それは罪にとても似て

和泉一織には橘沙也という幼馴染がいた。
家が近かったこともありよく遊んでいたので、物心ついた時から一緒でまるで兄弟のように育ってきた。
可愛いものが好きで聞き分けのいい利口な一織とは対照的に、沙也は体を動かす事が大好きで好奇心旺盛な性格だっため非常に落ち着きがなく、よく両親を困らせていた。おしゃれにもあまり頓着せず、見た目より動きやすさ重視だったため、ボーイッシュな服装が多かった。
そんな幼馴染を見てきたから、一織は驚いた。

水色のワンピースを着て、頭にリボンの髪飾りをして泣いている幼馴染は、まるで別人だった。
決して似合わないわけではない。むしろとても似合っていた。
兄の三月に促され、思わず口から「……かわいいです」と本音が零れた。

「ありがとう、みっちゃん!いおり!」

その言葉で赤い目をして、たくさんの涙でぬれた顔が一気に明るくなった。
まるで花が咲いたような笑顔は、和泉一織の脳裏に強く焼き付いている。





「一織、頼まれてくれるか」

沙也が優勝したコンクールの翌日、兄の三月がいつもよりも早くキッチンに立っていた事を一織は気づいていた。朝食を終え、そろそろ学校に向かおうと思った矢先だった。隣では環が壮五に「遅刻しちゃうよ!早く!」とせっつかれながら朝食を食べ始めようとしていた。

「これ、沙也に渡してやってほしいんだ」

差し出されたのは大きめのクーラーバックだった。一織が箱の中身はなんだろな?とでも言いたげな表情を浮かべていたので、三月は目を細めて笑った。

「弁当とお祝いのケーキだよ。あいつの好きなもん、いっぱい入れといた!」

昨日の夕食後、一緒に皿洗いをしていたら三月に「沙也は昼、いつも弁当を持ってきてるのか?」と聞かれた事を一織は思い出した。沙也の両親は共働きで家にいる時間が少なく、弁当代わりにお小遣いを渡されているのを一織は知っていた。弁当を持ってきたことは数えるほどで、いつも購買で弁当やパンを購入しているのを横目で見ていた。

「一織と環の分も一緒に入ってるからな」
「ありがとうございます、兄さん」
「おう!」

一織はクーラーバックと鞄を持ち、玄関へと向かう。それを見た壮五が焦り「待って!環くんも一緒に連れて行って!」と必死に言うので、一織はいつもよりスローペースで短い距離を歩いた。
座ってローファーを履いていると、上から三月の声が下りた。

「一織、沙也……すごかったな」
「……はい」
「最初のコンクールの日も、同じような色のドレス着てたよな」
「そうでしたっけ」
「そうだよ。覚えてるくせに」
「忘れました」

一織は立ち上がって三月を見た。穏やかな表情だった。視線はこちらに向いているのに、違うものを見ている。細かに橙色の虹彩が震えていた。

「……綺麗だったな」

演奏の音色なのか、浮かんだ情景なのか――……三月が何を指しているのか、一織は聞くのを辞めて口を噤んだ。聞かなくてもなんとなくわかってしまったからだ。

「でもいいんですか?沙也の事だから直接兄さんからもらえた方が喜びそうな気がしますけど」
「いいんだよ!早くお祝いしてやりたかったんだ。次いつ会えるかもわかんなそうだし」

「あいつも忙しくなるだろ」そう、三月が嬉しそうに言った。一織もつられて笑い「そうですね」と答えたと同時に「まだいた!間に合った!!」と壮五が必死の形相で叫んだ。環は「そーちゃん、うるさい」とまるで他人事のように気怠そうに言う。三月は呆れたように笑って「気をつけてな」と見送ってくれた。

道中、朝は口数の少ない環が話題に出したのも”橘沙也“の話題だった。

「一号、すげーやつなんだな」
「まあ、ピアノの腕はなかなかだと思いますよ」
「ピアノもそうだけどさ、なんつーか……オーラ?」

環は思い出すように宙を見上げた。反動で環の髪が揺れた。薄水色の髪を見て浮かんだのは幼い頃の記憶と、昨日の光景だ。

自分たちにお礼を言ってドレスを翻し去って行く後ろ姿。ステージにあがり、照明に照らされながらピアノを奏でる姿。
演奏はコンクール前にも音楽室で聴いたことがあったが、その時より格段に違うものへと仕上がっていた。落ち着いたクラシック曲で、解釈的にも曲調的にも決してIDOLiSH7の曲とは直結し難いはずなのに、あの日のライブの光景が鮮明に想起させられた。一織には照明で照らされ走る雨脚でさえはっきりと見えた。
他の奏者だと退屈そうにあくびをしていた環でさえ、沙也の演奏だけは食い入るように聞き入っていた。

「一号じゃないみたい。まるで別人だった」

環の言葉は、幼き一織が感じた事と、同じものだった。










「塚原さん」

和泉一織は1人でいる事が多い。クラスでも群れることなく、黙々と机に座って過ごしている。洗練された雰囲気も相まって話しかけやすいタイプでもないため、誰かと会話をするという事が珍しかった。環や沙也が話しかけに行き、それに言葉少なに答えるという光景しか文香は見た事がない。
そんな一織が自分に話しかけている。珍しい事もあるものだと驚きつつも平然を装った。

