▽▽▽

 ブー、ブー、と力強く握り締めて壊さないように気をつけていた携帯が静かに鳴る。後ろ暗い用の携帯だ。だからこそ握りしめていた。待っていた。

『よぉ、バーボン』
「ああ、あなたでしたか」

 自分でも驚くほどの朗らかな声が出た。

『機嫌が良いな?』
「ええ、とても」
『その機嫌の良さがいつまでも保つといいな』
「ふふ、そうですね」

 勝利を確信したように笑うクズにどんどん頭が冷えていく。
 組織が関わっているからジンにはついさっき連絡をしておいた。今回は小さなライバルが目撃者としてポアロに駆け込んだから安室として、探偵として行動すると。とても面倒そうに溜息をつかれたが、それでも勝手にしろと言われたのは、こいつらの行動はジンも把握していない勝手なそれだったことの現れだった。彼女が目撃してくれたおかげで、人目も憚らずにポアロに駆け込んでくれたおかげで、こうして正々堂々と正しく乗り込める。

『バーボンが最近ちょっかいかけてる女がいるだろ?』
「ええ、いますね。可愛くて可愛くて仕方がないんです」
『はははっ! その女を預かったって言ったら、お前は何を差し出す?』

 愉快そうに笑うクズに皮膚は冷え切っているのに心が爆発しそうになる。窓越しに見える笑んで揺れる姿を逃さぬようにじっと大人しく見つめる。まだだ。反対の耳から聞こえるヒロの声を拾う。まだだ。全員の配置が済んだ瞬間、ヒロが俺に許可を出す。

「そうですねえ、あなたの首はいかがです?」
『……、は?』

 許可が聞こえたのと同時に問いを投げかけ窓をブチ破る。手が血塗れになろうが、耳に当てたまま、強く握りしめた携帯が木っ端微塵になろうが構わない。最後に聞こえた間抜けな声と、窓が割れる音が二重に重なった。

「お迎えにあがりました」
「ひ、ッ」

 振り返る必要なんてない。俺の顔を見る必要も、対話する必要も、ましてや交渉する必要もない。
 ほんの少し私情が混ざって一発余分にお見舞いしてしまったのはあとで始末書を書く。

「あとひとり」

 この騒音に気付いてこの部屋に駆けつける足音が聞こえる。イヤカフでヒロが「あーあー風見さんの胃が可哀想」なんてボヤいた声が聞こえた気がするけど、聞こえないふりをした。

「おいっ、どうした、」
「こんばんは」

 慌てて入ってきた男ににっこり挨拶をしてから瞬きする間も与えない。

  ▽▽▽

 はやる気持ちをおさえながら道なりに扉を開けて彼女を探す。こわい。彼女が無事なのかどうか。生きているのかどうか。奇跡的にすぐに助けに来られたけど、やっぱり俺のそばは危なくて、あんなに帰らないでと懇願していたのに何かの手違いで平和な場所に、だなんて思考もよぎった。会えなくなるのは胸が張り裂けるほど悲しい。でも、それでも、どこかで幸せに生きてくれてるなら、こんな目に遭わないなら、それなら、それなら、
 心の中でもそう何度も決定的なことが言えなくて、エゴたっぷりの感情に最低だと自分を罵りたくなる。
 最後の扉。鍵がかかっている。ここだ。ここに、いるはず。
 鍵を開けて扉を開く。

 びく、と肩が揺れる彼女が見える。動いている。生きている。良かった。よかった。本当に。
 今回は完全にバーボンの、安室のせいとしか言いようがなくて、あなたのせいで、や、帰りたい、と彼女の口から放たれてしまうかもしれないナイフがこわくて一歩も歩けない。抱きしめたいのに、告白をしてしまった俺が抱き締めると彼女を怖がらせてしまう。友達なら素直に抱きしめられたのに。友達じゃ嫌だと自分から勝手に踏み出して、彼女を泣かせたくせに、友達の時にできたことができなくなって後悔しそうになる。
 好きだと伝えなければ、彼女が狙われることもなかったんだろうか。
 この世界だと、俺のせいで彼女はこれからもこんな目に遭ってしまうんだろうか。俺のせいで。
 緊張に強張って体育座りで俯いたままこちらを見なかった彼女が、扉が開いたきりなにも起きないことを不思議に思ったのか恐る恐るこちらを向いた。案の定、涙が通った跡がわかる頬が痛々しくてすぐにでも駆けつけて抱きしめたいのに、こんな目にあった原因でしかない俺がそばに行ってはいけない気がして固まったまま罪悪感に苛まれた瞳が彼女に捕まる。

