ゆるゆるとまぶたが開いてぼんやりと天井を見上げる。私に目覚ましは必要ない。ごりごりごり、と豆をひく音と食欲をそそる良い匂いでいつも目覚めのいい朝だから。ひくん、と鼻を動かして首を傾げた。今日はいつもの良い匂いがしない。ごりごりごり、と豆をひく音も聞こえない。おかしいな、と身を起こそうとして固まる。いつも私より先に起きているサンジくんが、すやすやと私の方を向いて寝ていた。さらさらの金色の髪がシーツに流れていて、朝の髭のお手入れがまだだから、ほんの少しちくちくと生まれたての毛が顎に生えていて、お口をむず痒らせながら、すぴ、と寝息を立てているサンジくんが横にいた。
 かわいい。かわいい。かわいい。
 かわいいに支配される脳内をぶんぶんと頭を振ることでどうにか立て直す。結婚十年目と数ヶ月にしてはじめて、はじめてサンジくんより先に起きれた。うれしい。新婚の頃はそりゃあもう努力した。サンジくんを喜ばせたい一心で、朝、おはよ、とハートを滲ませ寝ぼけ眼のサンジくんに(サンジくんよりはもちろん技術的に劣るけど、愛なら私だって負けない)朝ごはんを提供したくて。だけどついぞその機会はやってこなくて、拗ねようが悲しもうが、おれのかわいいかわいいハニーをこうして出迎える役目を取らないでよ、だなんて私の頼み事ならなんでも聞いてくれるサンジくんが珍しく頑なで、諦めてその役目を献上した。
 その、諦めた機会が、今、突然に、私の目の前に降ってきた。
 やったー!!と全力で叫びたいのを我慢して、寝ているサンジくんを起こさないようにそっとベッドからおりる。スリッパを履けばその足音でサンジくんを起こしてしまいそうで、裸足のままそろりそろりと扉を開けた。瞬間、ん゛ぅ、と唸り声が聞こえて固まる。ちら、と視線だけ寄越せばもぞもぞとサンジくんが体を丸めていて、またすぅと規則的な寝息が聞こえてきて安堵した。そろりそろりと物音を立てないように寝室から離れる。
 んひ、と笑い声が滲み出そうになるのを抑えて、サンジくんの城でもあるキッチンへ入る。朝だけはこの十年ひとりで足を踏み入れることのなかったキッチンに、今、私はたどりついた! 確かな満足感にくふくふと声が漏れそうになるのを頑張って抑えて冷蔵庫に手をかけた。けど、それを開く前に、ごみ箱に目が行く。綺麗に分別がされたそれ。壁にかけてあるカレンダーに目を通せば今日はゴミの日で、よし、と冷蔵庫の取手から手を離した。
 サンジくんはいつも前日の夜にゴミをまとめてくれていて、私はゴミ箱からそれを取り出してきゅ、と袋を縛るだけ。小さな子どもでもできる単なるおつかいだ。だけれどこの十年一度もすることのなかった作業に浮き足立って、頬が緩みに緩んでしまう。浮き足立つ足が音を立ててしまうことだけは注意して、がさごそと袋が擦れる音も極力出さないようにして、そして玄関に辿り着く。
 シューズラックから自分のサンダルを取ろうとして、やめた。綺麗に揃えられた大きなサンダルに視線が吸い込まれたから。頬を緩ませながら右足を滑らせる。ぶかぶかだ。だけどほんのちょっと、ゴミを捨てに行くだけ。私をハニーにしてくれたダーリンのサンダルで、ふたりのゴミをちょっとそこまで捨てに行くだけ。左足も滑らせてぶかぶかなそれで一歩を踏み出す。ぶかぶかだから、ぱか、と音が鳴ってしまって肝が冷える。緩んだ気を引き締めて、ゆっくりゆっくり鍵を回す。それでもかち、と音が鳴ってしまうのは仕方がなくて心の中でため息をつく。でもここまで来たらもう大丈夫。
 あとは扉を開けて、ちょっとそこまでゴミを捨ててくるだけ。音を立てないようにゆっくり扉を開けて、晴れやかな空に目を細めながらゆっくり扉を閉める。ふふふ、ととうとう笑い声が滲み出た。だけどもう外だから大丈夫。
 ゴミ袋片手に陽気に鼻歌を紡ぎながら、ぱかぱかとぶかぶかなサンダルで足音を鳴らした。

  ▼▼▼

 玄関が近付く程に足音を潜め、ゆっくりゆっくり扉を開けた瞬間、バタン、ドタン、ウワッ、と大きな音が部屋の中からして驚いて固まる。転がるように寝室から飛び出てきたサンダルの持ち主に、むす、と唇を尖らせてしまった。起きちゃった。子どもでもできるおつかいしかまだ済んでいないのに。
 いてェ!と足をぶつけてしまったのか長い足をさすりながらサンジくんが所々跳ねたさらさらの髪を揺らしてきょろきょろして、玄関の扉がパタンと閉まる音で私の方を向く。タレ目なのがわからなくなるくらいギョッと目を大きく丸くさせたサンジくんに、おはよ、と声をかけた。

