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 目が覚めて、全く知らない部屋にいた。いつもいつも、唐突に絶望を突きつけてくる。こんなことになるなら、
 ──────こんなことになるなら?
 こんなことになるなら、気まずがったりせずにもっと降谷さんの顔を心に焼き付けられるようにきちんと見つめればよかった。
 こんなことになるなら、いつまで経っても忘れられないように私を呼ぶ降谷さんの声を耳に残しておけばよかった。
 こんなことになるなら、もっともっともっと降谷さんの素敵なところを、降谷さん本人に否定されようと降谷さんが私の特別だということを伝えればよかった。
 こんなことになるなら、こんなことになるなら、こんなことになるなら。
 こんなことになるなら、であふれて止まらない感情が涙になってこぼれる。
 帰らなきゃ、約束したのに。
 でもどうやって? だって、こんなのどうすればいいのかわからない。降谷さんですら解決できないことを、私一人が帰らなきゃ、だなんて気持ちだけでどうにかできるわけ、ないのに。だけど約束したのに。
 帰らなきゃ。どうやって? 帰りたい。
 ──約束だぞ、破ったら逮捕してやる。
 逮捕、しにきてくれたらいいのに。そしたら会えるのに。
 結局私には何もできなくて、ただこうして後悔ばかりをつのらせる。悲しくて、自分で言ったことも守れないのが情けなくて、涙が止まらなかった。

  ▼▽▼

「やっと起きたのか。薬の分量間違えてうっかり殺したかと思っただろうがよ」

 どれくらい泣いていたのかわからない。ずっと泣いていたのかもしれないし、本当に一瞬しか泣いていなかったのかもしれない。時間も分からずただ泣いていたところにがちゃりと勝手に部屋が開いた音に肩が揺れる。

「は? てか泣きすぎだろ。まだなんもやってねえのに」
「いや誘拐したからなんもやってねえことはねえだろ」
「でも俺ら優しい方だろ。それ以外なんもしてねえんだからさあ」
「お前ほんと馬鹿なんだな」
「は? お前に言われたくない」

 騒々しく部屋に入ってきた2人は涙に濡れて歪んだ視界で見てもガラが悪いとしか言いようのない風貌で固まる。だれ。目が覚めて見知らぬ部屋にいたから、私にはどうしようもない経緯で降谷さんとまた引き剥がされた、はず。それだけならまだましで、もっと恐ろしい事態に転んでいたんだろうか。元の場所に戻ってきてしまったと思い込んでいたけど、また別の違う場所に飛んでしまったんだろうか。降谷さんに会えた幸運を相殺するとなると次の場所がどんな悪辣な場所だったとしても納得できてしまう。一生分、いや、来来世分くらい分不相応な幸運を感じられたのだから、これからの居場所がどんな場所になろうと仕方がない。

「あのバーボンがこんな女ただ一人のために動くかね」
「さあな」
「ばー、ぼん?」
「あ?」
「この女やっぱなんも知らねえんじゃねえの?」
「役に立たなかったら立たなかったで始末すればいい話だろ」
「それもそうだな」

 恐ろしい会話をしていたのはわかってる。これからの運命にどう立ち向かえばいいのか考えないといけないこともわかってる。でも、聞き覚えのある単語に思わず反応してしまった。嗚咽混じりの小さな声は不恰好で目立ったのか会話をしていたはずの2人の耳にも届いてじろりと睨まれる。

「あんたが今こんな目にあってるのはそのバーボンこと安室透のせいだよ。よかったな、虫も殺さなそうな優しそうな顔してる安室透が実は悪虐非道のおかげで一応今のあんたは命の保証があるわけだから、まあ今まで通り大人しくそこで泣いとけ」
「ば、ぼん、 あむ、 ろ、さん」

 震える声で名前を呼んで、まるで魔法の呪文を唱えたかのようにぴたりと涙が止まる。ああ、まだ、降谷さんと同じ世界だ。よかった。本当に、本当によかった。

「きも……」
「バーボンのこと知らなかったとしてもあの男とつるめるんだからそりゃ変な女に決まってんだろ、今の自分の立場はわかっただろうしもうほっとこうぜ」
「えっこいつ笑ってんだけど。マジで引く」

