▼▽▼

 降谷さんは忙しい時期に突入してしまったのかハロくんの存在すら壁越しに聞こえなくなってしまった。たぶん景光さんのところに預けているんだろうな。降谷さんと時間が合わないことは今までだって多々あったけど、ハロくんを預けるほど長期間全くすれ違うことがなくなってしまったことに寂しさを覚える。
 でもぎくしゃくしたまま降谷さんと会えないこの状態にならなくて本当によかった。間を置けば置くほど私は一人で考え込んで意固地になって、降谷さんとの縁すら切れていたかもしれない。でも降谷さんが私にきちんと話をしてくれて、私の話も聞いてくれた。友達ではなくなってしまったことはやっぱりまだ少し寂しい気持ちもあるし、友達ではなくなった降谷さんの口から出てくる言葉は私を振り回すことも多いけど、降谷さんとの距離感に何も不安は生まれない。降谷さんの睡眠時間が確保されてるかどうかは心配で仕方がないけど。
 ……信じているから不安は生まれないけど、でも、ほんの少し寂しい。

  ▼▽▼

 降谷さんが忙しいということは治安がよろしくないということで、いくら心の中で思うこととはいえ寂しいと感じるのは我儘すぎる。しっかりしなきゃ、なんて今更ながらに思っていれば伊達さんとナタリーさんと小さな小さな赤ちゃんの家族にばったり会ってお礼を言われてしまった。私が素直に受け取れる感謝は伊達さんだけ、だなんて思っていたくせに、実際その場面に立ってしまうと無理だった。ありがとう、いえいえそんな。私が少し素直に受け取るのに時間がかかってしまったせいでしばらくぺこぺことお辞儀合戦を繰り広げてしまった。
 伊達さんが生きていて、ナタリーさんも笑顔で、赤ちゃんもすやすやと気持ちよさそうに眠っていて、つい、可愛いですねと涙が浮かんでしまったせいで何も知らない伊達一家にものすごく感受性の豊かな人間だと思われてしまったことと思う。確かに赤ちゃんは生命の神秘で尊いですがさすがに普段赤ちゃんを見ただけで涙ぐんだりはしません。この家族が幸せいっぱいに休日を過ごせていることが嬉しくて、それのせいなんだけど説明はできなくて伊達一家に私は涙脆い人だと勘違いされてしまった。いつか誤解が解けるといいけど。

 誤解は解きたいけどこの前のように偶然に伊達一家に出会うことなんてもうないだろうしなあ、なんて思いながら帰宅していれば気怠げにタバコを吸う松田さんを遠目に見つけて挙動不審になってしまったところを職質されてしまったつらい。いや冗談なのはわかってるんですけど。ものすごくニヤニヤしていたので揶揄われていたのはわかっていたんですが本当に職質を受けても仕方ないほど視線は動くしなんなら回れ右しようとしてしまったのでもう降参するしかなかった。回れ右はちょっと考えただけです。降谷さんに伝えている通勤ルートを変えるとそれはそれで迷惑をかけそうだから。
 なんだなんだやましいことでもあんのか?
 なんてニヤニヤ顔で詰め寄られて無抵抗で鞄を差し出しました。やましいことは何もないです。

  ▼▽▼

 今日は目の前に萩原さんが立っていていくら鈍くても勘付いてしまう。

「あの……頼まれてますか?」
「何を?」
「……頼まれてるんですよね」

 今まであまりすれ違わなかったのに、ここ最近毎日のように入れ替わり立ち替わり降谷さんの同期に会ってしまえば偶然じゃないことくらいわかる。この間なんか遠巻きに風見さん見つけた。風見さんは物凄く優秀だと思う。ただ私が風見さんの顔をしっかり知っているカンニング済みの人間だからわかってしまっただけで、そうじゃなければ全く気づかなかった。
 そのときは偶然この辺りでお仕事してるのかな、なんて呑気に考えていたけど、ここ最近のことを思い返して罪悪感に押し潰されそうになる。
 降谷さんだけじゃなく、周りすらも巻き込んでしまっている。貰った腕時計のGPSを管理してくれているのはきっと景光さん。
 私は今、いったいどれだけの人を巻き込んでしまっているんだろう。私がカンニングできていない顔も知らない降谷さんの協力者だってもしかしたらいるのかもしれない。イレギュラーな私のせいで負担が増えてしまっている。

