振り翳す純潔

時は遡り、野外ライブが決定する少し前――IDOLiSH7は寮で夕食をとっていた。
二階堂大和が缶ビールのプルタブを起こし、「ミツも付き合えよ」と差しだす。誘いを受けた和泉三月はそれを受け取る事にした。久しぶりに呑みたい気分だった。アルミ缶を軽くぶつけ、鈍い乾杯の音を合図にビールを流し込むと、炭酸の気持ちのいい感触を楽しんだ。

「レッスン後のビールってめちゃくちゃうまいな」
「だろ?まだたくさんあるからどんどん飲めよ」

今日のレッスンでは体がくたくたになるほど動き回り体が水分を欲していたので三月は自分が思っているより多くビールを飲み込んでいた。三月は酔いが回りやすいタイプだった。数分もすると顔が赤くなり、声も大きくなり、気分が高揚していた。弟である和泉一織はそんな三月を心配そうに見て、時折声をかけていた。

そんな時、三月のスマートフォンが鳴り響いた。本人は気づいておらずメンバーとの会話に花を咲かせていたが、一織がその音に気付いた。画面をのぞき込むと”橘 沙也”と幼馴染の名前があった。スワイプすれば電話が取れるようだったので、「ごめんなさい、兄さん」と心の中で謝りつつ、一織は電話を受けた。
流れでメンバー全員に電話を聞かれ、大した会話をしないまま通話は終了した。三月は心なしか嬉しそうに見えた。そんなメンバーの変化をつついたのは、リーダーの大和だった。

「ミツ、この子と本当仲いいんだな」
「おう!こーんな小さい時から面倒見てたからなー。オレの妹みたいなもんだよ」

三月は親指と人差し指で小さい、というのを表現していたが、2本の指は隙間なくくっついていた。「一号つぶれてんじゃん、ウケる」と環が笑った。

「妹みたい、ねえ……?そういうのって胡散臭いんだよなあ。実は彼女でしたーとか、そういうオチじゃねえの?」
「違うって!オレたちは絶対ない!一緒にお風呂に入れてやったこともあるんだぞ。な!一織!3人で一緒に入ったよな!」

一織は顔を真っ赤にして大きくむせた。「オレもよく天にいとお風呂入ったよ!」と陸が楽しそうに言った。「俺も理と一緒に入った事ある」と環が話の方向性をさらに捻じ曲げる。

「橘さんまたコンクールに出場されるんですか?」
「ああ!壮五もまた一緒に行こうぜ!」
「是非お願いします!わあ、楽しみだな」
「というより全員で行こうぜ!あいつの演奏、すっげーんだ!」

三月はまるで自分の事のように言った。とても自慢げな態度だった。

「ミツキ、沙也のこと愛していますね?」
「あ、愛ぃ?」
「イエス!沙也のこと話す時のミツキ、とても愛おしそうです!ワタシたちと同じぐらい、沙也のこと愛している。違いますか?」
「はは……そうだな」

三月はビール缶の残りを一気に飲み干した。小さく息を漏らし、言う。

「沙也は妹みたいなやつで……家族も同然だからそうなる、かな」

三月の表情は柔らかかった。大和はそんな三月を見ながら新たな缶ビールのプルタブを起こした。炭酸の抜ける音が速く短く鳴る。

「……どうだかねえ」と、小さく零した大和の声はメンバーに拾われる事なく埋もれる。盛り上がる会話の中、一織は会話に交じることなく黙々とウーロン茶をグラスに注いでいた。










「ごめんなさい、兄さん。突然呼んでしまって」
「いいって。どうせ今日はオフだし」

一織が三月を学校へと呼び出した。沙也は高熱で早退となったが、1人で帰れそうな状態ではなかったので学校から保護者へ連絡したのだが、両親は電話に出なかったらしい。担任より相談を受けた一織は悩んだ末に三月を呼び出した。三月はすぐに駆け付け、沙也を迎えに来てくれた。

