オトメ・ゴコロ

次のコンクールに申し込みを済ませた私は、ピアノの練習に勤しんでいた。
この間と同じ主催者のコンクールのため、今回もまた超技巧と言われる曲を選択した。
毎日指が吹き飛んでしまうのではと思うぐらい繊細で細かい動き反復して練習しているので、いつも以上に体力が消費されていた。窓の外を見るとすっかり藍色に変わっている。
さっきまで日が差し込んでいたのに……そういえばお腹がすいた。
私は練習室を出るとキッチンへと向かった。父は仕事で遅くなり、母は飲み会があると言っていたので1人で夕食をとらなければならない。
冷蔵庫を開け、並んでいる食材に目を通したがどれもピンとこなかった。
何時間も缶詰め状態でピアノと向き合っていた私はいつも以上に糖分を欲していたのだ。



「おいしいー!!」

気が付いた時には『fonte chocolat』にいた。お気に入りのチーズケーキを頬張ると疲労感が一気に吹き飛んでいく気がした。
やはり甘いものは正義だ。おじさんの作るケーキは天才だ。おいしすぎて比喩表現ではなく、本当に頬が落ちてしまうのではないかと心配になり、思わず両手で抑えこんだ。
看板はClosedになっているので、実質私の貸し切りだ。

「沙也ちゃん、今度は何の曲を弾くんですか?」
「ラヴェルの水の戯れです。すごく指を動かすから、今は手を慣らすのに精いっぱいで……」
「それでそんなに疲れてたんですね」

おじさんは笑いながらロールスクリーンを降ろしていく。最後の一口のケーキを頬張ったと同時にスマートフォンがメッセージの通知を知らせた。文香からだった。
『心配かけてごめんね。明日は学校に行けそうです』

活動を自粛していると言われて少し経った頃、一織の言う通りIDOLiSH7は活動を再開した。その後新曲もリリースされ、大雨の中路上ライブを行ったらしく、最初から最後までいた文香は見事に風邪をひいてしまったのだ。
「ナギさんがかっこよかったからいいの……」と電話で弱弱しく、けどそれ以上に幸せそうに囁く声を聞いた時、鏡越しに映った私の顔はどことなく一織の表情に似ていた。

「おじさん、IDOLiSH7の新曲、聴きました?」
「はい。今回も元気になれる、素敵な曲ですね」
「IDOLiSH7って感じの曲ですよね!みっちゃんも一織も、歌がうまくなってた気がする!」
「ええ。私もそう思います」

先日、小鳥遊さんからおじさんのもとへ新曲のCDが届いた。そこには丁寧な可愛らしい字で「こちらは沙也さんにお渡しください」と書かれたメモが同封されており、1枚多くCDが入っていたそうだ。
小鳥遊さん、本当にいい人……。細やかな気配りに頭が上がらず、好感度が止まる事を知らない。今度会ったら直接お礼を伝えよう。

「みっちゃん、元気かな……」

ぽつりと、無意識に言葉が漏れた。
一織とは教室で顔を合わせているけれど、みっちゃんはピアノのコンクールを最後に会えていない。
少し前まで毎日会えていたのにな……と考えるととても寂しくなった。出来るだけ考えないようにしていたのに、空白の時間が出来るとすぐこれだ。

「電話してみたらどうですか」

おじさんがチョコレートマドレーヌを差し出して言った。
にっこりと穏やかな微笑みを浮かべて、私を見下ろしている。

「三月も同じ事を考えていると思います。沙也ちゃんは三月にとっても家族も同然ですから」
「そうかな。でも、忙しいかもとか思ったらかけていいのかって悩んじゃって……」
「大丈夫。沙也ちゃんからの電話だったら忙しくても、絶対に時間を作って掛けなおしてくれますよ」

「お父さんとお母さんにどうぞ」と言い残し、おじさんは空になったお皿とフォークを下げて調理場へと姿を消した。
私はマドレーヌの入った袋を握りしめて、調理場へと「ごちそうさまでした!」と声をかけると店を後にした。
藍色の空に調度7つ星が浮かんでいた。左から3番目の星が一番強く、キラキラと輝いている。