「どっどっどっどこ行ってたの!? アッおはよう! 今日もかわ……そんな可愛い格好でどこ行ってたの?!」

 寝起きで掠れた声がとっても色っぽいのに、滝のように騒がしい言葉に思わず笑う。結婚して十年目にしてはじめての姿なサンジくん。
 あわあわと這うようにして私に近付くサンジくんに微笑む。それにしても、可愛い格好ってなんのこと。まだ私はゴミを捨てに行っただけ。おそろいのパジャマを身につけてるだけで、特に飾り立てたつもりはない。

「あわわわ、それ、その、ギャッおれのサンダル! ぶかぶか! かわいい! ちげェ! 違うこたァねェかわいい! かわいいけど! どこ行ってたの……?!」

 しゅん、とチャームポイントの眉毛も、大きく見開いた目もしょんぼり垂れ下がる。かわいい。小さく笑って腕を伸ばす。言葉を使わなくても通じるくらい何度も繰り返した行為は自然に染み付いていて、寝ぼけて慌てまくっていても私をひょいと抱き上げたサンジくんに頬が緩みっぱなしになる。きゅ、と首元に腕を回して頬擦りをすればいつもよりどこかちくちくした髭にんふふと笑い声が溢れた。ぶかぶかなサンダルは抱き上げられた拍子に簡単に脱げ落ちて、自然にお姫様抱っこにされた足がぷらりと揺れる。

「どこ行ってたの……」
「ゴミ捨て」
「ヒッなんでレディがそんなこと」

 ヒッ、て。
 私はそんなサンジくんが恐ろしがるようなことをしただろうか。簡単な作業だった。だって私は袋を縛っただけだもの。

「すっごく楽しかった」
「な、な、なにが?」

 まだ狼狽してるサンジくんの髭から頬を離して目を合わせる。本当に不思議そうに混乱しているサンジくんの目を覗き込んで、おはようのキス。たったそれだけで、ボンッ、とまるで発火でもしそうなほど真っ赤になったサンジくんに気分が良くなる。
 いつまで経っても、毎日毎日私をかわいいと言ってくれて、お姫様のように扱ってくれて、減ることなんて当然ない、むしろ増えていく愛情は身に染みて理解してる。だけど、私のことをお姫様だと思ってくれているように、私にとってサンジくんも王子様で、私だってサンジくんにたくさんの愛情をおくりたい。

「サンジくんより先に起きれて、私たちふたりが出したゴミを捨てに行くの、すっごく楽しかった。本当は朝ごはんも作って、珈琲も淹れてあげたかったの。なのにゴミ出しだけで見つかっちゃった。サンジくんのことだけ考えて、サンジくんのために過ごす朝ってすっごくすっごく楽しい。ずるい、サンジくん、いつもひとりでこんなに楽しいことしてたの? たまには私に譲ってよ」

 真っ赤に染まった顔でぱくぱく口を開けたり閉じたりしてるから金魚みたいで可愛らしくて思わずもう一度唇を奪う。

「まっ、まって、レディ、ちょっとまって、しあわせすぎて死にそうだから待って」

 ちゅ、と口を離せばひっくり返った上に上擦った声で呟かれて、まなじりを下げる。かわいい。好き。諦めずに頑張ればよかったなあ。そしたらもっと早くこの顔が見られたんだろうか。惜しいことをした。だけどこれからまだまだチャンスはたくさんある。これからは諦めない。サンジくんがどれだけ役目を取らないでと言おうが、こんなに楽しい朝をずっと独り占めしていたサンジくんの言うことなんか聞いてあげない。

「美味しい朝ごはんの匂いとごりごり珈琲の豆をひいてる音で起きて、おはよう、って言われる側もすっごく幸せなんだよ。ね、たまには譲ってくれる?」

 鼻血出そう、と呻くサンジくんが天を仰いで喉を震わす。大袈裟なんかじゃなくたまに流れるその血を耐えているのを眺めて、お願い、と擦り寄る。どうにか耐え切ったのかゆるゆると顎を引いて目が合って、恥ずかしそうにはにかむ姿に私も微笑む。

「レディには一生叶う気しねェや」

 否定されなかったことにやった、と喜ぼうとした瞬間、でも、と言葉が続く気配に首を傾げる。

「ゴミ出しは二度としちゃダメ。その可愛い格好を見ても良いのは結婚したおれだけの特権なのに、そこらのヤロウに見られたかもしれねェって思うと悔しくてたまんねェからさ、……」

 悔しさを滲ませた言葉を切り替えて、わかってくれますか、プリンセス、と恭しく紡がれる。ヤキモチを妬くプリンスの言葉に、今度は私の頬がほんの少しだけ赤くなった気がした。

2021/07/29