「おはよう」

 びく、と肩を揺らすだけにとどまらず、足が地面から離れるほど飛び上がってしまった。失礼にも程がある。

「はは」

 傷付けてしまったと後悔したのに降谷さんがいる場所から聞こえた笑い声に恐る恐る顔をあげる。私が降谷さんと会うのが気まずく避けようと出勤時間をずらした挙句声をかけられたことに思い切り驚いたのに少しも傷付く様子を見せずに寧ろ心底嬉しそうに堪えきれない笑みをこぼす降谷さんの意図が読めない。

「ストーカーにはなりたくないから待ち伏せをするのは今日だけだ。安心してほしい」

 待ち伏せ、と声にならない口で形だけ復唱する。

「あのあとも泣いたか?」

 降谷さんの確認に首を振る。ふらふらと隣の家に帰ってただそのままずっと呆然としていただけだ。いつの間にか眠っていて、いつの間にか早く起きてしまって、今に至る。

「泣かせてごめんな」

 降谷さんのせいじゃないともう一度首を振ろうとして振れなかった。泣きすぎたせいで少し腫れぼったくなった目尻を指でそっと触れられて硬直したから。背中を少し丸めて覗き込んできた降谷さんの目とばちりと視線があって視線が揺らぐ。

「……もし明日からも俺を避けたいなら俺が時間をずらすから、君はいつも通りの時間にいつも通りの道で通勤してくれ。俺のせいでこんな人気の少ない早朝に時間をずらすな、頼むから」

 ぐ、と指に力がこもった気がして、だけど顔に痛みは全くなくて気のせいだったのかと不思議に思う。そして言われた言葉をきちんと反芻して、ただただ私のことを心配してくれている降谷さんに胸が痛んだ。頼むから、の声はどこかかすれていて小さかった。
 私が降谷さんから逃げて、降谷さんを傷つけている側なのに、降谷さんは逃げたこと自体には何も言わずにただ私を案じてくれる言葉ばかり投げかけてくれる。私はこんなにも自分本位なのに、降谷さんは優しすぎて、それが余計に苦しい。

「……君が隣に住むのもいやなら、それもちゃんと手配する。もちろんここと同じくらいの家賃で、同じくらいのセキュリティで、……だから、っ、」

 降谷さんが息を呑んで私も驚く。私が、頬に触れる降谷さんの指を思いきり遠慮なく掴んでしまった。降谷さんならきっと私からの接触なんていともたやすく避けられただろうに掴まってくれたおかげで不必要な接触に掴んだ側のくせに狼狽する。そもそも掴もうと意識したわけじゃなかった。なのに私の手の中にあるのは降谷さんの指で、頭が真っ白になる。

「ごめん、勝手に触って」

 降谷さんは私の動機を触れられたことに対する怒りだと解釈したらしく腕を引こうとして思わず更に強く握りしめてしまった。一瞬固まって、困ったように目尻を下げる降谷さんに、私は何も紡げない。

「……いいよ、ゆっくりで。時間はたっぷりある」

 それは私が降谷さんから逃げようとして通勤時間を早めたからで、確かにそのぶん時間はある。

「……無言が余計に頭を空っぽにしてしまうなら俺が話すのでもいい」

 どれくらい固まっていたのか穏やかに提案してくれた降谷さんにおずおずと頷く。

「また泣かせるかもしれないが、前提としてもう君の望む友達の関係を続けるのは難しい」

 ひゅ、と息が止まる。

「君は俺の好きな人だから口説きたい」

 昨日から何度もまっすぐ向けられる好きな人という言葉にどうしても脳が理解を拒んでしまう。わかってる。一度友達になったからってその友達を好きになっちゃいけないわけじゃない。むしろ大多数が友達から恋人にステップアップしてる。とても普通のこと。なのに勝手にこんなにも裏切られた気持ちになるのはどうしてなんだろう。
 降谷さんから友達になってと言われたから? そもそもそれも普通じゃない。友達になって、お願いします、なんて会話をすること自体があまり普通じゃない。
 口頭で友達の約束をしてしまったから裏切られた気持ちになってしまったんだろうか。友達になってと言われなければ、……でも、言われなければ、私はきっとここに戻ってこなかった。ああ、良い夢を見たなあ、そう思ってまた日常に帰っていったはず。
 友達の称号を得て、降谷さんのそばにいたくて、それで、……それで?

