「どうしたら彼女と友達を辞められると思う?」
目の前が一瞬で霞んだ。でも降谷さんの顔が驚きに染まったのだけはちゃんと見逃さなかった。芸術を見逃すなんてそんな。
なんて、ふざけてる余裕はあるように見えて、ない。だって滝のように涙が溢れて止まらない。
せっかく、慣れてきたのに。
せっかく、胸を張って友達です、と言えるようになったのに。
なのに、なのに、友達になってと、降谷さんが私に言ってきたのに、どうして、
────どうしたら彼女と友達を辞められると思う?
哀ちゃんが難しい顔で降谷さんと向き合っているのが見えて私の大好きな二人が何かを話している、邪魔をしてはいけないけどそこは通り道なのでと好奇心を隠しきれなかった罰なんだろうか。盗み聞きをするつもりなんてなくて、声をかけようと思って、だけど大きなため息の後に聞こえた言葉に何もかもとんでしまった。
馴れ馴れしくしすぎたんだろうか。
でも降谷さんが友達なのだからともっと踏み込んでくれと何度も言ってくれたのに。
友達になってという言葉をそのまま受け取った私が愚かだったんだろうか。
こんなことで嫌いになるわけなんてない。降谷さんはやることなすこと全て正しくて、降谷さんは正義のために戦っていて、だから、きっと、これも正しいはず。
そう思うのに、胸が痛くて、息が苦しくて、目の前が霞む。
「神様か何かと同じくらいあなたのことが嫌いになったわ。お姉ちゃんのこと泣かせないで」
降谷さんが立ち上がる前に哀ちゃんの声が聞こえた気がしたのに自分の嗚咽の声で何も聞こえない。子どもの前で、往来で、こんなに号泣するなんて情けない。せっかくお姉ちゃんと呼んでくれていたのに、こんなことで泣くだなんてきっと幻滅された。目があった気がするけどすぐに背中を向けられて落ち込む暇もなく、目の前に飛び出てきた降谷さんに硬直して涙だけを落とす情けない有様。
「ちがう、聞いてくれ、」
壊れたスピーカーのようにそれしか発せなくなった降谷さんが珍しくて、悲しいのに、苦しいのに、笑ってしまう。滝のように流れる涙のせいでただの引きつった音にしかならなかったけど。降谷さんの前で何度号泣してしまうんだろう。その度にスマートに涙を拭われていたけど今回はものすごく慌てていて、私なんかよりよっぽど混乱しているように見える。
「もう友達と思えなくなってしまったんだ」
慌てているように見えたのに、気付けばいつもの手腕で降谷さんの車の中に連れ込まれていていつの間に私は歩いたんだろうかなんて考える暇もなく聞こえた言葉にさらに涙が溢れ出る。
「だ、だからどうしてそんな間髪入れずに泣くんだやめてくれ、これメジャーな告白じゃないのか、察せないか? いやちがう俺が悪いな、ごめん、泣くな、泣かないで、くそ、こんな情けない告白になるなんて」
ぐしゃぐしゃと綺麗な髪を掻き毟って吐き捨てる降谷さんの言ってる言葉がわからない。音としては耳に入るのに、理解ができない。
「君のことが恋愛対象として好きになってしまったから、友達じゃいられなくなったんだ、恋人になりたい、……そういう意味で、友達をやめたくなっただけで、だから、あの、泣かないで」
ひゅ、と涙が蛇口を閉めたかのように止まる。涙は止まったのにえぐえぐと嗚咽が止まらなくて、意味のわからないことを呟いた降谷さんが本当に訳がわからなくていっそ意識を手放したくなる。
「……大丈夫か、ごめん、息できてるか、まずは落ち着いてくれ、君にはただ笑っていてほしくて、だから、その、……ごめん、……君には嘘をつきたくないからいつものように言葉が出てこなくて、ごめんしか言えない」
落ち着いて息をして、と言いながら頬に触れる降谷さんの手が震えているのか、私が嗚咽に体を震わせているのか判断がつかない。降谷さんが何かおかしなことばかり言ってる気がするのも、私があまりに泣きじゃくるから脳がきちんと働いていなくて言葉通りに受け取れないだけなのかもしれない。
友達を辞めたい、なんて言葉だけで号泣して、もうこれ以上情けないことはないのはわかっているけど、それでも瞬きをするたびに情けないカウントが回っている気がして肩身が狭くなる。
「好きなんだ、……好きしか言えなくてごめん。他の二枚の仮面ならいくらでも甘ったるい言葉で愛を伝えられるし、言葉も浮かぶ。でも俺は、俺の言葉だけで君に好きと伝えたくて、嘘は言いたくなくて、……あまりの語彙力のなさに自分でも落ち込むを通り越して驚いてるんだ。……いつまででも新鮮な気持ちでずっと好きだと言い続けられるが、……できれば泣いてない君に言いたい。泣かせたのは俺なんだが、……誤解で、だから、……ごめん、頼むから泣かないで」
