ゆるやかな喪失

開封したての真新しいTシャツにマフラータオル。指先はいつもと違い、文香がピンクオレンジとネイビーのポリッシュで色づけてくれていた。人生で初めてペンライトを買った。メンバーカラーを灯すそれは言葉に出来なくても、離れていても、本人に思いを届けてくれる。

今日は待ちに待ったIDOLiSH7の野外ライブ。文香と私はみっちゃんが用意してくれた特等席に座り、始まりの瞬間を今か今かと待ちわびていた。
周りには大勢の人たちがいた。ライブTシャツを着ている人。メッセージ付きの団扇を持っている人。メンバーカラーを主張するコーディネートでまとめている人。本当にたくさんの人がいて、全員を確認する事など容易ではない事は一目瞭然だった。

「すごいよね」

辺りを見回していた私に文香が話しかけた。

「前はあんなにガラガラだったのに、今日は満員だもんね」

私はかぶりを振った。初めて文香と一緒に来た会場もここだったはずだ。本当に同じ場所にいるのだろうか。まるで初めて訪れたと思えるほどここは異世界だった。
耳には聞きなれた単語が何度も入ってきた。私が知らない人が私の幼馴染たちの名前を当たり前かのように、さも前から知っていたように呼ぶ。とても楽しそうな表情で「和泉兄が、」「一織くんの、」「和泉兄弟は、」「三月くんがね、」と口々に。
複雑な感情だ。
嬉しいような、寂しいような、むず痒いような――……こういう気持ちは何て表せばいいんだろう。今、目の前にピアノがあったらよかったのに。私は言葉より音で表現する方が性に合っている気がする。

「早く始まらないかなあー!私は路上ライブも行った事ないから、IDOLiSH7を観るのは本当にあの日以来だよ!コーレス?だっけ?そういうのってIDOLiSH7はあるの?っていうかこういうの、もっと早く聞いておくべきだったわー。ねえ文香、始まる前に教え……」
「沙也さ、」

黄色に光るペンライトが目の前にきたものだから、半ば強引に口を噤まれた。彼女のイヤリングが小さく揺れた音がした。チャリンと、小さい高音が私の心臓の音と重なる。

「そんなにレッスンうまくいってない?」
「…………はい」
「やっぱりね。沙也の空回り具合、最近異常だもん」

親友に隠し事は出来ないらしい。無意識に深いため息が零れた。本当に零れたという表現がドンピシャなくらい、出すつもりはなかったけれど重く長いものが出てしまった。

「……正直言うと、大分苦戦してマス」
「次の曲難しいんだっけ?」
「うん。めちゃくちゃ難しい。全然思った感じに弾けないの。どうしても荒々しいというか、力強いというか……とにかく思った通りに表現できないんだ」

自分の指なのにそれぞれが自我を持っている別の生き物のように思えた。「こんな弱弱しくやってられるか!」と指示を拒むモンスターが10匹手に宿っている。

「この間聞かせてもらった時はそんな風に思えなかったけどね。ダイナミックだったよ!」
「うん……そのダイナミックがいきすぎてるというか……それだけじゃだめなんだ」

今回の曲は今までで一番苦手かもしれない。儚げで、繊細に、煌びやかに、しなやかに――そんな綺麗な単語が羅列するような曲なのに、時に大胆に迫力をつけて盛り上がる小節が登場する。そのギャップをうまく表現することが出来ず、私は毎日思い悩んでいた。
「あなたのガサツな性格がそのまま現れちゃってるのよ」と私よりガサツだと思っていた先生に言われてしまった。今思うだけでも悔しくて腹の底がモヤモヤする。(先生も私も大雑把な性格だった。同族嫌悪とまではいかずとも、私達は衝突することが多かった)

「正直かなり焦ってる……みっちゃんはこんなにたくさんの人たちが応援するまでのアイドルになったのに、私はいつまでも二の足踏んで……」
「沙也!ストップストップ!ネガってる!今いるここはどこ!?沙也は何を見に来たんだっけ?」
「私達は今……」


黄色の割れるような歓声が耳を貫いた。
ステージにぼんやりと浮かぶ7つのシルエットが見える。
ライトが弾けるように照らされ、それを合図に次々に彼らが顔を上げる。
みっちゃんも一織も私を見ていなかった。遠くの、より多くの人たちに微笑みと視線を送っていた。

流れる音楽に合わせてステップを踏んで、歌声がマイク越しに高らかと響く。
個々で特徴も違うそれぞれの音をしているはずなのに、重なるとまるで最初から1つだったかのようにまとまり輝かしい音色になった。

その音色は色づいていた。7色に輝いてみんなの元へと届いていた。
前のライブよりもたくさんの人がいて、たくさんのペンライトや照明に照らされているはずなのに、IDOLiSH7が放つ光は前にもまして強くなっていて、とても眩しく映った。