「俺たちお巡りさんはみんなを守るのがお仕事だからね」

 はいともいいえとも言わなかったけど誤魔化さない萩原さんは誠実だ。誠実な人達を私の都合で振り回してしまっている。今までは降谷さんが直接守ってくれていて、降谷さんが忙しい時期に入った今は降谷さんのツテでフォローされている。

「でもこれは、……みんなと同じじゃないですよね?」
「うーん、例えばだけど、ストーカーがいるとするでしょ?」
「え?」

 話を逸らすにしても意味のわからない話題選びに思わず間抜けな声が飛び出た。

「市民がストーカーに怯えて警察に通報してきてくれたのに、でも直接危害を加えられたりしたわけじゃないんでしょ?って追い返す警察官、いる? いや情けないことにたまにそういうクズも存在はするんだけど。そういう通報があったら、つきっきりで警護はできないけど、でも捜査したり、その通報してくれた市民の生活圏内のパトロールは増やしたりするよね?」
「……そうです、ね」

 優しく諭すように落とされた声に何も反論するところなんてなくて素直に頷く。でもそれと、今の私の状況は関係ない。

「あんまり実感ないかもしれないけど、君、今そういう状況なんだよ。申し訳ないとか私だけ特別扱いなんじゃ、とか思う必要はなくて、……うーん、なんて言ったらいいんだろ。正直言うと別のやつから聞いたら事情を説明されても信じられなかっただろうし、それが本当のことなら警察の俺たちでもどう対処すればいいのかわからない不思議なことなんだけど、君、いなくなっちゃったことあるんでしょ?」

 びく、と肩が揺れる。
 喫茶店でほのぼのと会った時と違って、萩原さんの目は真剣だった。きっとあの時は何かしらの隠喩だと思ってたはず。一般人だけど警察にとって有益な情報をもたらしてくれたから、とかそんなふうに。
 でもどう説明したのかはわからないけど、不思議やいなくなっちゃったの言葉選びからして、私の身に起きた荒唐無稽でしかない話を信じてくれている。いやきっとどう説明したのかなんて関係ない、降谷さんが語ることだから信じてくれた。降谷さんたち同期の信頼関係を目の当たりにして緊張で固まった体もすぐに解れる。

「ごめんね、怖がらせたいわけじゃない。……でも、やっぱり心当たりあるんでしょ? ならさっきの例え話で納得できない?」
「……、でもそっちは……どうしようもないことですから」

 だけどそれでも信じてくれたからといって何かが変わるわけでもない。
 降谷さんたちの信頼関係を感じられて嬉しかった。降谷さんが、荒唐無稽でしかない話をできる頼れる仲間が存在することがとても嬉しかった。
 降谷さんが私のことを好きで、私が所謂ヒロイン役に抜擢されたことによる犯罪は、このパトロールで未然に防いでもらえるかもしれない。防げなかったとしてもこの腕時計で居場所を見つけてもらえる。
 でも、ここからいなくなってしまうというそれはどうしようもないことだから。いくら降谷さんがすごくても、降谷さんが頼りにできる仲間たちが生きていても、どうしようもないことだから。
 優しく私を諭してくれた萩原さんに申し訳なくて苦い笑みを浮かべて、誰も悪くないんです、とどうしようもない事実をもう一度口にしようとして、タレ目で優しげな瞳がほんの少しつりあがったことに気付いた。