「沙也、大丈夫か?」
「みっちゃん……?」

名前を呼ばれ目を覚ましたものの、焦点は合わずどこか朦朧としていた。三月が来る途中で買ってきた冷却シートを沙也の額へと張りつけると、とても気持ちよさそうに目を閉じた。こんなに弱っている幼馴染を見るのは久しぶりだった。

「和泉くん、沙也の荷物持ってきたよ」
「すみません塚原さん。ありがとうございます」

ベッドのカーテン越しから親友の塚原が遠慮がちに顔を出した。三月がいる事に気づき一瞬驚き目を見開いたが、すぐに沙也へと視線を移した。とても心配そうな眼差して沙也を見つめている。

「文香ちゃん……だっけ?いつも沙也と仲良くしてくれてありがとな」
「い、いえ!仲良くしてもらってるのは私の方です!」
「これからも沙也のこと、よろしくな」
「はい!」
「よし……じゃあ沙也を起こすか」

「沙也、帰るぞー」と三月が声をかけると沙也は目を開き、ゆっくりと起き上がった。頬は赤く染まり、瞳は潤んでいた。

「みっちゃん、どこに帰る?」
「おまえん家だよ。具合が悪いから帰るの」
「みっちゃん具合悪いの?」
「それはおまえだろ……たく、心配かけやがって」

三月は沙也に背中を向ける。「ほら、乗れよ」と促され、沙也はゆっくりとその背中に身を預けた。パーカーを遠慮がちに小さく握るものだから、「そんなんじゃ落ちるだろ」と三月が半ば無理やりに沙也の両腕を前に回させた。

「一織、悪いけど荷物持ってきてくれるか」
「はい」
「じゃあな、文香ちゃん」
「あ、はい……!」

保健室を出て、文香は3人の背中をただ見送っていた。小柄な体からは不釣り合いに逞しく沙也を背負う三月と、荷物を持って心配そうについていく一織。その光景は驚くほどしっくりとくる”画”だった。彼らの幼少期を知らないはずなのに、なぜか文香は「懐かしい」と思った。

「本当に幼馴染なんだ……」

文香はぽつりと零す。親友の話でよく聞いてもいたし、何度か顔も合わせていたから知っていたはずなのに、”幼い頃からずっと一緒だった”という言葉が一気に現実味を帯びたのだ。
ライブでも学校生活でも見せない、和泉兄弟の顔がそこにあった。










「沙也……いいかげんにしろって」

無事にタクシーは沙也の自宅に到着した。三月は再び沙也を背負い自室へと届けることが出来たのだが、沙也が頑なに離れようとしなかった。首元に回る沙也の両腕は力強く三月を拘束している。「そういえば昔、近所の悪ガキにゴリラって言われてたっけな……」とあまりの力強さにそんな事を思い出す。ピアノを始めたからといって沙也は淑やかには育たなかった。成績表での体育は常に5で、体を動かす事が大好きだった。

「早く寝ないとよくならないだろ。離れろって」
「やだ!」
「ぐっ……おい……アイドルの首を絞めるなんておまえぐらいだぞ……」
「だってみっちゃん……離れたら帰っちゃう……」

沙也は弱弱しく言った。その声は涙ぐんでいた。三月は沙也の腕をぽんぽん、と軽く叩いて、ゆっくりとした口調で言った。

「大丈夫。帰らないよ」
「本当……?」
「ああ。落ち着くまでここにいる。大丈夫だから」

沙也は恐る恐る腕をほどいた。三月の言葉が本当か疑っているかのように、ゆっくりと体を離していく。三月は振り向き微笑んで沙也の頭を撫でた。それが気持ちいのか、嬉しいのか、沙也は気持ちよさそうに目を細める。目にたまっていた涙が頬を伝って落ちていった。

