「話」をする機会はすぐ訪れた。それもそうだ。だって逃げ場なんてないんだから。ここは船の中で、船は海の上。それに、責任を感じる必要のない自業自得でしかない怪我なのに彼は自分のせいだと思い込んでいて、優しいあの人はお見舞いに来てしまう。

「そんなにすぐおりたくなるほど、この船のこと、嫌いかい?」

 さっき飲んだ青くて美味しい飲み物とはまた別の甘くて美味しい飲み物を私に手渡して、少し離れた壁に背を預けて問われた言葉に首を振る。

「いいえ、……いいえ、嫌いじゃないけど、こわいの」
「きみを傷付けるやつはウチの船にいないよ。マリモがこわい? クソッあいつ……ごめんね、もっとちゃんと言い含めるから」

 見当違いなことを焦ったように紡ぐ唇から目をそらす。甘ったるいこの船でどろどろに溶かされて、陸に立ち上がれなくなる日が来るのがこわい。誰も私を傷付けないからこわい。海賊狩りだって、私を牽制するだけで実際には何もしてこない。不安になる。この船に立つ私はなんなのか。敵対していたはずなのに。庇ったって言ったって勝手に怪我しただけで、結局命を救われてる。恩なんて、ない。むしろ私が恩返しをしなくちゃいけない。だからさっさと下りなきゃ。この船の異物を排除する、それが一番の恩。
 そのはずなのに。

「本当にその、責任を感じないでほしいの。私は何もできてないし、あなたの船長さんに助けてもらった上にドクターに手当てまでしてもらって、きっとこれ以上美味しいものはないんだろうなと思うほど美味しい治療食まで用意されて、居場所のなくなった私を次の島まで乗せてまでくれてるのに、本当に、ここが嫌いとかじゃなくてその、もう十分すぎるほど甘やかしてもらってるの」
「居場所がないなら尚更、このままここにいればいいじゃねェか」

 ぽそりと落とされた言葉は、私に聞かせるつもりのある言葉だったんだろうか。それとも、都合の良いように聞こえた幻聴だったんだろうか。そう思ってしまうほどにか細い声で、私はそれを幻聴だと思うことにした。だって、そこまで優しくされる理由がない。

「……次の島までどれくらいかかるのかわからないけど、早く怪我も治して何かお手伝いできるようにするから」

 それまでは本当にただの穀潰しだけどお世話になります、と深く頭を下げた。
 やっぱりさっきの言葉は優しさにずぶずぶに溶けてしまったせいで聞こえるようになった幻聴だったようで、早くもこの船の優しさに毒されてることが恐ろしくなった。早くしないと、手遅れになってしまう。




────────

「どう? 話できてた?」
「盗み聞きはよくないわ」
「わかってるけど。わかってるけどぉ〜」
「出てきた顔色であなたもわかるでしょう? あれは全くできていないわ」
「あーもう似たもの同士ってほんとダメね。あっ、チョッパーいいところに!」
「なんだー?」
「あの子のリハビリ、キッチンまでの距離にしよ」
「ん? ああ、いいぞ! ちょうど往復で良い感じの距離だと思うし、サンジとも仲直りしてほしいしな」
「まあ、喧嘩じゃないけどね」
「でもおねえさんの気持ちとかが興奮すると体に悪いからドクターストップするかもしれないけど、それでもいいか?」
「うん、よろしくね」
「お医者様が見てくれるならこれほど心強いものはないわ」
「なっ、なんだよそんな照れるぜエッエッエッ」











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「よし! 順調だぞ! 食欲がなかったらスープでもいいんだけど、とりあえず今日からリハビリも兼ねてダイニングにメシ食べに行こうな!」

 血圧脈拍触診すべてを終えたお医者様がにこやかに、本当に嬉しそうに言うものだから素直に頷いてしまった。そしてそれを今、とても後悔している。そうだ、彼はこの船のコックだった。ならここは、彼のテリトリーなわけで。
 ぐるぐると頭を働かせすぎたようで、う、とフラつきそうになった。