「あいつが諦めてないんだからどうしようもないなんて言わないで」

 一際静かな声だったのにまるで大声で怒鳴られたかのような威圧感に固まる。

「どうすればいいのかわからなくても、今はもう諦めてない。あいつのやることをどうしようもないことだからなんて諦めないで、信じてあげて」

 金縛りにあったかのように動けなくて、息をすることも忘れてしまう。真っ直ぐ見つめてくる目はどこか降谷さんに似ていて、降谷さんに叱られているような錯覚すら覚えてしまう。

「俺達も諦めてない。なのに本人が諦めてどうすイテェッえっ?!」
「こんな簡単に背後取られる奴に言われても不安だろ」
「じんぺーちゃん?! 痛いんですけど何?!」

 萩原さんの背後から唐突に現れた松田さんにさっきとは違う意味で心臓がバクバクと煩く騒ぐ。背後から急に頭を思いきり叩かれた萩原さんはもっとびっくりしたのかさっきまでの神妙な雰囲気はどこへやら、ぎゃんぎゃんと松田さんに抗議をしていて目を瞬かせる。

「なんで叩いたの?!」
「いやなんか泣かせそうだったから。あいつがいなくてよかったな。泣かせてたら殺されっぞ」
「ウッ……ごめんね……」

 タレ目が余計に垂れていて悲しげな表情の萩原さんの方が今にも泣きそうで首を振る。そもそも私がこの優しい人たちの善意に対してぐだぐだと管を巻いていたのがいけない。
 そうだ、降谷さんがやることを疑うなんてどうかしてた。降谷さんに任せるだけで百人力なのに、降谷さんの頼もしい仲間達がこんなにもどうにかしようと考えてくれている。

「私の方こそごめんなさい」
「みんなで考えればどうにかなるから」
「どうにかするから、だろ。なに他力本願な言い方してんだ」

 ふん、と勝気に笑う松田さんに思わずつられて口角が持ち上がってしまった。降谷さんだけじゃなく、降谷さんもあわせた5人がどうにかすると言ってくれている。
 私がすべきことは、諦めない。それだけ。本当にただそれだけしかできなくて、足手纏いなことには変わらないけど。

「気の持ちようが大事ですよね、……弱気なことはもう言いません」
「そうそうその意気!」
「まああんたは何も気にせず普段通り過ごしてりゃいいんだよ」
「陣平ちゃんはなんでさっきから良いとこ取りすんの?」

 恨めしげな視線と声を松田さんに向ける萩原さんに今度こそ声を出して笑ってしまった。何も気にせず、なんて、そんなことは無理に決まってるけど、なんだか肩の荷が降りた気がして笑みが溢れる。

「あっでも不安なこととかあったらちゃんと安室サンに相談するんだよ? 弱気になって諦めちゃうのはだめだけど、弱音を吐いちゃいけないってことじゃないからね?」

 松田さんに抗議していた萩原さんのどこか微笑ましいやりとりを眺めていれば抗議する勢いのままぐりんっと視線が私を再度貫いて目を瞬かせる。びっくりしたのも束の間、終始優しい言葉を向けてくれる萩原さんに弱気も吹っ飛んで私も素直に頷いた。弱気はだめだけど、ちゃんと相談はする。これ以上みんなに迷惑をかけないためにもしっかり胸に刻みつけた。

  ▼▽▼

「アンッ!」

 玄関に鍵を差し込んだ瞬間廊下に高音が響いて思い切り肩を揺らす。鍵を差し込んだまま放置して音のする方へ振り返ればハロくんを抱きかかえた降谷さんが立っていた。

「お、おかえりなさい!」
「ただいま。鍵を開けるときは背後に気をつけような」
「あっはい」

 久方振りの降谷さんに早速注意を受けてしまう。でも確かに不注意だった。いくらセキュリティが完璧な家だからと言って、降谷さんとハロくんの存在に気付かないほどぼんやりしていたのは反省。上から降谷さんの顔、ハロくん、腕、足、なんだかいつも以上に舐め回すように見て失礼だと思うけど今日は許してほしい。見たところ見てわかるような場所を負傷している気配はないけど……。

