望み

「不思議なもんだよね」

思い出したかのように千が言った。

「あれだけ騒いでたと思ったらスイッチが切れたかのように静かになって、いつの間にか眠ってたんだ」
「騒いだ?ユキ、また沙也の事からかったんでしょ」
「まあ……下手くそだって言った」
「下手……!?」
「そしたらポチ、顔を真っ赤にして叫び始めて部屋を飛び出したんだ。しばらくしたらびしょ濡れの状態で戻ってきて、「頭冷やしてきました」って」
「は!?何それ!?」
「頭からシャワーで冷水浴びてきたらしい」

百は苦笑した。その場に居合わせてなどいないのに手に取るようにそのやり取りが浮かんだ。
「人の家のシャワーを勝手に借りるなんてデリカシーのない子だよ」と千が続けたものだから、さらに苦みが増して顔が引きつった。
千の家に到着しソファで小さな寝息を立てて眠る沙也を見た時、なぜ髪が濡れているのか疑問だったが、(百は相方が絶対的に紳士だと信じてやまなかったので、世間が一般的に連想するようなやましい事が全く頭に浮かばなかった)理由がわかってすっきりした。
ソファで眠る沙也の眉間には薄っすらと皺が寄っている。

「稚拙な音だと指摘して、子供みたいに駄々をこねたと思ったら、次に弾く演奏はさっきまでとは打って変わって急に大人びた音になる。本当に不思議な子だよ、この子」
「ユキ、動画見た時から沙也の事気に入ってたもんね。この子が欲しいなんて言うから最初はびっくりしたけど」
「まあね」

千は沙也を見た。無防備で、まだ幼さが垣間見れる寝顔を見て微笑みを浮かべる。

「こんなにでっかいダイヤの原石、放っておいたら横取りされてしまうから」

百は笑った。「楽しみだね、沙也の演奏で歌える日が!」と明るく眩しい笑顔を千に向ける。千もつられて顔を少し綻ばせ「そうね」と相槌を打った。

「今回の合宿、大分はかどったんだね!」
「まあね。最初はどうなる事かと思ったけど、いい曲がかけたよ。聞く?」
「聞く!聞きたい!わあ、どんな曲だろう。楽しみだなあ!」

百はまるで宝箱を開ける前の子供の様に瞳を輝かせる。千はそんな百に優しいまなざしを向けて穏やかに微笑む。


壁掛け時計の長針が11と12の中間へと向かって一歩、歩みを進めた音がした。
それを合図にするかのように、沙也はゆっくりと目を覚ました。










「沙也、また一織くんと喧嘩したの?」
「……してない」
「えー、嘘だあ。だって沙也、今日一言も一織くんと話してないじゃん」

数か月前にも全く同じ下りのやり取りを文香とした気がする。これがデジャヴというやつか。
彼女の指摘通り、一織と一言も口を交わしていなかった。正確に言うと交わせていなかった。タイミングよく他の人から話しかけられてしまったり、声を掛けようとすると一織が席を外してしまった後だったり、なんとなくついてないのだ。

「もしかして避けられてるの、かも」

認めたくないという気持ちが隠しきれず、声が小さくなった。

楽屋へ挨拶しに行ったあの日、一織からラビチャが届いた。
「電話をしていたユキさんとは、いったい誰ですか?」と。
悩みに悩んで「お世話になってる人」と曖昧な返答をした。
小さい頃からみっちゃんや一織には何でも話していたから、2人に共有していないという事がとても後ろめたい事のように感じた。意図的に”秘密”をもつという事が悪い事のように思えた。

「どうしてそう思うの?」

文香がまっすぐに私を見た。思わず目を逸らしたくなるぐらい屈託のない瞳だった。無意識に生唾を飲んだ。
後ろめたいと思っていたのは2人だけではない。彼女に対しても同じ感情を抱いていた。

「私が……隠し事をしてるから」

彼女の瞳を前にはぐらかす事が出来なかった。まるで拘束された犯人のように、しびれを切らしたかのように言葉にした。

「ごめん。私、文香にも秘密にしてる事がある」

昼休みの教室というノイジーな空間が私の声を目立たせる事なく埋もれさせてくれる。
思い切って伝えた言葉は周りに聞こえることなく、文香にだけちゃんと届いたようだった。
文香は「そう」と小さく零す。目尻がほんの少しだけ下がり、ピりついていた空気が柔らかくなった。

「それって沙也が今何やってるかって事だよね?」
「うん。今は言えないけど、言える時が来たら絶対に言う。それは約束する!絶対に守るから」
「そっか。言ってくれてありがとう、沙也」

文香はとても嬉しそうに見えた。その顔を見てたら私も嬉しくなった。
胸の奥につっかえていた物が取れて、少し軽くなった気がした。

「和泉くんにも同じことを言ってあげたら?きっとわかってくれるんじゃないかな」
「そうだといい、けど」

無意識に窓際の空席へと視線を向けた。いつもそこに在るはずの凛とした姿は見当たらない。それがなんだかとても寂しい。

「ねえ、沙也が今やってる事って悪い事なの?」
「え……?」
「詮索してるわけじゃないよ!ただの質問。沙也は人に言えないような悪い事をしているわけではないよね?」
「うん。そんな事ではない、と思う……」
「じゃあどうしてそんなに申し訳なさそうな顔をしてるの?」