降谷さんの言葉が徐々に幻聴じゃなく本当だということに気付いて、どうすればいいのかわからなくなる。聞き間違いだと思いたくても、言葉通り降谷さんはずっと好きの二文字を私に向かって投げてくる。
私の耳がおかしくなっただけかもしれないとそう思いたくても何度も、何度も、何度も何度も何度も耳を滑るのは、好き、の二文字で、逃げられない。
「俺は今、君に最低なことをしてる。守ると言った口で泣かせた。一度約束を破っておいて信じてもらえるかわからないが、……告白を断られたから守るのをやめるなんてこと絶対しない。だからちゃんと、……いや、…………」
ピシリと固まったまま動かなくなった降谷さんはまさに美術品のようで、本当に綺麗だと、今の状況も一瞬忘れてしまうほど綺麗。だけどそんなふうに現実逃避ができるのも一瞬だった。
「……ふ、」
「……」
「……ふらないでほしい…………」
今度は私がぴしりと固まる。降谷さんは固まったって美術品だけど、私が固まったってただの私でしかなくて、だから何か言葉を返さなきゃいけなくて、でも何も言葉が思い浮かばなくて、固まったまま。
「ちがう、いや違わない、ふらないでほしい、けど、……強要したいわけじゃなくて、……君を保護していたつもりの俺がふらないでだなんて君に言うと脅迫もどきなのはわかってるんだけど、……あの男みたいに忘れられたくない」
「あの、おとこ」
唐突に私と降谷さん以外の第三者が出てきて、それもなんだか憎々しげな言い方に思えて驚いた私が涙を止めてはじめて発した言葉がただの鸚鵡返しになってしまう。降谷さんが憎々しげに言うあの男とは赤井さんのことだろうか。でもこの幸せな世界の降谷さんと赤井さんにはそこまで憎々しげな声音になるほどの確執などないはずで、だけど私にはその人しか思い浮かばなくてさっきまで声が出なかったのが嘘かのように思わず復唱してしまった。
「ほら、忘れてる。……君に、白昼堂々迫った男のこと。……俺は白昼堂々君を泣かした男だけど」
白昼堂々迫った、なんて大仰な物言いに一瞬首を傾げそうになったけれど、急に鞄の中が重たくなったような気配がして思い出す。鞄の中にはポアロで私に告白をしてくれた男の人の名刺が入ったままだ。
「……あの男みたいに、好き、ごめんなさい、で思い出すこともなく忘れられる存在にはなりたくない」
それをまるで察したかのようにちらりと私の膝の上にある鞄を見て眉を潜めた降谷さんの放った言葉に唖然とする。
「降谷さんのこと忘れるわけ、ない」
「わかってる。でもそういうことじゃなくて、……俺とあの男は同じなんだ。ただ君を好きになって、君に好きになってもらいたい」
「あの人と降谷さんは全然ちが、」
「いいや、同じだ。君の神様じゃなくて、友達じゃなくて、恋人になりたい、……あの男と同じただの人間なんだ」
ずしりと鞄が重くなっていく気がする。
全然違う。あの男の人だって、たぶんきっと、とても優しい人だとは思うけど、それでも降谷さんと同じなんてことない。ふるふると頭をふればふるほどなぜか膝の上が重たくなっていく気がして、泣きすぎたせいなのか頭も痛くなる。
「むしろ、あの男より最低な人間だ。名刺だけ渡して君からの連絡を待つ余裕もないし、君を泣かせるし、……君を守ると言った俺が一番君を傷付けてる。ごめん」
降谷さんは最低なんかじゃない。いやいやとかぶりを振り続けていたのに急に動かなくなって、そっと両手で頬を固定されたのに目を見開く。潤んだ視界のせいでうつる瞳がきらきら宝石のようで、やっぱり降谷さんは見た目も中身も綺麗で、最低なんかじゃない。
そう思ったのにつめたい青色が揺れて熱を持った気がして、かたくかたく目を閉じる。見たくない。こんな降谷さんは知らない。今までたくさん見てきたのに、そんな色は知らない。
「……手に入らなくてもいいから、そばにいて」
私が降谷さんから目をつむって逃げたせいで傷付けたのか、降谷さんの声が震える。視覚を塞いだせいで耳を侵食する声が熱くて、耳も塞ぎたくなる。のに、体が動かない。固定されているのは両頬だけのはずなのに。
「やっぱりいやだ、なあ、俺と同じ意味で好きになって。……なんで恋するとこんな支離滅裂な思考になるんだ。あの男はなんであんなに潔かったんだ。俺は無理だ。君に否定的な言葉を言われたら涙が出てくる自信があるし、今みたいにいい年した大人が子ども染みた態度でずっと駄々を捏ね続ける。君の嫌がることはしたくないし、泣かせたくないけど、でもこの気持ちをなかったことになんかできない。どうすればいいんだ。教えてくれ……」