「君はもう前みたいに無邪気な笑顔で俺を見れないだろ? 今君にこの前のように1日時間を借りて車で遠出したいだなんて言って君は前回の時のように何も考えずに笑顔で頷けるか? 君の気持ちが今より少し落ち着いたって、どうしたって今まで通りの会話なんかできないのは目に見えてる」

 噛み砕けなくても、降谷さんの声が耳を撫でていく。
 きっと降谷さんは私がお願いすれば自然に友達をこなしてくれる。降谷さんが悪いわけじゃない。私が、私側が、もう降谷さんを友達として扱うことができなくなってしまった。友達に戻りたいなら、友達のままでいたかったのなら、いつもと同じ時間に扉を開くべきだった。
 私は降谷さんから逃げるべきじゃなかった。

「さっきだって君は待ち伏せしていた俺に恐怖を抱くわけじゃなく、俺を傷つけてしまった、って後悔してた顔をしてた。混乱し切って言葉も出ない今ですらそんなふうに俺を気遣う優しい君が、これから先俺と普通に接しようと言葉を紡ぐたびに君のことを好きな俺がどうすれば傷付かないか、そんなことばかり考えるんだろう」

 自分本位のわがままで降谷さんを傷付ける行為をしたのに、何もかも私の行動を良いように受け取ってくれる降谷さんがあまりにも大人で、恥ずかしくなる。確かに降谷さんを傷つけてしまったかもしれないことを後悔したけど、後悔したからって私が降谷さんを傷つけようとした事実は変わらない。私はただ、逃げなければよかった。降谷さんは傷ついていないのかもしれないけど、傷つけるかもしれないとわかっていて逃げようとした私は最低だ。逃げなければよかっただけ。
 逃げた私が友達という関係性に終止符を打ってしまったんだ。

「ひたすら心の中でそんな気を遣い続ける関係は友達として不健全だ」

 逃げずに向き合えば、降谷さんは私のことを好きなままかもしれないけれど、私は降谷さんの友達を辞めなくてもすんだかもしれなかったのに。

「……友達じゃないなら、今の私達はなんですか?」

 からからに枯れた喉のせいで声が掠れたけど降谷さんには届いた。ぴくりと私の手の中で降谷さんの指が反応したから。

「…………なんだろうなぁ。今のこの宙ぶらりんの関係性の名前は俺にもわからない。君が嫌じゃなければ、それを一緒に考えていこう?」

 優しく優しく落とされた言葉に無意識に頷いた。降谷さんがホッと表情を緩めたのを見て私も少し安心する。
 
「それで、あのだな」

 安心したのも束の間、降谷さんが言いにくそうに言葉を濁しはじめて再度緊張が走る。まだ他に何か問題が、

「ずっと頬に手を当ててるとそのままキスしたくなるから指を、」

 離してくれないか、の言葉を最後まで聞く前に掴んでいたのも忘れた指を離した。どくどくと心臓がはねて全力で運動をした後のように肩が呼吸で揺れる。ずっと掴んでいた。だって降谷さんがどこかに行こうとしたから。逃げたのは私のくせに、離れるのは嫌だと子どもみたいな矛盾したわがままを。

「いや、うん、勝手にキスなんてそんなこと絶対しないし、そういう信用をしてくれてるのは勿論嬉しいんだが、俺は君を好きなのだから多少は警戒してくれないと脈無しすぎてつらいというか、……ごめん、矛盾してるな」

 降谷さんよりよっぽど私の方が矛盾してる。降谷さんだってそれはわかってるはずなのに、さっきから全く私を責めないから余計に罪悪感に胸が苛まれる。

「とにかく! 不意をついて無理矢理キスなんて犯罪君に対して絶対にやらない、が、……俺が君にキスをしたいと思ってるということを頭の隅に置いておいてほしい」

 気合を入れるようにとにかく!と少し大きな声を出した降谷さんに目を少し見開いて驚いてしまう。
 降谷さんならきっと私に逃げ道なんて与えない詰め方なんて余裕でできただろうに、ずっと優しく私に考えさせようとしてくれている。

「……話を戻すがもし君が嫌なら俺が時間をずらすから、君はいつも通り人通りのある時間に出勤してくれ」

 その言葉にふるふると首を振る。

「今日は、逃げてごめんなさい。……もう逃げない、です」

 言いながら視線は俯き逃げててなんて説得力のない言葉なんだろうと思った。なのに降谷さんは相も変わらず優しくて、うん、と信じてくれた。










 仕事の帰り道、ポアロの前を通るのは気まずかった。ものすごく、ものすごくものすごく気まずかった。でも逃げないと言ったから。言葉通り逃げないと決めたから。
 からん、と、鈴を鳴らしてタイミングよく出てきた降谷さんに覚悟は何処へやら一瞬足が止まりそうになるのをどうにか堪えて足を進めた。ばちりと目があって口を開く。

「…………こん、ばんは」
「おかえりなさい、こんばんは」

 待っていてくれた。
 きっと降谷さんなら先に言葉巧みに私が返事をしやすいような言葉を紡げたはずなのに、朝方、信じると頷いてくれたから、私からの言葉を待っていてくれた。それが嬉しくて、逃げなくてよかったとほっとして、何もかもの感情がごちゃ混ぜになって、頬が緩んで、緊張が解けた。
 降谷さんは信じて待っていてくれる。気負わなくてもいい。緊張しなくてもいい。もう友達じゃない。私が友達を辞めてしまった。でも、友達の時より、名前のない今の方がなんだか気持ちで対等になれた気がした。

「ただいまです」









 緊張が解れたからと言って、そんなすぐにいつも通り、にはできなくて、会話に変な間があいたりはしたけど降谷さんと並んで部屋の前まで辿り着けて、逃げないを体現できた気がしてほっとする。