文香の表情は優しい。でも口調はいつもより少しだけ鋭くて。

「秘密を持つ事は悪い事じゃないよ?幼馴染だからって全部言わなくちゃいけないわけじゃない。幼馴染だけど、言ってしまえばそれだけなんだから」
「それだけって……?」
「悪く言えばただの他人って事」

教室の喧騒が一気に遠くなった。私達の間だけ無風になったかのように、音が止んだ。文香の黒目がちな瞳は、私を捉えたまま動かない。

「和泉くんと沙也は家族でも恋人でもないんだから」

彼女の口調はもっと柔らかかったはずなのに、私にはひどく鋭利なナイフのように思えた。
文香の言葉は正論だった。私と一織は家族でも恋人でもない。
ただの幼馴染。家族のように育っただけ。
ただ、それだけ。
わかっていたはずなのに。


胸の奥がこんなにも痛むのは、なんでなんだろう。








ユキさんの突発的な提案で開かれた合宿は地獄だった。

合宿なんていうものだからいつものメンバーと一緒にするんだと思ったらまさかの私とユキさんの2人しかいなかった。「僕の家でやるからパパラッチに撮られてもいいように男装しなさい」と強制的に”沙也くん”にさせられてしまうし、ひたすら楽譜を渡されて一折り弾いた後には「下手くそ」「犬の方がうまく弾けるかもね」「君、本当に高校生か?」「ガサツな子だな」「うんざりする音だ」と否定的な言葉のオンパレード。
無事に弾き終えたと思ったら「やっぱりこっちの方がいいな」と譜面がガラッと変わってきて、また振出しに戻るエンドレスエイト状態であった。

大人の男性と屋根の下で2人きりだからと言って世間が連想するような甘い出来事は1mmたりとも起きず、血眼になって楽譜とキーボードにくらいついていた記憶しかない。
余談だが合宿とは言いつつも、ちゃんと岡崎さんが送り迎えをしてくれて、寝泊まりは自宅でしていた。しかし迎えは早く、帰りは遅いので眠るためだけに家に帰っていた。(私は早くにユキさんの家に着くというのに、当の本人は朝が弱く動き出しが遅いため、イラつきながらも1人黙々と今までもらった楽譜と睨み合って自己研鑽に費やした)


そんな背景もありなかなか時間が取れなかったが、今日は久しぶりに学校の音楽室を独占していた。
放課後の静かな空間をピアノの音色が埋めていく。
あまりの心地よさに身震いした。

「ピアノはやっぱりいいな」

久しく触れていなかったクラシックを奏でると自然と背筋が伸びる。
みっちゃんの歌声を彩ると決めたあの日の私に戻れる気がした。

まだみっちゃんの歌声に重ねる音は奏でられないけれど、夢に近づく事は出来ている。
着実に前に進めている。少しずつでも進んでいるはずなのに。

みっちゃんと一織とは、どんどん離れていく気がしてならないのは、なぜだろう。


「沙也」

声にハッとして顔を上げた。そこには一織がいた。
扉を閉め切っていたので開けたら音で気づけたはずなのに、いつの間に入ってきてたんだろう。

「ちょうどよかった。今少しいいですか?企画で今度ピアノを弾く事になりまして、さわり程度でいいので教えてくれませんか」
「いいけど……前にも教えてあげたじゃん。一織普通に上手かったし」
「まあ、それほどですけど」
「何それ!」

一織はイスを持って私の隣に着た。黒塗りの光沢面に私と一織のシルエットがぼんやりと浮かんだ。昔見たものとは違う、背丈も間の距離も変わったシルエットだった。
いつものように軽口を叩いたつもりだけど、うまく笑えている自信がなかった。一織にはきっとお見通しなんだと思う。大好きなピアノを、大好きな一織と弾けるのに、なんでこんなに苦しい気持ちになるんだろう。

一織がゆっくりと奏でるのは昔私が教えた曲だった。
教えたのはずいぶん前なのに、あの頃と変わらず卒なく演奏出来てしまう一織に感心していた。本当に何でも出来てしまう幼馴染だ。何度彼を羨んだ事か。

「どうですか、先生。何かアドバイスをお願いします」
「何も言う事ないよ。だってうまいんだもん」
「じゃあ質問してもいいですか」
「はい、どうぞ」
「私に何か言いたいことがあるんじゃないですか」

一織が私を見ている。その瞳には昼間の文香と通じるものがあった。
逃がしはしない。そう言っているように、強い圧にも似たものが私に向けられている。

「うん、ある」

胸が痛い。
昼間の時と同じ痛みが再び襲ってきた。

「一織にも、みっちゃんにも秘密にしてることがあるの」
「知ってます。顔に書いてありますからね。兄さんも気づいてますよ」
「みっちゃんも?」
「はい。でも沙也ならいつか教えてくれるはずだって、信じてました」

一織は穏やかな笑顔を浮かべた。「いつか言ってくれるますか?沙也」と囁くように言う優しい口調が痛くて、苦しくて、うまく言葉が出せなかったから精一杯かぶりを振った。

私と一織は家族でも恋人でもない。
それでも私は話したいと思う。
全部全部、彼には伝えたい。
いつまでもこの優しい微笑みを見ていたい、守りたいと思うのは、変な事なのかな。

「なんで泣きそうになってるんですか」
「わかんない……」

京歌さんに言われた「もう前みたいにずっと一緒にはいられない」という言葉を思い出した。
頭ではわかってるのに、心がそれを否定する。
子供じみた考えだと多くの人は笑うかもしれない。



それでも私は、一織と、みっちゃんと、ずっと一緒にいたいよ。