「っ、レディ、大丈夫かい、やっぱりおれがそっちへ運んだほうが」
「だ、いじょうぶ」

 背中を見ていたはずなのに、いつの間にかふらついた私の腰を抱いて支えてくれるほどの距離にいる黒足に瞬きながら思わず彼の言葉を遮る勢いで声に出してしまった。そうしてほしい、そう言った方がきっと接触は少なかった。彼の負担を減らしたくて食い気味に否定したはずなのに、この場にとどまる方が彼の負担になってしまうことに気付いて、また後悔した。
 割れたガラスに触れるように繊細に、優しく触れた手が、私がしっかり立ったと気付いた瞬間そっと熱が離れた。だけどいつまた私がふらついても支えられるようにか、手はわずかに宙に浮いたままで自然とエスコートされている。

「柔らかいソファの方へどうぞ、プリンセス」

 とすん、と私が座ったのを見守って、腰を折る姿にどう返事をすればいいのかわからなくて視線が彷徨う。私が返事の言葉を考えあぐねているのも気にせず続けて食欲はありますか、と質問をされて少しだけ、とさっきの返事をできなかった代わりに早口に答えてまた口を閉ざす。
 気まずさに視線を俯かせている私を気にせず朝食の準備をしてくれるんだろう足音にぐるぐると脳を回転させても、ぐるぐるするだけで意味がない。
 こと、とまるで軽いものが置かれたような音に意識を戻せば、私の目の前に小さなテーブル。

「まずはリゾットくらいから慣らしていこう、ゆっくりでいいんだ。君を一番後回しにしてしまって申し訳ないんだけど、うちの船は少し……だいぶ騒がしいから、みんなの食事が終わってからじゃないとゆっくりできないと思って。……だから本当にゆっくり、君のペースで食べてくれ」

 優しく落とされた言葉と、テーブルの上に置かれた香りの良い料理にそれだけでもう胸がいっぱいになる。こくり、と頷いておずおずと両腕を持ち上げる。

「い、ただき、ます」
「はい、召し上がれ」

 飲み物もここに置いておくから、本当にゆっくりでいいよ、と彼は言い、洗い物を始めた。かつん、かちゃ、じゃー。私が立てるお皿とスプーンのぶつかる音がとてもうるさい。気を付けてるはずなのに、手が震えるのかたまに音が鳴る。洗い物をする水音で掻き消されてもいいはずなのに、なんだかとてもこの空間に響いている気がして。
 ちら、と顔を上げればたばこに火をつけずに咥えたまま洗い物をしている姿が目に入って、また視線を落とす。どうしよう。美味しい、という言葉を伝えた方がいいのだろうか。とても美味しい。量を少なめにしてくれているからということもあるけれど、あまり食欲もなかったのにぺろりと食べ切れてしまうだろうと確信できるほど美味しい。
 音を立てないように緊張しきっていたせいで本当にゆっくりになってしまっていて、まだ半分も減っていないけれどでも本当に美味しかった。

「……おれはね、一流のコックなんだよ」
「……おいしい」
「はは、ありがとう。だからね、頑張るよ、プリンセスの胃袋を掴めるように」

 驚いて顔を上げればきゅ、と栓を閉める音と、真っ直ぐな目。ふわりと微笑まれても私は何も返せなかった。











──────────

 船がどこかに停泊していたのがわかった。そして私にそれを隠していることも。きっと、この船の優しい人たちはまだ少し傷の癒えていない私を降ろすのが忍びなくて黙っていたんだろうと思っていたことが手に取るようにわかる。小さく笑って、少し傷に響いた。けれどふらついたりすることはなくなった。あの島でない限り、私は追われることもない。ただの一般人に紛れ込むことができる。走ったりは無理でも、普通に歩けるまでは回復した私を、これ以上船に置いている理由はないはずなのに。海賊のくせに優しすぎるちぐはぐな船員たちが変で、だからこそ胸がざわつく。