「あの、怪我、してないですか?」
「……今度こそ包帯、巻いてくれるか?」
「エッ、だっ、どこ、どこ怪我したんですか大丈夫ですかあの病院行っ、だめですよねえっととりあえず救急箱取ってきます!」

 やっぱり人目に見えないように隠すのもお上手ですね! 差しっぱなしにしていた鍵を慌ててガチャリと回して部屋に入ろうとして固まる。アレッ前に進まない早く手当てしなきゃいけないのになんで、なんて思っていればいつの間にハロくんを下ろしたのか私の腕を掴んで部屋の中へ入ろうとする私を阻止する降谷さんのせいだった。すごい。びくともしない。

「ごめん、その、嘘だ」
「エッ」
「包帯巻くほどの怪我はしてない」
「良かった……!」

 胸を撫で下ろしてほうと息をつく。いやでも待って、巻くほどの怪我はしてないと言っただけで、怪我をしてないと言い切ったわけじゃない。つまりまだ安心する時じゃない、軽い怪我でも心配は心配。

「……怪我してない」

 じろじろと上から下まで繰り返し舐め回すように見ていた私を見て苦く笑う降谷さんに渋い表情になってしまう。私じゃ降谷さんの嘘は当然のことながら見抜けないし、その言葉に安堵していいのかわからない。

「本当だ。信じられないなら脱ごうか?」
「ピェッ」
「はは、久々にそれが見たかった」

 弄ばれた。でも本当に無事で、怪我をしてないなら私の純情くらい弄んでくれて良い。本当に無事なら。私のことを誤魔化すための口八丁じゃなければ。

「本当に今は怪我してないから」
「いまは」
「今は」

 ということは会ってない間に怪我をして、会ってない間に完治したということ。確かに今は怪我をしてないのは本当なのかもしれないけど歯痒い気持ちになる。そんな私の複雑な気持ちなんてどうでもよさそうに楽しげに私達の周りをまわるハロくんに視線を落として口を開く。

「……ハロくん、降谷さんが怪我しないように見張っててね」
「アンッ」

 とても良い返事を貰ってしまって思わず頬が緩む。

「君のほうこそ怪我したり、危ない目にあったりしてないか」
「おかげさまで連日だれかしらと挨拶できたのでぴんぴんしてます」
「……職権濫用はしてないぞ。友達に相談しただけだからな」

 どこか言い訳のように聞こえる声に忍び笑う。もう慣れてもいいはずなのに、降谷さんが友達と普通に過ごしている姿を想像するだけで胸がいっぱいになる。

「風見さんもお友達ですか?」
「……部下兼友達だ。向こうは口うるさい上司としか思ってないかもしれないが」

 若干間があったのは私がその名前を知っていたからだろうか。それとも私に尾行がバレた風見さんのことを叱ろうと思った間だったんだろうか。カンニングできる私がずるいだけで風見さんはとても優秀なので所謂“これ公”はしないであげてほしい。

「ちゃんとつけてるな」

 誤魔化すように掴んでいた腕から指を滑らせた降谷さんが腕時計に触れて私もそこへ視線を落とす。

「……君が規則正しすぎるから、君なのか、君じゃない何かなのか、……本当に会うまで不安だったんだ」

 降谷さんに心配かけないように、パトロールをしてくれるみんなを振り回さないように、いつも以上に規則正しくキビキビと出勤と帰宅をしていたのが裏目に出てしまった。

「今日もいつも通りだったとヒロから聞いて、いつも通りの君なのか、機械的な何かなのかわからなくて。あいつらに相談して声をかけてもらったけど、今のところ俺と俺のライバルしか君の違いに気付けないから」
「……私、怒られたんです」
「は? 誰に」
「アッ違いますあの私が悪くてですねその」

 話の導入の仕方がとてつもなく悪かった。瞬間冷凍のように空気が冷えて、さっと触れていた指先が離れて冷や汗をかきそうになる。これはだめだ。きちんと伝えなければ萩原さんが悪者になってしまう。悪いのは私なのに。やっぱりこの間萩原さんに叱られた時、降谷さんに似てると思ったのは間違いじゃなかった。

