途中、本当にたくさんの人に祝福された。審査員の先生方をはじめ、文香は泣きながら喜んでくれたし(私といるとIDOLiSH7に会えてもったいないほどのラッキーファンサがもらえる!と別の意味でも喜んでいた)、両親も本当によかったと涙ぐみながら言ってくれた。ライバルだったコンクールで知り合った知人たちにも「素敵な演奏だった」と言ってもらえ、スポーツ漫画のように何人かとは握手を交わした。
「本当にクラシックを辞めるの?」
そして事情を知る人達にはこの言葉を同じように、何度も言われた。目の前に座った先生は淡々と「よく頑張ったわね」とだけ短く祝福し、次にこの言葉を言った。その顔は心なしか厳しい表情だった。
私はスカートの裾を握りこみながら、膝の上で硬く拳を握って言った。
「はい、辞めます。みっちゃんと一織の曲を弾けるような……バンド演奏できるキーボード奏者を目指します」
「目指しますって……あなたキーボードは愚か、伴奏ですら習ってきたことないでしょう」
「そ、そうだけど……それはこれから!どうにかします!」
「どうにかなるなら世の中成功者だらけよ!!」
先生の怒鳴り声にも近い大きな声量に驚き押し黙った。先生は長く深いため息をついた。
再び私を見据え直すその表情はとても心配そうだった。
「あなたはクラシックの才能がある。ピアニストになりなさいとは言わない。もう少し続けてみる価値は絶対にある。それでも辞めてしまうの?」
先生がそんなに私を評価してくれているとは思っていなかったので、驚きと嬉しさで狐につままれたような顔になった。先生が褒めてくれる事はそんなに多くなかった。そんな人から才能があると言われている。続ける価値があると言われている。なんて光栄な事だろう。
それでも、私は。
「はい、辞めます。私はみっちゃんの歌声を彩りたい。その気持ちは変わらないから」
「……そう」
先生は笑った。ふう、とさっきよりも短いため息をついて、足を組み直す。降参だ、とでも言いたげな表情だった。
「あなたは本当に頑固で真面目ねえ。律儀にご両親との約束を守るし。本当クソ真面目なんだから」
「なんで悪口言うんですか!」
「褒めてるのよ?」
「全然誉め言葉になってない!!」
少しむきになって反論したらなんだかおかしくなって、2人して笑ってしまった。こんなよくやっていたやり取りももう最後かもしれない。私は先生のレッスンを受ける事はもうなくなってしまうのだから。
「……今までよく頑張ったね。優勝おめでとう」
先生は穏やかに笑った。あまりにも優し気な表情だったからなんだか泣きそうになったけれど必死にこらえた。出来るだけ笑顔でいたかった。先生には笑顔の私を覚えていてほしかった。
「正直残念だけどこればっかりは仕方ないし……もう次の手を打ってあるから安心しなさい」
「次の手?」
先生はニヤリと笑った。その笑顔はまるで物語の悪役のような卑しさがにじみ出ていた。思わず笑顔が引きつった時にはもう遅かったのである。
ドアが勢いよく開いた音は、第二ラウンド開始のコングだった。
「沙也、ちょっと待って」
昼休み、昼食を買いに行こうとしたら一織が珍しく話しかけてきた。手には大きなクーラーバックを携えている。
「念のため確認しますが、今日、お弁当は持ってきてますか?」
「持ってきてないよ。これから購買に行こうとしてたところ」
「そうですか。よかった」
言葉の意図が汲み取れず首を傾げると、一織は軽く咳払いをして、クーラーバックを突き出した。
「兄さんからです。今日は沙也の分のお弁当を作ってくれたので、お渡しします」
「みっちゃんから?!」
少し大きい声になってしまった。クラスメイト達は不思議そうにこちらをちらちらと見ている。一織は視線を集めたのが嫌だったのかジトっとこちらに睨みを利かせた。ごめん、という意味を込めて目配せをすると、一織は私を置いてクラスメイト達の視線から逃れるように教室を後にした。一人残されただけでなく、みっちゃんが作ってくれたというお弁当も持っていかれたのでしょげていたら、少ししてラビチャの通知が光った。メッセージは一織からで、『人目につかないように家庭科室までくるように』と業務連絡のような淡々とした文章が届いた。
言われた通りに家庭科室に移動すると、一織が既に待ち構えていた。
「全く……あなたのせいで変に注目されてしまったじゃないですか」
「ごめんってば。だって嬉しかったんだもん」
「ほら、早く受け取ってください。私も早く食べに戻りたいので」
「え?一緒に食べてくれないの?」
一織は瞬きを3回した。呆気にとられた表情がおかしくて少し笑いそうになったけど一生懸命こらえて一織の制服を掴んで引いた。
「せっかくだから一緒に食べよ!なかなかこんな機会ってないし!」
「あなたはいつも塚原さんと食べてるでしょう」
「文香は今日委員会だからいないんだよ。いいでしょ、ね?」