 元ボスに褒美としてもらった宝石が輝くネックレスは、きっといくばくかのお金になるはず。優しくしてもらった対価としては少ないかもしれないけれど、私が手元に持っている金目のものはこれしかなかった。それを清潔なベッドの上に置いて、誰も甲板にいないことを探って梯子を降りる。さすがに傷に厳しくしすぎたのか息が切れた。うずくまって傷口をそっとおさえて呼吸を整える。
 立ち上がって、深呼吸して足踏みを軽くする。よかった。歩ける。地面を踏みしめることができてホッとした。私はまだ優しさに溺れていない。地面に両足をつけて立つことができている。よかった。

「本当にありが、」
「ごめんよレディ」

 優しくしてくれた海賊船にお礼を紡いだ。はずだった。背後から声が聞こえて固まる。硬直した体は文字通り動けなくて振り向けないけど、黒足の声だということがわかる。どうして。きちんと確認した。あの優しい人たちの目を掻い潜り、どうにか抜け出した、はずだった。最後の最後に鉢合わせてしまった。失敗した。つめが甘かった。

「タイミングが悪かったとか、良かったとか、そんなんじゃないんだ。君が、自分の足で陸地に立つところまで見守ってた。みんなで」

 その言葉に一瞬で硬直が解けて、ばっ、と顔を上げれば心優しきドクターが声を殺して泣いていて、他の面々も呆れたような怒ったような、苦笑しているような、そんな表情で私を見下ろしていて目を見開く。どうして。誰もいなかったはず。いつも優しく騒がしいあの船が、静けさに包まれていたから。だから、今のうちだと。

「君は、良い人だ。自ら身を引いて、あんな置き土産まで、なら尚更俺たちは、俺は、怪我もまだ治りきってない君をここに置いていけない」

 ざり、と音がして無意識に後ずさったことに気付いた。走ったところで、逃げられない。いつの間にか目の前に回り込んでいた黒足から逃げようとした足をちらりと見た申し訳なさそうな笑顔が、胸を締め付ける。どうして。申し訳なく思うのは私の方。逃げたいのに、結局逃げられないのも私。これ以上迷惑をかけたくないのに。もう、ほぼ治っているのに。

「……せめて完治してから、鬼ごっこしよう?」

 完治しても、なぜか私を引き止めるつもりかのような言葉にヒュッと息を呑んだ。それと同時にいつかの時のようにいつの間にか腰を抱かれる。だけどいつかと違うのは、その手の力強さ。ぐ、と引き寄せられて、ふわり、と浮遊感。

「ごめんね、レディ」

 再度謝られて、気付いた時にはあんなに頑張って降りたはずの甲板にまた私は立っていて唇を噛む。

「おねえさんのばか!!!」

 ドッ、と重たい衝撃に噛み締めていた唇から血が滲んだ気がしたけどそんなことは些細なことで、私の首元に顔を埋めて泣き喚くトナカイさんに目を見開く。こんな衝撃、耐えられるはずもないのに私が同じ場所に立ってトナカイさんに抱きつかれたままなのは、私の腰を緩く抱いて支えてくれる黒足が側にひかえているから。

「まだ治ってねェのにあんな、あんな無茶して降りて!!」

 嗚咽を隠そうともせずに涙を流して私の首筋を熱い涙で濡らす姿に、私の手が所在なく浮く。どうすればいいのかわからなくて、だけど誰の助けも得られるはずもなく、視線も彷徨う。ばち、と目があったのは目だけで人が斬れそうな鋭さを持つ海賊狩りで息を呑む。
 わかってる、異物の私は、もっとうまく逃げ出すべきだった、?
 そう、反省する間もなく違和感を覚えて固まる。どうして。私は異物でしょう? あなたたちの、仲間ではない。なのにどうして。あの首が焼けるような殺気がどうして、ないの。

「救いようのねェバカが増えたな」

 呆れたようにため息をつかれて、背中を向けられた。どうして。立てなくなってしまう。
 こわい、と声にならない声が喉の奥に引っかかってぷつんと目の前が真っ暗になった。

2021/04/30