「ひえ」

 驚きすぎたのか気の抜けた声。全てが愛らしくて、愛しくて、好きで、だからこそ、だからこそ、
 何度頑張ってもどうしても心の中でも諦めることができない感情に胸が苦しくなる。彼女の視線が下におりて、固まる。少し派手に暴れすぎたが、彼女を怯えさせるものは全て沈黙させてきたし、彼女が恐怖に揺れる瞳になってしまう存在はつまり、この原因を作ってしまった俺でしかなくて、唇を噛み締める。君の白馬の王子様になりたかった。でも、白馬の王子様が原因で危険な目に遭って助けられても、とんだマッチポンプだ。
 俯きそうになった瞬間、彼女が飛び跳ねるように起きてこちらへ向かってこようとして目を見開く。

「ウッ」

 勢いよく飛び起きたのに、勢いよく後ろへ引っ張り戻された彼女の呻き声に戸惑う。彼女の片腕は手錠に繋がれていて思ったように動けなかったらしい。寝心地が良さそうとは言えそうにないベッドに倒れ込んで腰掛けたままもう一度顔を上げた彼女は泣きそうな目をしていた。

「ふっ、あっ、バッ、……うう……! あの……! 今大丈夫ですか!」
「……好きなように呼んでくれ。もうあいつらはいない」

 今頃正々堂々と玄関から入った風見たちが後処理をしてくれている。でもやっぱり、バーボンのせいで誘拐されたと彼女は知ってしまっている。何を言われるんだろう。まるで死刑宣告でも待っているかのようだ。否定されるんだろうか、罵られるんだろうか、やっぱり帰りたいと請われるんだろうか。

「とにかくあの! こっち来てください! 私行けないので!」
「……わかった、ごめん」
「ばか!」
「ごめん」

 何を言われてもごめんとしか言えない。嘘でも帰してあげると言えなくてごめん。俺のせいでこんな目に遭わせてごめん。ごめん。ごめん。
 重たい足取りで近付いて彼女を見下ろす。血の気の引いた彼女を見つめることができなくて、俯く。
 だから、よく見えた。俯いていたせいで彼女の手が俺の手を躊躇なく掴んだのが、しっかりとこの目にうつった。びく、と今度は俺が情けなくも肩を揺らす。そんな俺に驚いたのかパッと手を離した彼女に落胆してしまう。驚かなければ手を繋いでいられたのに。自分で自分のチャンスすら潰してしまうなんて。

「ごめんなさい痛かったですよね」
「……何が?」
「何が、って、手、その、血まみれ、急に触っちゃって」
「…………あぁ」

 意気消沈して脳の回転があまりにも遅い。自分の手が真っ赤だったことなんて忘れてた。視界に入ってたはずなのに、彼女の手に包まれたということしか認識してなかった。彼女の言葉で怪我をしていたことを思い出して、彼女に触れられ離されたことを思い出して焦る。

「っ、悪い、手、俺の血が」
「エッなんで」

 慌ててハンカチを取り出して彼女についた血を拭う。

「まっ、エッ、あの待って! 私じゃなくて!」
「どこか怪我してないか? 無事か?」

 無事なわけがあるか。何を聞いているんだ。馬鹿じゃないのか。
 誘拐された時点で無事じゃない。ハンカチで彼女についた血を拭いたいのに、自分の手が血まみれなせいで触れば触るほど反対に血に汚れていってしまう。それでも拭いながら、彼女に外傷がないか確認していたのに唐突に目の前に星が散って固まる。
 なに、

「いっ……ごめんなさい、降谷さんが珍しく混乱してるから、その頭突きを、本当は手で止めたかったんですけど、力強くて離れなくて」

 俺の暴挙を止めるための頭突きで彼女の方がダメージを負っている。全然痛くはなかったがそうまでして俺を止めたがった彼女の意向を無視はできなくて固まったまま、彼女の動く口をじっと見つめる。もうどんなナイフが来ても大丈夫。嫌われても、泣かれても、それでも守るから。

