「あんなこと言っても連絡しないと思ってたんでしょう」
「な、なみ先生」
仕事の携帯に電話をかけるのは時間外労働を強いている気持ちになってしまってつい足が動いた。まるでストーカーのようだ。現に彼女もものすごく驚いていて固まっている。
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
「私は仕事とプライベートはきっちり分けるんです」
はい、存じております、と無駄に丁寧に頷かれて私も頷く。
「なので仕事中にプライベートの話をするのはいかがなものかと思いまして。仕事が終わったアナタと話したかったものでこうしてうかがいました」
「……な、何を話しましょう……」
何を、と改めて聞かれると私も困ってしまう。尊敬はしないが信頼はできるあの人ならば延々とくだらない話でもして女性を楽しませることができるのだろうけど、私には残念ながらそんな引き出しはない。
「困ったことはありませんか」
仕事とプライベートは分けると言ったくせに結局話題に困ってこれだ。見た感じ全く困ってなさそうだからただ戸惑わせてしまっただけ。もしかすると疑われてしまっているのかもしれない。ツボを売りつけられるとか。考えれば考えるほど古い知り合いに急に連絡を取りたがるだなんて怪しさ満点でしかない。
「すみません、怪しい誘いではないです。話がしたいと押しかけたくせに、話の引き出しが少なすぎて」
「……ふふふ」
さてどうすれば誤解を解くことができてなおかつ話ができるだろうかと思考を巡らせていれば唐突に笑い出した彼女に目を見開く。
「大丈夫ですよ。七海先生のこと、そんなふうに疑ったことなんてないです」
「それはそれでどうかと思いますよ」
「私もあの会社で働いてたおかげで人間の感情の機微くらいはわかります」
確かに、そう言われればそれもそうなのかもしれないけれど、と言葉に詰まる。売り上げをただ上げるより、あの中途半端な成績を保つほうがそういう技術は要求されるだろうし心配なんて余計な世話だったかもしれない。それでも、人の恨みつらみは人がコントロールできるものではないことを私はよく知っている。
「それに、もし困ったことがあれば七海先生がなんとかしてくださるんでしょう? 私、怖いもの無しですね」
「……私にできることであればなんとかしますが、私こそあの会社で働いていたんですよ、わかっていますか?」
「七海先生は誠意を持って働いていましたから」
にっこりと微笑まれてまた向こうのペースに陥ってしまう。悪人を相手にするより、こういう、善人を相手にする方がどう捉えれば良いのかわからなくてやりにくい。
「……アナタは、騙されやすそうですね」
「えっいや、そんなことはないと思いたいのですが」
「いくら元同僚とはいえ、連絡先を聞くまではテコでも動かない男に名刺を渡したり、後日その男が会社にまでやってきて待ち伏せしていたら通報してもいいと思いますよ。怖いでしょう」
言いながら自覚する。私が女性だったら怖いと思うことをしてしまった。ここからどう普通の友人に持っていけばいいのかわからない。
「私、人を見る目はあるんです」
「人を見る目がある人があの会社で働くとは思いません」
「ふふふ。まあ、あの会社は確かにアレでしたね」
お互い辞めた身とはいえ笑いながら言うことではないと思う。
「……これ、私のプライベートの連絡先です」
「またアナタは、こんなふうに会社の前で待ち伏せする男にこんな……危機感というものはないんですか」
「七海先生に危機を感じることはないですから」
相変わらず話題が浮かばない私が突っ立ったままなのを見かねてか小さな付箋を取り出したかと思えばさらりと見た目通りの筆跡を残したそれを手渡してきて逡巡する。鴨がネギを背負ってきたのか、自ら罠にかかる獲物のような行動に複雑な気持ちになる。私だからいいがこれが他の男ならこの人は本当にカモネギ状態だ。
「じゃあ私以外にこういう風にされたらどうするんですか」
「こんなことする人そうそういないと思いますけど」
「……この光景を見て、身の程知らずの人間がアナタに近付いたらどうするんです」
今の様子をはたから見れば、恋人でもない、なんなら連絡先も知らない男に待ち伏せされて、押し負けている光景だ。これを見て、なるほどこの女性は押せばいいのか、だなんて悪人に寄ってこられたらどうするつもりでいるのか心配になる。
「七海先生以外にこういうことする人がいたらこれ、鳴らしますので」
「これ、」
かばんについていたパスケースだと思い込んでいたそれはどうやら防犯ブザーのようで、一応の意識にとりあえずほっとする。
「七海先生だから、……まあものすごく驚きはしましたけど、七海先生だから信用してるんですよ」
「私、アナタにそんな信用してもらえるほどアナタと会話したことないですよね」
「そうですね。でもわかるんです。七海先生はいい人だって」
まっすぐに目を射られてまるで呪術をかけられたかのように固まりそうになる。そんなこと、そこら中にうようよいるあれやそれやにすら気付いていない彼女にできるわけがないのに。
「……アナタは本当に意味がわからない人ですね」
「七海先生の方がミステリアスですよ。私のことばかり話しましたけど、七海先生こそ今は何をなさってるんですか? この前の子を見る限り……家庭教師とか!」
結局は彼女の言った通り、先生と呼ばれる身になってしまった。
「ええまあ、そのようなものです」
「いいなあ。七海先生すごいわかりやすく教えてくれるし優しいだろうしきちんと叱ってくれるだろうし、そんな先生に出会えてあの子は幸せですね」
「……さあ、どうでしょうね。そんなことよりずっと立ち話に付き合わせてすみませんね。送っていきますよ」
言ってからはたと気付く。この人に対して失言ばかりしてしまう。
「……すみません。踏み込みすぎましたね」
「?」
なのにこの人は、私の失言にも気付かない。なぜか私に対する信用がすごい彼女に呆れてため息をつく。私以外にこんなことをされたら防犯意識が働くと言うが、それだって本当かわからない。全員にこんなことを言っているとは思わないが、自分が好意を抱いている人間相手には同じようなことをしているのかもしれない。その人がいい人だと思っていても、腹の底は誰にもわからないのに。
「すみません、なんでもありません。送ります」
「でも、」
「家の場所を知られるのが嫌なら送りません、が、そうじゃないなら送らせてください。その方がもう少し話もできます」
小さく早口に漏れ出てしまった言葉がはっきり耳に届いたのか、気持ち悪がられると思って唇を引き締めたのに彼女は照れくさそうな表情をうかべていて、……サラリーマン時代から私はこの人に振り回されてばかりだ。
2020/11/21