「和泉くん、どうしたの?」
「ちょっと聞きたいことがありまして。少しいいですか」

文香は辺りに人がいない事を確認して肯いた。一織は女子生徒にとても人気がある。まだアイドルとして知名度が低いとはいえ、学校中で”和泉一織”の名前を知らないものはたぶんいない。それほどまでに認知度が高かった。
放課後、誰もいない教室でこうして2人で話しているとなったら根も葉もない噂を立てられかねない。一織は鈍感ではないので周りがどんな風に自分を評価しているのかは”わかっていた”。理解したうえでこうして人目のつかない絶妙なタイミングを狙っていた。

「沙也の事なんですが……最近何をしているか知っていますか?」

文香はやっぱり、と思った。一織が話しかけるとしたら彼女絡みの事だと思っていた。
沙也は文香の親友であり一織の幼馴染でもある、2人の共通の知人だった。

「ごめんね。私も知らないの。聞いても濁すばかりで……」

沙也はコンクールを優勝してすぐに御門歌劇団のもとで伴奏を学んでいた。その後ストリートピアノでRabbiTuberとして活躍していたが、最近はぱったりと辞めてしまった。
文香から今は何をしているのかと聞いても「キーボードの練習中……」と歯切れの悪い回答しかもらえず、何かを隠している事は明らかだった。

それでも文香は詮索をしないと決めていた。彼女が言いたくないのなら仕方がないし、いつか打ち明けてくれる日まで待つ気でいた。
そしてなにより、最近の沙也は活き活きとして輝いて見えた。焦燥感に追われていたあの頃とは見違えるほどに楽しそうに笑うので、文香は密かに安堵していたのだ。

「そうですか……」

一織は下唇を軽く噛み、口を噤んだ。
表情からは苛つきの色が見えた。文香はそんな一織を見て、言葉を選ぶようにして言った。

「沙也のことだからきっと、すごい事をしてるんじゃないかな」
「すごい事?」
「うん。わからないけど、きっと私達を驚かそうとしてるんだよ。いつか絶対に言ってくれるよ」
「……そうだといいのですが」

一織が視線を外したので表情が見えなかったが、その声は寂しそうだと文香は思った。
そして寂しいという気持ちは、文香も同じ気持ちだった。
今まで沙也はどんな些細な事でも打ち明けてくれた。裏表がなく嘘をつくのも下手で、強いところも弱いところも全部さらけ出してくれた。そんなところが文香は大好きだった。だからこそ、今回の”秘密”は地味に重くのしかかり、堪えるものがあった。

彼女にこんな事、到底言えないけれど。

「ねえ和泉くん、私達も同盟を組まない?」

一織は再び文香を見た。
文香が突き出したスマートフォンに映し出されている画を見て、一織は目を見開いた。
画面の中には一織と沙也がいた。2人で向かい合って楽しそうに笑っている横顔だった。
場所は家庭科室。あのコンクールの日の昼休みだと一織はすぐに気づいた。

「ごめんね。あまりにも楽しそうだったからつい撮っちゃった。悪意はないよ。それだけは信じて」
「はあ……」
「プリン同盟じゃないけど、お互いが沙也の情報を少しでも手に入れたら共有するの。沙也が打ち明けてくれるまでの期間限定、って感じで」

一織は色々と考えているようで押し黙った。
文香は一歩、一織へと近づいて距離を埋める。

「和泉くん、本当は沙也のこと――……」

カシャン、と音を立ててスマートフォンが落ちた。
一織の眼差しに気圧され文香が怯み、手から落としてしまったのだ。
スマートフォンは一織の足元まで滑り落ちた。
ゆっくりと拾い上げ、一織は画面を見つめる。
そこに映る2人はとても楽しそうだった。柔らかに、朗らかに微笑む2人は幼い頃から変わっていないようにさえ思えた。
一織は文香へスマートフォンを差し出す。
文香は生唾を飲み、恐る恐るそれを受け取った。

「……乗りましょう。その同盟」

一織はラビチャを起動して自分の連絡先を文香に送ろうとしていた。文香は拍子抜けしたようで、目を丸くして、たどたどしく連絡先を受け入れる操作をする。

「あ、ありがとう」
「いえ。あと……先ほどの写真いただけませんか」
「う、うん。もちろん!」
「それと…………」

一織は文香の耳元で囁く。
文香が驚き呆然と立ち尽くしていたが、一織はそんな光景を横目で見て教室を後にした。
スマートフォンの画面をスワイプするとそろそろ事務所に戻らなければならない時間だった。



急ぎ足でギリギリ目的の電車に乗り込み一息つくと、一織は再びスマートフォンをタップした。
文香から「よろしくね」というメッセージと共に約束の画像が届いた。
先ほど見せられた家庭科室で笑う2人の写真をタップして保存する。フォルダに並ぶ画像を追うと、三月が作ったケーキを頬張る笑顔の沙也の写真があった。タップすると画面いっぱいにその笑顔が広がった。本当に幸せそうに笑っていた。こっちもつられて笑ってしまうほどに、満面の笑みで。

「次いつ会えるかもわかんなそうだし」そう言った三月の顔が一織の頭に浮かんだ。
車内では次の到着駅を知らせるアナウンスが響く。

「ごめんなさい、兄さん……」

一織は音にかぶせるように、本当に小さい声をぽつりと零した。



「和泉くん、さっきはありがとう」
「秘密は絶対守ります」

文香からのメッセージがラビチャのトークルームに流れ込む。
一織は返信する事なく、そっと制服の胸ポケットにスマートフォンをしまい込んだ。


誰にも、決して、見られないように。