「私、どこも怪我してないです。降谷さんの方が大怪我してます、だから私にそのハンカチ、貸してください」

 言われた通り、手を解放して彼女にハンカチを渡す。
 どこか怒った表情で、なのに、泣きそうで、それなのに俺の怪我を気にしてハンカチを巻きつけて拙いながらも止血してくれる姿を大人しくじっと見下ろす。

「……時計、壊れちゃったんですけどGPSは壊れてなかったんですね」
「……ああ。それに君の妹が現場を目撃してくれたおかげで早く動けた」
「哀ちゃんが……。よかった、哀ちゃんが巻き込まれなくて」
「何もよくない!」

 俺の怒号に彼女が跳ねる。彼女は何も悪くないのに。悪いのは俺なのに。

「……ごめんなさい、呆れましたか」
「違う、俺が、俺に呆れてるんだ。俺が君を好きだと言ったから、君がこの世界で狙われるようになってしまったのか? そうなら、これは俺のせいだ、ごめん」
「私、降谷さんのことが大好きなんです」
「違う、ごめん、そうじゃなくて、嬉しいよ、嬉しいけどそうじゃなくて、君が望んでいたただの友達ならこんな目に遭わなくて済んだかもしれない」
「降谷さんのばか」
「うん、俺は馬鹿だ、本当に馬鹿だ」
「……私のこと信じてくれない降谷さんは嫌いです」

 ひゅ、と喉が鳴る。小さな小さな声だったけれど、この距離でいれば耳に届く。とうとう嫌われてしまった。覚悟していたことだけど、こんなにもつらい。

「……私、本当に降谷さんのこと大好きなのに、降谷さんはいつも信じてくれない」
「信じてる。信じてるから俺は今、すごく幸せな環境なんだろう?」

 彼女はいつも自分の功績を誇らない。ふるふると頭を振って俺の感謝を否定する。
 大好きだと言いながら嫌いだと言う。ずきずき痛む心臓を無視してきっと彼女の最後通牒だろう言葉をちゃんと聞こうと覚悟する。

「……神様みたいは神様“みたい”で神様じゃないんです。神様のこと、怒ったりしません。嫌ったりなんて、もっとないです。だから降谷さんは私の神様じゃない」

 嫌いだけじゃ飽き足らず、神様ですらなくなってしまった。神様扱いをあんなにやめてくれと懇願していたのに、神様というポジションに一番あぐらをかいていたのは俺で、情けなくなる。告白したせいで友達でもなくなってしまって、告白したせいでこんな目に遭わせてしまって神様でもなくなった。

「降谷さんは私の好きな人なんです」

 知っている。だから君は俺を救ってくれたし、周りも救ってくれたし、たくさんの人を結果的に救った。でも神様でもなくなって、とうとう嫌われてしまった。

「最初から、最初からずっとそうでした。なのに降谷さんがそれは友達だとかそれは友達じゃないとか、色々言って私を混乱させるから……」

 意気消沈しすぎて混乱している頭ではどうにも咀嚼できていないだけなのか、それともちゃんと聞こうと思っているのは建前なだけで否定の言葉を聞きたくないから理解しようとなんてはなからしていないのか、とにかく彼女の言葉の意味がわからない。

「私も変な女で申し訳なかったなってここにいる間反省しましたけど、……やっぱり一番悪いの、降谷さんだと思います。降谷さんが勝手に決めつけて、勝手にやっぱり違うんだって梯子外して、……私はずっと降谷さんが特別で、大好きでって言ってたのに、……でも今は違います。私のこと信じてくれない降谷さんは、……ちょっと嫌い」

 なに、?
 ちょっとあの、嫌いって言うのやめてもらっていいか。考えようにもその言葉を聞いた瞬間頭が一瞬で真っ白になってしまう。頼むからその言葉なしでお願いしたい。

「ちょ、っと、まて」
「……まあでも降谷さんが私が最初から降谷さんのこと好きってちゃんと気付いてたら今まで降谷さんを好きだった人達と同じ扱いを受けてそっと知らないうちに遠ざけられて今みたいな距離感でいられなかったかもしれないですけど」