一織は観念したかのように、渋々机に座ってクーラーバックを開いた。
渡されたお弁当を開けると、私の好物ばかりが目に飛び込んできて、お子様プレートを目の前にした子供の様な気分になった。(うさみみフレンズのデコ弁にもなっていて、一織も同じように目を輝かせていた)
私達は大して会話をすることなく弁当を平らげた。「おいしかった!」と手を合わせようとしたら一織がそれを制止するように、再びクーラーバックから取り出したものを突き出してきた。
「デザートもちゃんと食べてください」
「デザートもあるの!?豪華だー!!」
嬉々としてケーキボックスを開くとウサギ型のパンケーキが入っていた。
メープルシロップとチョコレートソース、タッパーに入った冷凍ベリーを手際よく一織が机に並べていく。あまりの豪華さにめまいがしそうだった。私は嬉々として好きなだけトッピングを重ねて、出来上がったパンケーキを頬張る。私の大好きな味が口いっぱいに広がって”幸せ”でいっぱいになった。
「本当においしそうに食べますね、あなたは」
「だって本当においしいんだもん〜!は〜、幸せ……」
カシャ、と無機質な音が鳴り、幸せに浸っていた私は一気に目を覚ました。
その音は真正面から届いた。犯人は言わずもがな、和泉一織だった。
真顔で私の様子を写真に収めていた。
「なんで撮ったの!?」
「兄さんに見せようと思いまして」
「まって!今絶対変な顔してたでしょ!見せて!」
「ちょ、ちょっと……!」
半ば強引に一織の手を掴んで携帯を奪おうとしたら手が触れた。みっちゃんとも、二階堂さんとも違う手。一織に触れるのは久しぶりだった。みっちゃんとは対照的に一織と触れる機会は幼馴染と言えどほとんどなかった。
「……何してるんですか」
「え?……あ、」
気がついたら携帯ではなく一織の手を両手で包み込むようにして握っていた。一織は引き気味に私を睨んでいた。「ご、ごめん……」と謝り手を引っ込める。何とも言えない気まずい空気が間に流れた。私は残りのパンケーキを夢中で頬張り、この間を必死に埋めた。一織は口元を手で覆うように隠し、窓の外へと視線を移している。
「ご、ごちそうさま!すっごくおいしかった!」
「それはよかったですね。じゃあ時間をずらして教室に戻りましょう」
変に誤解されないために、そう一織は付け足して、黙々と後片付けを始める。一織がチョコレートソースのボトルを持った瞬間、私は両手でまた一織の手を掴んでいた。
「沙也!あなたさっきから一体何を……!?」
「ごめん、一織。どうしても気になっちゃって……ごめん!」
「は!?ちょっと!?」
私は一織の手を自分の頭の上に乗せた。いつもみっちゃんがしてくれるみたいに、撫でてもらえる位置に一織の右手を強制的に乗せた。
みっちゃんとも二階堂さんとも違う、大きく繊細な手。
知らなかった。いつも傍にいたのに、わかってるようでわかってなかった。
「いつの間にこんなに大きくなったんだろう……」
「あなた、喧嘩売ってるんですか?」
「違うよ!みっちゃんはいつも撫でてくれるから何となく感覚?がわかってたけど一織の手を触るなんてちっちゃい頃以来だなって思って……」
私が手首をつかんでいるからか、一織は払う事もなく、されるがままに私の頭の上に手を乗せていた。傍から見たら意味の分からない、非常にシュールな光景だ。なのになぜか私たちはそのまま会話を続けた。先ほどの気まずい間はどこかへ行ってしまった。
「コンクールが終わって、これからどうするんです、あなた」
「まずは伴奏の勉強をするの。先生の紹介でとあるところにお世話になる事になってて、今日もそこに行くつもり」
「そうですか」
私は一織の手首から手を離した。それを合図に一織の手が私の頭から離れていく。
昔は一織と手を握る事なんてしょっちゅうあったのに、いつから私たちは触れなくなったのだろう。みっちゃんとは全然違う手。でも、同じように安心感がある手。触れていると嬉しくなる、そんな愛おしさがある手。
「……頑張って」
ピシャリ、と家庭科室のドアが閉まった後、私はその場に座り込んだ。
時計の針は授業開始まであと10分を指している。
突然の事に状況を飲み込めず、思わず脱力してしまった。
離れたと思った一織の手は再び私に触れ、ゆっくりと頭を撫でた。
激励の言葉と、大人びた穏やかな薄っすらとした笑みを浮かべる一織。
みっちゃんと似てとても優しく、まるで壊れ物を扱うかのような手付きだった。
「みっちゃん……一織はいいの……?」
「簡単に男に触れるな!触らせるな!」と言ったみっちゃんの言葉が、あれからぐるぐると頭を回ってる。
なんでみっちゃんはそんな事を言ったの?誰がよくて誰がだめなの?
ねえ、みっちゃん。
私の事、どう思ってるの?
口の中にはチョコレートソースの余韻が残っている。
ほんのり甘いはずなのになぜだかほろ苦く感じたのは、気のせいだろうか。