「沙也!雨降ってきたよ!レインコート着ないと!」
「ううん、いい。っていうか忘れたし」
「ええ!?」

彼らの歌声は息切れも伴い始め、浅い深いを交互に繰り返してく。苦しい、でも楽しいという感情が入り混じっている。ステップを踏む音は雨のせいで最初の頃より鋭く高くなっていた。観客のコールレスポンスもばらばらだったものが1つに纏まっていく。
辺りを打つ雨音と風音は強さを増していくけど、彼らの生み出す音はそれに劣る事はなかった。

文香が耳打ちをしてくれても、私は視線をそちらに向けなかった。
一瞬でも彼らから目を逸らすのが惜しかった。どんな瞬間も見逃したくなかった。

悔しいな。こんな気持ちになるなんて。
最初はみっちゃんと一織がいるグループだから応援しようと思っていたのに、気づけば”IDOLiSH7”に魅せられている私がいる。

私達は今、彼らの世界にいる。
彼らの作り上げた空間に沈んでいく。
彼らはとても近いようでいて、とても―――……










「一号、おはよー」
「おはよう」
「どうしたん?風邪?」

ズッ、と鼻をすすったので挨拶で終わるはずの会話が繋がった。
四葉くんは満足げな表情をしていると思ったが、思ったより表情は晴れていなかった。少し不満がありそうな、そんな顔だった。

「ライブすごかった。ありがとう」
「それはこっちのセリフ。塚っちと来てただろ。手振ったの見えた?」
「見えた。超嬉しかった!」
「じゃあもっと嬉しそうなリアクションしろよ!一号棒立ちだったのちゃんと見てんだからな!」

私が大したリアクションをしなかったので「……まあいいや。お大事にー」と言い捨て、四葉くんは自分の席へ向かった。鼻水が出るせいで頭が重く痛い。鼻をかんだら少し楽になったので、反射的に瞼が下りた。脳裏に浮かぶのは食い入るように見て焼き付けた、IDOLiSH7の姿だ。

あの雨に感謝しなくては。きっと余計なものを洗い流してくれたんだ。
肩がとても軽くなった気がした。
今なら前よりいい曲が弾ける気がする。


痺れを切らした私は昼休みになりすぐに音楽室へと移動した。
凛として佇むピアノも、今は私を待ち構えていたように思えた。

雨の雫が彼らの動きに合わせて小さく華やかに舞っていた。
その1つ1つの輝きを、散り方を、水しぶきがうねる軌跡も、鮮明に覚えている。

「あの光景を音に乗せたい」「乗せようよ」「すっごく綺麗だったじゃん!」
まるでそんな事を言っているかのように、10匹のモンスターがやっと私の望むように動いている。

荒々しさが消えた。好き勝手やっていた自己中心的な演奏ではなくなった。
なんだかとても心地よい。このままいくらでも弾けそうな気がする。
まるで昨日のライブみたい。まるで彼らの世界に沈んでいるみたい。


IDOLiSH7、すごかったな。彼らがいるだけで空気が柔らかく、明るくなるんだもの。
雨風がすごく冷たく寒さを感じてもおかしくないのに、あの空間は驚くほどに暖かかった。

みんなが揃って笑顔を浮かべてた。
IDOLiSH7も、観客の人たちも、心の底から楽しい!と言っているように見えた。
それはみっちゃんも、一織も――……










「沙也!」

気が付けば目の前に一織がいて、私はベッドの中にいた。真上を見上げると白い天井が広がっている。ここが保健室だという事に気づいたのは、意識が鮮明になった後日の事だった。

「あなたバカですか?なんで昼飯も食べずにピアノ弾いてるんです?風邪もひいてるし自己管理がなってないにもほどがあるでしょう!」
「一織……?」
「ほら、早く熱を測ってください。その様子なら確実に微熱以上はありそうですけど」
「一織だ……」
「体温計を持って!私の事は呼ばなくていいから早く熱を……」
「いおりが、いる……」
「……沙也?」


余談だけど、この時の私は一織の予想通り39℃近くの熱があった。
意識が朦朧としていたから何を口走ったのかはよく覚えていないけど、頭の中がライブの光景で埋め尽くされていた事だけは確かだと思う。

私は昨日、彼らの世界にいた。
彼らの作り上げた空間に沈んでいった。
彼らはとても近いようでいて、私にはとても――……



「遠くに……いかないで…………」



夢の中で私はすがるように一織の袖を掴んで弱音を吐いた。
彼らの背中を押す私が、その背中を追いかける私が、決して言ってはいけない、呆れるほど情けない本音を零した。

「バカですね。そんな心配をして……私はここにいるでしょう?」とでも言って笑ってくれればいいのに一織は何も言わず、悲しそうな瞳でこちらを見つめていた。
夢の中ぐらい優しく私の望む通りに動いてくれたっていいのに。
でもそれはそれで、一織らしいかも。

「……ごめんなさい、沙也」

一織は私の手を握ってくれた。
その体温が温かくて、その行動が嬉しくて、何より近くに一織がいるって事に安堵して、そのまま深く暖かいまどろみの中へ沈んでいった。