降谷さんの吐息が顔に触れて、目を開けていなくても距離が近すぎることに気付いてとうとう私の脳は耐えられなくなったらしい。ぷつりと何かが切れた音がして、痛いほどの静寂が襲う。
「っ」
勢いよく飛び起きて頭がふらつく。さっきまでのはいったい何。夢を、見ていたんだろうか。痛む頭をおさえながら顔を上げればそこは家の中で、やっぱり夢を見ていたのだろうかと眉を潜める。どこからどこまでが夢なんだろう、とりあえず立ち上がろうとして固まる。
「アンッ!」
「は、ろくん?」
尻尾を全力でふって無邪気に喜びを示すハロくんがいた。なぜ。なぜ、だなんて、ここが私の部屋じゃないからに決まってる。恐る恐る視線を這わせれば、なぜか壁のそばで両手をあげたまま固まっている降谷さんの申し訳なさそうな目とかちあって思わずそらしてしまった。ひゅ、と息を呑んだ音は私からしたのか、降谷さんからしたのかわからない。
「……ごめん、どちらにしろアウトなのは分かってたんだが、……ハロがいる方が安全かなと」
「、」
「好きな人の部屋をピッキングして忍び込んでベッドに寝かせるか、意識を失っている好きな人を自分の部屋に運んで介抱するか、……言葉にすると本当にどちらもアウトだろ」
「クゥン?」
「だからハロに見張ってもらうことにした。そこに寝かせた以外、なにもしてない。本当に」
アンッとどこか誇らしげに返事をするハロくんを見て、降谷さんにちらりと視線を向ける。微動だにせずさっきと同じポーズをしたまま立っている降谷さんに体温が下がる気がした。降谷さんが言うならそれは事実で、きっと、おそらく降谷さんはずっとそこに両手をあげて立っていた。きょろきょろと視線を彷徨わせて時計を見つけて私が気を失っていた時間をはかって後悔する。
「あの、あの、お、しごとは、」
「君はなにも心配しなくていい」
さすがにそれは言葉通りに受け取ることはできなかった。はくはくと口を動かして事の重大さに慌てている私を見て、いまだに両手をあげたままの降谷さんが苦く笑う。
「……どちらにせよ、今の俺は足手纏いだ」
「え」
「自分の言葉で好きな人の気を失わせて、とても冷静でいられる自信がなくて。八つ当たりで犯人を不必要に痛めつけてしまう可能性があるから、今日の仕事はヒロに任せることにした」
私のせいで、降谷さんのスケジュールを狂わせた事実に血の気が冷えていくのがわかる。
「君のせいじゃない。俺のせいだ。俺が君を泣かせたのが原因だから。ただの自滅だ」
「そ、」
「なあ、忘れてないか。俺、君に告白したんだけど」
この降伏のポーズもなんのためにしてるのか分かってるのか?なんて、ずっとあげている両手をひらひらと動かす降谷さんにびくりと肩が揺れる。
「ものすごい情けない告白だったし、まさか気絶されるほど嫌がられるとも思ってなくて正直泣きそうだけど、でも忘れられると困る」
「いやが、ったわけじゃ、」
「じゃあ嬉しいか?」
「そ、れは、」
反射的に顔を上げて青い目とばっちり視線が交わって縫い止められたまま間髪入れずに問われた声に口籠る。
「……わかってるよ。処理能力が追いついてないんだろ。いやとかいいとかの問題以前なのもわかってる。でも告白して気絶されたら、……理屈はわかってても泣きそうにはなる」
ゆらりと青色が揺れた気がしてまた目をそらしてしまう。
「でも美術品からは脱却できたみたいだから、……少し胸が痛いくらいは些末なことだ」
「え、」
「混乱し通してるところ悪いが、友達をやめて恋人になりたいという発言を撤回するつもりはない。それで君が俺を嫌になって離れるなら、……ストーカー規制法に引っかからない程度に駄々は捏ねるし泣くしすがるけど、頑張って諦める」
諦める、という言葉が、あまりにも降谷さんに似合わなくてそらした視線をおずおずと戻せば、降谷さんもどこか変な表情をしていてどうすればいいのかわからなくなる。
諦めてもらわないと私の大事な友達の降谷さんがいなくなるのに、降谷さんが諦めるという選択肢を取ると私の尊敬する降谷さんが諦めるわけがないのに、なんていう解釈違いに知恵熱が出てしまいそう。
「……まあ、言った本人が諦められるわけがないとは思ってたけど、君がその表情になるのは違うだろう。諦めなくていいのか?」
苦く笑う降谷さんに、はいともいいえとも答えにくい問いをされて声が出ない。
はい、と言えば友達がいなくなるし、いいえと言っても降谷さんには意味がない。
なんていうのは醜い悪足掻きだ。どちらにしろもう私と降谷さんは友達ではなくなった。聞いてしまったからには戻れない、言ってしまったからには戻らない。
「……俺は君に友達をたくさん救ってもらったのに、俺が君の友達の降谷を殺してごめん」
2020/05/02