「よし。部屋着に着替えとけよ。氷枕作ってきてやるから」

三月が踵を返してキッチンへと向かおうとした時だった。

「みっちゃん……脱がして」

派手に壁に頭をぶつけた。ゴン、と漫画であれば大きい効果音がコマいっぱいに表現されるであろう、とても立派な音が響いた。ぶつけた額を擦りながら三月は顔を赤くして沙也を見た。

「はあ!?」
「ネクタイ……ほどけない……」

沙也は泣きそうな顔でネクタイを引っ張っていた。大真面目にほどくには持ってはいけない部分を掴んで必死に引っ張っている。沙也は熱の影響で頭の回転がいつもよりだいぶ落ち込んでいた。

「はあ……本当におまえは……」

三月は深呼吸をして沙也のもとへと歩み寄り、ネクタイに手をかけた。ワイシャツのボタンが上から2個外されていたので、ネクタイをほどくと沙也の隠れていたデコルテが露わになった。汗ばんでいて仄かに赤らんでいる肌から、三月は反射的に顔を逸らした。

「これで大丈夫だろ。じゃあ俺は下に……」
「みっちゃん…………シャツも……」
「はあ!?」

「ボタンが……」セーターはボタンを外さずに引っ張って脱げたようだが、ワイシャツのボタンは小さいから難しいようで、取れないと泣きながら沙也が訴えていた。三月は頭を文字通りに抱え大きくぐるぐると2,3回回した後、大きく深呼吸をして沙也へと向き合った。

三月は素数を数える事にした。目の前のボタンを1つ外す度、ぶっ飛びそうになる意識をひたすら2で割り切れない数を浮かべて保った。
徐々に露わになる肌は見ないようにしていたが、今度はスカートから覗く足の肌色が目に入ってきた。先ほど後ろから抱き着かれていた時も何度も押し付けられ、意識と目のやり場に困っていたというのに、それは今も尚三月を試すように再び立ちはだかる。
11、99、73、15、81、31、55、77、29、、、、、、
順番もばらばらである。思いつく限りの素数をひたすら並べた頃には最後のボタンを外せていた。

「終わり!!!あとは自分でやれよ!!!」

三月はなるべく沙也を見ないようにして出口への道を急いだ。後ろでは本人の気も知らず呑気な声で「みっちゃん、ありがとお〜」とお礼を言うので、三月はイラつきながらも部屋を後にした。










夕食用のおかゆを作り終えたところで沙也の母親が帰宅したので、三月は寮への帰路についていた。
幼馴染の無防備な要求に腹を立てながら、気が緩むと先ほどの生々しい感覚と光景が蘇ってくるのでその度に頭をぶん回して思考を停止させようとしていた。傍から見れば怪しい光景だが、三月は必死だった。ブツブツと文句を零しながら素数を数え小走りで進んでいたらいつのまにか寮についていた。

「あいつ……オレじゃなかったらどうなってたと思って……」

三月は思わず口を噤み、ドアノブを掴もうとした手を止めた。入り口の前で数十秒、そのまま佇んでしまった。我に返り寮の扉を開けると、三月の帰宅に気づいた大和が缶ビール片手に「おかえり〜」とこちらにひらひらと手を振っている。

「ミツ、送りオオカミにならないで済んだか?」

事の経緯を知っている大和はニヤニヤと面白そうに三月を見て言った。テーブルの上にはたくさんの缶ビールが並んでいたのでだいぶ前から飲み始めていたのだろう――……三月はジトっとした視線を缶ビールに向けた。

「……ならねえよ」

素っ気なくリビングを通り過ぎたかと思うと、ドアが閉まる無機質な音が響いた。大和はそんな三月を見て呆気にとられた後、ビールを流し込んで目の前のテレビに視線を移す。

「だからこの間言ってやったのに……まだまだ若いねえ、あいつも」

大和の独り言は再び誰にも拾われることなく、テレビから聞こえる賑やかしい声に交じって消えていた。