1コール、2コール。
みっちゃんへと発信されている電話はまだつながらない。
心臓の音がコール音に負けじと大きくなっていく。不安になって思わず目を閉じた。
無機質な機械音に重なり、鼓動の音が反響した。



「……もしもし?沙也?」

コール音が止んだ。代わりに飛び込んできた声に驚いて思わず目を見開いた。
藍色に浮かぶ星が増えている。先ほど見つめていた星はもうどれだかわからなくなっていた。

「……一織?」

声の主は私が思っていた人ではなかった。
幼馴染のもう1人。ほぼ毎日顔を合わせている和泉一織だった。
拍子抜けして思わず近くの電柱に寄りかかった。
みっちゃんじゃなかった。なんでみっちゃんの携帯に一織が出るんだろう。

「兄さん、今酔っていて電話できそうになかったので代わりに私が。どうかしましたか?」
「酔う……?」
「明日オフなので、夕飯でお酒を飲んでいるんです。だいぶ出来上がっているので急ぎじゃなければまた明日折り返すように伝えておきます」
「別に急ぎじゃ……」

耳をすませば電話の向こう側は大分に賑やかだった。笑い声が反響していて、その中にみっちゃんの声が混じっていた。「イチ誰と話してんの?彼女?」と楽し気に探りを入れる声が聞こえ、すかさず一織が「違います!」と全否定する。今が電話のタイミングではなかった事は明白だった。

「もしもし!?一織の彼女ですか!?オレ、兄の三月でーす!!」

一織だと思っていたのに、突然聞きたかった電話の主が割って入った。どうやらハンズフリーにしたようで、先ほどよりも色々な声が重なって私の耳をツンと貫いた。

「みっちゃん、私だよ!」
「ん?沙也?おまえたちいつ付き合ったんだー?」
「付き合ってない!!!!」

私と一織の声が電話越しに見事にハモった。「すごい!息ぴったりだね!」と言ったのはたぶんセンターの七瀬さんだと思われる。目の前にいたら睨み付けてその口を塞いでやりたい。(もちろん過激な比喩表現である。誤解しないでいただきたい)

「沙也ー、おまえ何してるんだよー」
「何って……ピアノの練習だよ?」
「嘘つけ!おまえの事だからきっとまたケーキ食いに行ってたんだろー?あんま食い過ぎんなよー?」

すごい。酔っ払っているというのに私の行動は見事に筒抜けである。
隠しカメラでもついているのではないかと思わず辺りを見回したが、散歩中の犬と目が合っただけだった。

「次こそコンクール優勝しろよ!また見に行くからな!」

みっちゃんの強くはっきりと、明るい激励が届いた。
その声は酔っ払っているとは思えないほど、いつも通りのみっちゃんだった。
背筋がまっすぐに伸びた。先ほど光っていた星も見つけた。
あの煌めきはさっき見た光と同じに違いない。

「次は全員で行くぞー!」と、みっちゃんの声が遠くで響いていた。賑やかな声が散らばっていき、一織の声がまた戻ってくる。

「だそうですよ、沙也。次はもうあんなボロボロに泣いてられませんね」
「……うん!!!ありがとう、一織!みっちゃんにも伝えて!!」

通話を終えると、さっきよりも星が強く煌めいてみえた。
電話してよかった。タイミングは完全に間違えていたけれど、こんなに嬉しい激励をもらえるとは思ってなかった。

「よーし!もうちょっと頑張ろう!」

自宅に戻り、再びピアノに向かい合う。
疲労困憊で限界だと思っていた指先は驚くほどに軽やかに動いた。
みっちゃんの声を反芻するだけで、驚くほどに心が満たされていくのがわかる。

「また見に来るんだって……」

練習室に飛び切り浮かれた独り言がふわふわと流れる。
完全なる乙女モードの私は周りの事がいつも以上に見えなくなり、スマートフォンに光る着信に気が付かないまま、夜を明かすのだった。