「あの、ひ、ろいん役だというのはその、実感は湧かないんですけど、その、犯罪にあいやすくなるかもしれないということは受け入れてたんです。でも、……私がいなくなってしまうのはどうしようもないことだって、パトロールをしてもらったところでそのよくわからない何かから身を守ることはできないだろうなって諦めてたんです」
「……」

 空気が重い。視線が重力に負けてどんどん俯いていく。いくら今は考えを変えたと言ってもやっぱり降谷さんの気持ちを考えずにひとり諦めていたことを伝えるのは申し訳なくて顔を見ることができない。俯いた先で不思議そうに見上げるハロくんと目があって息を吸う。

「そうやってどうしようもないって笑った私にあいつが諦めてないんだから信じてあげて、って……、だから私、諦めないことにしたんです。もしもう一度、向こうに帰ってしまったとしても、降谷さんのそばに帰ってきます」

 降谷さんからの返事がなくて不安になる。でも、心配しなくて大丈夫だ。私が勝手に不安になっているだけ。降谷さんが、誰かの決めた覚悟に否定的なことを言うわけがない。

「前は約束はできないけどって諦めてしまって、降谷さんのそばにいたいって望みを言うことしかできなかったけど、今度は、約束します。ちゃんと帰ってきます」

 小指をそっと差し出して、ハロくんに勝手に分けてもらった気になった勇気を出して顔を上げた。

「約束、してく」
「する。するに決まってる」

 私が言い切る前に降谷さんの声が重なる。
 小指を差し出したのに、降谷さんの小指が絡み返されるわけじゃなく全部の指を両手で掴まれて思わず瞬きしてしまった。
 約束かっこ物理な感じに頬が緩む。降谷さんらしい。小指なんかじゃ足りない、全部で約束してくれる。

「……どうすればここに戻ってこれるのかは前と同じでわからないままだけど、それでも絶対に諦めないでちゃんとただいまって降谷さんに言います。約束、しました」

 手を丸ごと包まれているけどお約束だからと指切ったをしようと少し揺らそうとして、全くかけらも動かない拘束につい笑ってしまう。降谷さんは力を込めているつもりがないのかそんな私の空気の読めない笑みに不思議そうでそれが更におかしくて笑みが溢れてしまう。

「ふふ、」
「……冗談だとは言わせない。警察との約束だぞ、破ったら逮捕してやるからな」

 思わず浮かんだ笑みに冗談を繰り出したと思われたのか不穏な声音で告げられた職権濫用につい肩を揺らしてどうにか抑えようとしても微笑んでしまう。

「ふふふ……ごめんなさい、違います、あの、全く動かなくて、いろんな意味で力強くって頼もしいなって楽しくなってきちゃって」
「……君は、俺が君のことを恋愛対象として好きなことを忘れるのが本当に好きだな」
「ぴっ」

 一瞬緩んだ手のひらに視線を落とす前に放たれた爆弾に反射的に手を引こうとしたのに全く動かなくて固まる。

「俺は君が好きだから君の言葉にこうして振り回されてすぐ不安になるし、さっきみたいに飛びつく勢いで喜ぶ。わかってるか?」

 ぐ、と力を入れてもびくともしない。
 わかってる。今のこの宙ぶらりんな関係は降谷さんの厚意と恩情で成り立ってるって。降谷さんが私が混乱しないように、また容量オーバーで気絶しないようにゆっくり私に考える時間をくれているだけだって、わかってる。わかってるのに。降谷さんがあまりにも優秀すぎて自然な距離感と、そういう、今のような距離感をまるでスイッチでもあるかのように見事に切り替えるからわからなくなる。
 これは言っていいことなのか、悪いことなのか、今まで通りで許される会話なのか、今まで通りだと傷付けてしまう会話なのか、わからなくなる。