 誘拐する人に引かれたくない。
 咄嗟にそんなことを思えるなんて、私もなんて図太くなったんだろう。1度目は犯人と接触しなくても震えて固まって小さな女の子に励まされる始末で、2度目はなんとか大人として小さな女の子を守ろうと奮起したけど結局何もできずに腰は抜けたし、なのに3度目の今は標的が自分の誘拐事件なのにここが降谷さんの世界だと理解した瞬間涙が止まった挙句笑顔になるだなんて。順調に米花町に染まってきた気配がする。
 だってこんな目にあってるのに、ここが降谷さんと同じ世界にいることがわかっただけでこんなにも嬉しい。降谷さんを信じているから、きっと助けてくれるという確信があるから。私はただ、死ななければいい。生きていれば降谷さんとまた会える。
 それが嬉しくて、安堵して、涙が止まって頬が緩んだ私を気味悪がって心底引いた顔をした二人組が部屋から出て鍵をかける音が聞こえた。
 それにしても、ただ死ななければいいのはわかっていても、それがとてつもなく難しい課題であることに今更頭を悩ませる。だってあの二人組は顔を隠してなかった。せめて顔を隠してくれていれば私は二人のことを誰にも話せないから殺されることはなかったかもしれないけど、顔を隠していないということは私が解放されるのは二人のことを誰にも話せない状態にしてからではないとその時は来ないということ。つまり、いわゆる、死人に口なし状態じゃないと解放してもらえない。結局私はただこの部屋で震えて待つしかできることはない。
 降谷さん、と魔法の呪文を口には出さずに心の中で呟く。震えがおさまった気がして、誘拐されてるというのにまた笑みが浮かんだ。

 涙は止まったものの頬を伝う雫が不快でぬぐいとろうと腕を持ち上げてようやく気付く。右手に手錠がかけられている。左手は自由で、だけど右手の手錠の先は頑丈そうなベッドのパイプ部分にかけられていてこのベッドの上からは動くこともできないということにようやく気付いて結局私にできるのはただじっとおとなしく待つことだけ。
 降谷さんにもらった腕時計は19時2分を指したまま固まってひび割れ壊れてしまっている。腕時計が外されていなかったことにはホッとしたけど時計の役割が果たせなくなったこれは、GPSの役割を果たせるんだろうかと眉を顰めてしまった。絶体絶命のピンチのくせに、本当に何もできない、わからない状況がとても歯痒い。
 蘭ちゃんなら、和葉ちゃんなら、園子ちゃんなら、
 哀ちゃんなら、こんな状況でも何か光を見出すことができるかもしれないのに。本当に何もできない。だけどやっぱり、それでも、私は降谷さんのそばにいたい。ずっと目を逸らしてきたけど、もう覚悟してしまうべきなんだろうか。だって、寝ても覚めても降谷さんに会いたくて泣いて、こんな目にあっても降谷さんを信じて気持ちが軽くなって、これが好きじゃなかったら、私はもう一生誰も好きになんてなれない。

 それでも降谷さんに伝えてまた「そうじゃない。神様扱いじゃなくて人間として」と言われたらどうしよう。私の精一杯の愛情表現がこうだった、で納得してもらえないだろうか。降谷さんに否定されたらどうしよう。降谷さんに否定されてしまったらこの話はまた振り出しに戻ってしまう。だって私は、降谷さんのことが大好きで、降谷さんを信用していて、降谷さんのやることなすこと全てが正解だと思っていて。
 ……でも、私の感情を決めるのは私にしかできないはずなのに。
 降谷さんが間違えるわけないと思って、だからこれは神様扱いだと思い込んでいた。だけどもしかして、最初から私はずっと降谷さんのことが好きだった? だって私の中で降谷さんの立ち位置は何も変わってない。降谷さんからそういう感情を向けられて困惑はしたし、泣いたし、逃げようとしたけど、でも、それが理由で降谷さんと離れて元の場所に帰りたいと思ったことはないし、降谷さんと同じ世界にいたいし、いつだって一番に思い浮かべるのは降谷さんのことで、そもそもそんな重たい感情を向ける友達はいないと気付くべきだった。降谷さんより素敵な人なんて、想像するのも難しい質問を振られた時点で気付くべきだった。気付くべきだったのは私だけじゃなく、降谷さんも。
 なんだかだんだん腹が立ってきた。だって私はずっと降谷さんが特別で、降谷さんが大好きで、私は何も変わってないのに降谷さんがそうじゃなくてって言うから。降谷さんが最初に友達だとカテゴライズしてきたのに、それを信じた瞬間急に梯子を外された私が混乱するのも仕方ないと思う。私が特殊すぎたのも悪いけど、この件に関しては降谷さんだって悪い、と怒らなきゃ。自分の気持ちもわからない馬鹿でごめんなさいと謝って、でも降谷さんだって間違ってたと怒って、許してもらって、許して、またふたりで笑いたい。
 降谷さんのところに帰らなきゃ。

