと気付いているのはこの世でたった二人しかいないのだから、毎日会っているくせにこいつは何を言ってるんだと本当に狂っていると思われていても仕方がないことだと思う。
 腕の中に確かにいる彼女にも同じように伝えたら、感じていた日数にどうにも齟齬があるように感じたが、まさか彼女は俺以上に日数が経っていたんだろうか。
 とても昨日今日泣いただけとは思えない目元の涙の跡や腫れ、それになんだか少し痩せている気がして胸が痛くなる。でもそれと同時に少しだけ喜びも感じてしまった。





────────

「最近店員サン、元気なかったけど元に戻ったね」
「元に戻ったとは?」
「あの女の人と喧嘩でもしてたのか? 仲直りできてよかったな」

 ここ数ヶ月まじで意味わかんなかったよな。陰湿な喧嘩でもしてんのかと思った。
 俺を差し置いてきゃっきゃと盛り上がる同期を横目で見やる。陰湿な喧嘩とは。いやまあはたから見ればそこに彼女はいるのに彼女と会えないとぶつぶつ呟いていたから陰湿な無視をしているような状況に見えていたのかもしれないけど。

「陰湿な喧嘩をしていたわけではありませんが、約束を破られたので拗ねてました」
「約束ぅ?」
「あー。また明日って言ったのに、だろ」

 それを聞いた瞬間、思い切り顔が歪んでしまった。潜入捜査官としてあるまじき表情筋の緩さだ。同期しかいないのと、彼女絡みの話のせいだ、なんて言い訳にもならない。俺は一瞬苦虫を噛み潰したような表情になって瞬きの間に元に戻したのに、目の前の二人が形容できないほど引いたような表情を隠しもしない。

「それ友達の枠こえてると思うなー」
「はい?」
「俺らがまた明日って言ってドタキャンして数日音信不通になったくらいで店員サン、そこまで病む?」
「……常連のお客様が来なくなるのは心配して普通だと思いますけど」

 聞きました奥さん!なんて茶番を目の前ではじめて眉を潜めそうになる。

「俺達も急に音信不通になったダチがいるがそこまでにはならねえよ。俺達の場合は仕事柄何かに巻き込まれたのかとかそういう心配はするが、でもどこにいようがダチには変わりねえだろ?」

 それは警察官という仕事についている人間とただの一般人を同じに思う方がおかしいだろう。

「そこまでの執着見せるなら自覚はしておいた方がいいと思うなー俺は」
「……執着」
「してねえとは言わせねえけど」
「チャチャ入れたいわけじゃなくて、せめて自覚はしておかないと後悔するだろ? 横から誰かにかっさらわれてからじゃ遅いんだから」
「さらわれる?」
「こえーよ俺達がさらうわけじゃねえその目やめろこえーなまじで。……普通友達だったら良い人できるのは喜ばしいことだろ。そういう反応になるってことはもう友達じゃねえだろ」

 かっさらわれる、と言われた瞬間、とても喫茶店アルバイトが出していい雰囲気じゃない殺気を滲み出してしまって再度引かれる。そもそも認識がすれ違っているのに真面目に受け取ったこと自体馬鹿だ。この二人は人為的な、まあ、俗にいう恋敵に彼女の心をとられるぞ、みたいな軽口だったんだと思う。人間相手ならまだいい。でも彼女をどこか手の届かない場所に連れていこうとするのは人知の超えた人間ではない何かで、どうしたらいいのか分からない存在だ。

「……人間相手ならこんなふうになりませんよ、負ける気ないので」
「え? なに? 人間は対象外なのあの人」
「あー……ご愁傷様」
「そういう意味じゃないです」

 ご愁傷様って言うな。俺にも彼女にも色々と失礼だ。

「ともかくそういうとこだよ、認めろって。距離感とかも変わるでしょ。友達として付き合い続けていくならそれでもいいけど、気付いた時には手遅れでした〜が一番嫌じゃん。心構えしてるのとしてないのとじゃ覚悟も変わるし」
「逃げられたら失恋パーティーしようぜ」
「は? 失恋だのなんだのはともかく二度と離れないって約束したので大丈夫です」
「……だからそういうの自覚しようねって話なんだけどわかった?」

 だめだ。逃げるだのさらわれるだの、彼女がまたどこかに行ってしまうことを示唆する言葉を聞くと少し冷静でいられなくなる。普通ならこの感情を恋心に当てはめてもいいのかもしれない。でも彼女は普通じゃない。引っ越しすら拒んでいた俺が言っても説得力のかけらもないかもしれないが、引っ越し程度ならなんとか納得できる。でもそれは手紙や電話や、とにかく文明の利器で繋がりは続けられる前提があるからだ。でも彼女は、いなくなってしまったらもう連絡は取れない。だから普通とは違うから、安易に恋心というカテゴリにわけることができない。

「だから、そういうんじゃないんです。彼女とは友達で、やっと本当に友達になれたところで、その関係を壊そうとするのなら神様だろうが人間だろうが許さないだけです」
「あー……まあ忠告はしたからね」
「いやもう手遅れだろこれ」

 ただ彼女がそばにいてくれれば、ただ普通に、同期と話す今のように話さえできなくなるかもしれない恐怖を、何もわからない二人に伝える術を俺は知らない。
 そんな簡単な問題じゃないんだ。

2020/01/14


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