「恋心を弄ぶ悪い人は今すぐ捕まえようか?」
「っ、」
「……ヒロイン役なんて受け入れなくていい。その弊害はこっちでどうにかするから。ヒロインだろうがそうじゃなかろうが、この国に住む人を守るのが俺の仕事だからいつも通り過ごしてくれ」

 真面目な表情で私を射抜く視線が力強い。

「ただ、君は俺の好きな人だということを受け入れてくれ。忘れないで。普通の顔をしていても心の中で常に笑顔が可愛いと思ってるし、俺に見惚れて奇声をあげるおかしな君も可愛いと思ってるし、……悔しいことに、悔しいくせに、俺に好かれてるということをすぐ忘れてしまうところも可愛いんだ」

 警察官の表情が甘く崩れて思わず目を逸らしてしまった。

「君は少し情報通なだけのごく普通の民間人なんだから、何も心配せず安心して生活してほしい。君が警戒すべきは目の前にいる君を好きな男だ。君の周りで一番の危険人物は俺だ」
「そ、ん」
「そんなことない? 現に君はこうして俺を振り解くこともできないのに?」
「そ、……れは」

 ぐ、と足に力を入れて踏ん張って後ろに引こうとしてもびくともしない拘束に、ほら、と降谷さんが呆れた表情を浮かべる。

「まあこんなことを言いつつ絶対に襲わないのが理解されてるから、君も自覚しにくいんだってこともわかってる。信頼があだになることもあるんだなんて思わなかったよ」

 はは、と笑う降谷さんになんと言葉を紡げば良いのか分からない。私が降谷さんを理解していることを降谷さんは理解してくれていて、それでもきちんと言葉にしてくれるところがやっぱりどう足掻いても正義の塊でしかない降谷さんで、それを悟った降谷さんがまた苦く笑う。

「……友達の自覚も時間があれだけかかったんだから、告白を受け入れるのもそれ以上に時間がかかるのはわかってる。だからゆっくり考えてくれていい。でも忘れるなら荒療治で無理にでもこうして意識させる」

 こうして、と包まれた両手をぐっとさらに強く握りしめられるだけにとどまらずさっきまであんなにも動かなかったのに軽く引き寄せられただけでぐらりと揺らいでたたらを踏んだ。ごつ、と鼻が降谷さんの胸板であろう何か固いものにぶつかって呻く間も与えてもらえない。鼻が胸板らしきものにぶつかったということは、今私が立っている場所は降谷さんの腕の中で、

「……面白いくらいに脈拍がすごいな」

 愉快だと言わんばかりの揺れる笑い声の体の振動すら伝わってくる立ち位置に石にでもなったかのように固まって動けない。

「息はしろよ」
「──……はっ」

 降谷さんの言葉に息を忘れていたことを思い出す。

「これもセクハラだから訴えないでほしいが、君が忘れなければこういうこともしないから。……なんて、君のせいにしてごめん」

 いつの間に手が離されたのかぎゅうと体を抱きしめられて耳元に降谷さんの声が流れ込んでくる。

「忘れるな、……わかったか?」
「……」
「返事は」
「はいっ」

 出せる限りの声を出したつもりだったのに、きっと降谷さんにしか聞こえないくらい小さな音しか出ていなくて自分でも驚く。

「よし」

 私のとても元気が良いとは言えないか細い返事でも満足してくれたのか、降谷さんの声がまた耳を擽ってゆっくりと体温が離れていった。離れていったといっても、鼻が折れそうなほど固かった胸板と私の距離が拳ひとつ分くらいしか離れていなくて、せめてハロくん一匹分くらいの距離感が欲しくて目が泳ぐ。

「忘れたらまた意識させるからな」

 何度でも念を押す降谷さんに私も何度も首を縦に振った。
 頭がくらくらするほど何度も振って、眩む視界で降谷さんを恐る恐る見上げる。

「うん、その調子だ」

 降谷さんが満足そうに細めた目に映った私の表情は、その表情に見合う色をしていたのだろうか。


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