「どうやって?」

 どうしようもない疑問が虚しく宙に消えた。

  ▽▽▽

 ぞくりと肌が粟立つ感覚に震えて、何もできなくなった私とはもう違うのよとかぶりを振る。大丈夫、私には二人のお姉ちゃんがいる。こわくない。と言えばうそだけど、もう怯えるだけの私じゃない。無茶はしない。でも、逃げもしない。
 そう思ってその忌々しい気配の先をこの目にうつそうと振り向いた瞬間、さっきまでの覚悟が一瞬で霧散しそうになった。

「おね、」

 えちゃん、と続きそうになった声をどうにかおさえる。
 お姉ちゃんが、連れ去られた。
 慌てて駆け寄りたかったけどこの小さな子どもの足じゃ、車になんか追いつける訳がなくせめてもの足掻きでナンバーだけでも混乱する頭に必死に叩きつける。必死に覚えたところであの忌々しい組織が使う車のナンバーなんて、なんの意味もないかもしれない。それでも必死で脳に刻みつけて、走り出した車を追いかけたい気持ちをおさえて反対側に走り出す。
 向かう先は、悔しいけれどあの男。

「お姉ちゃんが!」
「……──」

 ポアロの扉を勢いよく開いて叫ぶ。いなかったらどうしようなんて考えもしなかった。そんなこと頭になかった。お姉ちゃんのことしか頭になかった。早く助けなきゃ。早く伝えなきゃ。その想いだけで走って、ようやく辿り着いて、叫んで、汗だくになった体が瞬時に冷えて一瞬頭が真っ白になりそうになった。
 あの恐ろしい組織の気配と同じくらい、いやそれ以上に恐ろしい気配が刹那滲み出ていて固まる。

「すみません、緊急事態のようですので少し抜けさせていただきます」

 さっきのは幻だったのかと思うほどいつも通りの胡散臭い笑顔でのんびりと、だけど誰にも有無を言わせない不思議な表情は末恐ろしくて、私は今何に怯えているのかわからなくなる。

「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが、」
「落ち着いてください。あなただけが頼りなんですから落ち着いて、何があったか教えてください」

 優しく優しく尋ねられて、やっぱりさっきのは見間違いだったのかとホッとしそうになって心臓が縮む感覚に陥る。動揺を隠そうとしているのか握り込まれた拳は、怒りに震えているのか、恐怖に震えているのか私には判断がつかなかった。

  ▽▽▽

 説明をしている最中にも忙しそうに携帯を触りながら私の話を聞き終えて、震えの止まった手のひらでお疲れさまとありがとうを言いながら頭を撫でられて、そこから私は蚊帳の外。目撃者なのに、忙しなく指を動かす姿を横で何もできず見守るしかできない。
 電話がかかってきたのが画面内で表示されたことすらわからないくらい秒速で応答する姿に耳をすまして会話内容をどうにか聴こうとするけど聞こえるわけもなく焦るだけ。

「──……こちらにも有能な情報提供者がいまして。時計は、……ああ、安心しました、至急場所を送ってください。……わかってる」

 低くなる声に私の心がどうしようもなくはやる。安心しました、ってどういうこと。お姉ちゃんは無事なの。ねえ。
 そう聞きたいはずなのに、気持ちだけが先走って何も音にできない。そんな私を見て優しげな笑みが深まる姿が薄気味悪い。

「大丈夫です。場所はわかりました。すぐに連れ戻します」
「……お姉ちゃんを攫った人を、どうするの?」
「どうしましょうね」

 更に深まる笑みにゾッと恐怖に身震いする。怒ってる時は怒った表情をして、悲しいなら悲しんで、こわいならこわがって。感情とちぐはぐな表情に何も言えなくなる。あの時の方がまだマシだった。お姉ちゃんがお姉ちゃんじゃないのと、藁をもすがる気持ちであの時はまだ信用も何もしていなかった男に尋ねに行ったとき、その時はちゃんと悲しい表情が出来ていたのに。私に八つ当たりだって出来たじゃない。ちゃんと感情を表に出さなきゃ、壊れてしまうのに。

「……お姉ちゃんを、悲しませることだけはしないで」
「善処します」


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