 さっきから紡がれる彼女の言葉は、つまり、だから、どういうことだ。

「たのむ、まって、まってくれ」

 馬鹿みたいに待ってを繰り返して頭の中を整理する。嫌いだと言われて冷え切った体が、どんどん期待に火照っていく。

「待ってくれ、お願いだから。待って。……君、変な薬盛られてないか?」
「……」

 初めて見るじっとりとした呆れた目で見つめられて目が泳ぐ。ごめん失礼なこと言って。でも君が俺を混乱させるから。無言の抗議に耐えきれなくなって、だけど何を口にすればいいのかわからなくて、はくはくと空気を震わせるだけ。なんて情けない。

「……あっ、薬は誘拐されるときに盛られてたっぽいです。起きるのが結構遅かったみたいで薬の分量間違えてうっかり殺したかと思ったって言われましたし……」

 ふと思い出したのか、あっけらかんと自分が殺されてたかもしれない事実を伝えてくる声にせっかく熱った体が一気に冷える。俺もうっかりもう百発くらい入れておくべきだった。

「でも別に今は頭もはっきりしてるし正気です。というか、最初から私、変わってないです。降谷さんのことが特別で、大事で、好きな人だって、ずっとずっと同じこと言ってますよね」
「……夢じゃ、ない?」

 小さな震えた声に彼女が困ったように微笑む。

「今更夢だったら困ります」
「……一緒の好き?」
「……降谷さんが私のことを特別で、大事で、好きな人だと思ってくれてるなら一緒、ウッ」
「ごめん」

 感情が抑えきれなくて彼女の体と頭を引き寄せて強く抱きしめる。俺は立っていて、彼女はぼろぼろのベッドに座ったままだったから、鼻を腹部に強打してしまったのか呻き声が聞こえた。ごめん。口に出したことと同じことを心の中で思いながら、なのに反省してるのかわからない強さで抱きしめ続ける。

「ふうあさん、」

 もごもごと腹部で俺の名を呼ぶ声に後頭部に置いていた手をずらして彼女の首から上だけを自由にする。

「ひえちかい真下からのアングルなのに美」
「……本当にいつまで経っても慣れないな」

 間近で見上げられ相変わらずな彼女に小さく笑う。気を取り直すようにふるふると頭を振ってちらりとまた俺の目を見て、口には出さなかったけど目がまた同じ雰囲気を出してて笑いそうになる。

「あの、私も抱きしめ返したいので、手錠、どうにかしてくれると助かります」
「……そうだな、ごめん」

 目の前のことにいっぱいいっぱいで目に入っていたはずなのに忘れていた。意図的に忘れようとしていたのかもしれない。ここの部屋に入ってくる前まで今度こそ嫌われ逃げられると思っていたから、物理的に逃げられない状況にこれ幸いとばかりに都合良く頭の隅に追いやっていたのかもしれない。君の幸せを自分がいない場所で願えない心の狭い男でごめん。ただ忘れていただけだと信じてくれている彼女に余計なことは言わない。
 彼女は「きらい」というたった3文字の呪文を覚えてしまった。好きだけど、ここは嫌い。そんな魔法の呪文を。神様じゃなくなった俺に容赦なくふってくるその言葉は今日限りの呪文にしてほしい。二度と、死ぬまで、死んでからだって聞きたくない。

「鍵要らずで本当すごいですね……」
「……引くな」
「引いてませんよ」
「好きか?」
「スっ、……好きですよ」
「大事?」
「大事です」
「……特別?」
「……、こういうことができる特別です」

 彼女の手が、解錠するために腰をかがめていた俺の頬にふわりと触れて固まる。同時に手が触れた反対の頬に、柔らかな感触。彼女の唇の感触。かちゃりと手錠が外れた音と、ぱきんとピンセットが手のひらの中で折れる音がした。

「……、」
「アッ待ってこれセクハラで逮捕されますか?! ごめんなさい! だって降谷さんが信じてくれないから!」
「なんで口じゃないんだ」
「ぐ、さすがにちょっと……あの……」
「……恋人なら口だろ」
「きゅ」
「……一緒の好きならもう、恋人だろ」

 真っ赤に茹だる彼女はいっぱいいっぱいで気付いていなさそうだけど、俺だって心臓を奏でる音が早すぎるし、耳だって異常に熱いし、いっぱいいっぱいだ。

「いじわるする降谷さんはきら、んむ」

 その言葉はもう聞きたくない。


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