「なあ、ひとつ気になることがあるんだが、君の知ってるこの世界の物語は推理だけじゃなくて恋愛もメインなわけだよな」
「メインというか、まあ、恋人だったり恋人未満の方達はたくさんいます」

 だからといって気まずさがなくなるわけではなく、恋愛色の強い話題を振られるとどうしても身構えてしまう。降谷さんにこれ以上失礼な態度を取りたくないのに。部屋の鍵を開けるだけ開けて所在なさげに私の掌にあるキーケースを鞄に戻してどう話題を広げるつもりなのかわからない降谷さんに向き直る。

「数多の恋人たちはきっと幾度の危険を乗り越えて絆を深めてきたわけだろう?」
「そう、ですね」

 ミステリーというカテゴリ上仕方ないとはいえ、ただでさえ毎回事件に巻き込まれるのに毎年映画で規模の大きすぎる事件に巻き込まれるヒロイン達の心情は如何程のものなんだろう。体力面じゃもちろん強いし、きっと私なんかよりよっぽど精神面も強い。でも、未成年だ。物語じゃなく、今を一緒に生きてる人だと実感してしまうと心配で仕方がなくなる。だからといって、私に何ができるわけでもないけれど。前に出て盾になるのは簡単だけど、それが逆に足を引っ張る結果になりそうだし。いつかの哀ちゃんの時のことを思い出して反省する。たぶんあれも私が余計なことをしない方がもっとスムーズだった気がする。

「ごめん。今からものすごく自意識過剰で自惚も甚だしいことを言うんだが、できれば引かずに聞いてほしい」

 反省に自然と俯いてしまっていたらしく、降谷さんの言葉が不思議で顔を上げる。

「つまり、俺が所謂ヒーロー役で、ヒーローの片想い相手の君はヒロインになる、と、踏んでるんだが、……俺が君を好きなことが君を事件に巻き込む可能性があるということか?」

 何を言われたか一瞬理解できなくて、理解した瞬間降谷さんの思う、引かずに、とは全く違う意味で引きそうになった。血の気が。さあっと。

「なるほど。君の反応でわかった。結構な頻度で起こる可能性があるんだな?」
「降谷さんのせいじゃ、あの、そもそも、私は、異物だし、混ぜてもらったところでたぶんきっとモブだし、ヒロインまではあの、いかないと」
「ありえないことだが、もしも、俺が君のことを好きにならなかったとしてヒロインじゃなかったとしても、あの子にお姉ちゃんと呼ばれる君はモブにはなれないと思う」

 は、と固まる。ぐだぐだと並べた言い訳をバッサリと切られてしまってどうしようもなくなってしまった。哀ちゃんにとっては軽い気持ちだったのかもしれない、でも私は彼女にとっての姉が特別なことを知っている。そんな彼女にお姉ちゃんと呼ばれた時点で私の運命は決まったのかもしれない。
 でもきっと、過去に戻れたとしてもまた同じことをしてしまうんだろうなと確信する。ならもう仕方ないか。相応しいか相応しくないかは別として、お姉ちゃんと呼ばれるのはとても嬉しいことなのだから。

「俺の当面の課題はわかったが、…………俺の専らのライバルは君の小さな妹なんだよなあ」
「え、」

 見えない犯罪の可能性にどう覚悟を決めればいいのかはわからないけどとにかく腹を括って顔をあげれば困ったように眉を下げる降谷さんに言われた言葉を思い出す。
 俺の専らのライバルは君の小さな妹なんだよなあ。
 反芻して首を傾げる。哀ちゃんと降谷さんがライバル? どうして。

「前も言ったが俺は必死になって友達という肩書を手に入れたのに、友達よりハードルが高いであろう家族枠をすんなりと受け入れられていて羨ましさに何度歯軋りしたことか」

 冗談めかすように肩をすくめて呟かれて、え、と言葉を漏らしてしまう。

「外見だけじゃなく色んな意味で全幅の信頼を寄せてもらえていたり、君を君じゃないと理解できるのも、……ほら、条件は一緒だろ?」
「でっ、でも私が一番すっ」

 好きなのは降谷さん、と言おうとして固まる。これは言っていいことなんだろうか。降谷さんは私を好きで、私の好きとは違うから、こんな何も考えずに好きと口にするのは、私に告白してくれた降谷さんを傷付けることになるんじゃないだろうか。いやでもこんなぐだぐだと深く考える方が失礼なんだろうか。というか一番だのなんだの哀ちゃんに対しても失礼な気がする。
 ぐるぐると考え込んで雁字搦めになって固まった私を見て、とうの降谷さんはなぜかにこにことしていて余計に訳が分からなくなってしまった。

「悩ませて申し訳ないと思う気持ちも本当だけど、悩んでくれてるのが嬉しくて。俺の課題はどうにか対処できないか考えておくから君は安心して過ごしてくれ」

 説明してくれたらしいのはわかったけど、結局何がそんなに降谷さんをにこにこさせているのかはわからないまま、機嫌の良い降谷さんにおやすみなさいと部屋へ押し込まれてしまった。
2020/06/11


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