溶かす体温

「男のくせにそんなんが好きなのかよ!」
「女みてえー!」

手中にあるうさぎのぬいぐるみを指差し、嫌味らしく笑う少年たちがいた。その顔触れには見覚えがあった。確か近所に住む年が近い少年たち――……俗にいうよくいる”悪ガキ”だ。
笑われているぬいぐるみは幼少期、一番気に入って大切にしていたものだ。視線を落とした手元は普段目にしている形容とはずいぶん小さく、一織は自分が昔の思い出を夢で見ているのだと気づいた。

「あなたたちに関係ないじゃないですか!」

一織は幼い頃発した言葉と全く同じように言った。悪いものを隠すようにぬいぐるみを後ろに回す。少年たちは面白いものを見たとでも言うように卑しく笑った。
一織は距離をとるように後退る。まるでそうはさせないぞと言わんばかりに少年たちはゆっくりと近づいてくる。
どう撃退してやろうかと一織は必死に頭を回すが、焦りも混じり縮められつつある距離を引き離す事しか出来なかった。(今ならもっと上手く対処できるのに……と、夢の中だから仕方ないとはいえ腹立たしい少年たちを打ちのめせない事を非常に残念に思った)

少年たちが一織に向かって手を伸ばした瞬間だった。

「いおりをいじめるなー!!!」

どこからともなく現れた沙也が両手を広げて間に割って入った。
突然の事に意表を突かれ、少年たちが目を見開いて後ろによろけているのが見えた。

「なんだおまえ!オンナのくせに入ってくんじゃねえよ!」
「そのオンナにびびってるくせに!」
「おまえなんかオンナじゃねえよ!オ、トコ、オンナ!」

子供らしい支離滅裂な会話だ。
そういえば、と、わなわなと肩を震わせる沙也の背中を見て一織は思い出した。





「いおりん、起きた?もうすぐ学校着くって」

声を出そうとしたところで景色が一変した。小鳥遊事務所の社用車へとシーンが切り替わり、自分が目を覚ました事に気がついた。
隣で環がプリン味の棒キャンディを気怠そうに転がしながら、「いおりんが転寝するなんて珍しいな」と言った。
一織は姿勢を正して少し深めに呼吸をした。窓の外には見慣れた風景が広がっていて、環の言う通り学校の近くにいる事がわかった。

「いおりん、もしかして夢見てた?」
「はあ、まあ……なんでわかったんですか?」
「なんとなくそう思っただけ。どんな夢?」

轟々とアスファルトとタイヤが擦れる鈍い音に隠すように一織は呟く。

「……ゴリラ誕生の瞬間」

どうせ聞こえないだろうと思っていたが「は!?」と環が声を出したので、意外と耳がいいんだなと呑気な事を思った。
環は「いおりん、相当疲れてんな……」と憐れむように顔を引きつらせ、カバンから取り出した新しい棒キャンディを一織に差し出すのだった。





「聞き間違い?」

美樹と芽衣が声を重ねて、同じような表情で私を捉える。自然とサンドイッチを咀嚼するスピードが落ちた。私が小さくかぶりを振ったと同時に、2人は転がるように笑いだした。

美樹と芽衣が昨日参加した合コンに、和泉兄弟と幼馴染だと自慢げに言う男がいたらしい。彼らと幼馴染なら私を知っているかと名前を出した途端、その男は急に顔を青ざめ目を逸らし、口ごもりながら弱弱しく言ったそうだ。
「君たち、ゴリラの友達……?」と。

「何の話してんのって思ったけど、まさかマジだったなんておっかしー!」
「にしてもどう聞き間違えたらオトコオンナがゴリラに変換されるの。本当沙也らしいわー」
「もう何とでも言ってください」

世間はなんて狭いのだろう。友人たちと悪ガキその1が出会って合コンをし、自分のいないところで幼少期の恥ずかしい黒歴史を暴露されるなんてどんな確率の不幸だろうか。

幼少期の思い出がひょっこりと脳裏に顔を出す。
悪ガキその1が早口で噛みながら「オトコオンナ」と言った言葉が私には「ゴリラ」に聞こえ、「誰がゴリラだー!!」と憤慨し返り討ちにした苦々しい思い出が。
ここにいない悪ガキその1を恨めしく思った。元はと言えばあいつの活舌が悪いのがいけないんだ。あの時噛んだりせずちゃんと”オトコオンナ”と言えれば、自分で”ゴリラ”なんて忌々しい渾名をつけずに済んだのだ。

友人たちは飽きもしない様子で目の前でずっと笑い続けている。

「あのねえ、そろそろいいかげんに……!」

ガラリと無機質なロールの音が教室全員の意識を掴み、あたりがしんとした。
その静寂を塗りつぶすかのように「おはよ〜」と四葉くんが呑気な口調で現れた。その後ろに一織が続きこちらを一瞥した。

何気ない仕草。ただ偶然目が合っただけ。ただそれだけ。
けれど私にはまるでナイフのように鋭い牙を向けられているような、私と一織の間に隔たりを作られたような――……威嚇にも似た冷たさを隠す視線に見えた。

一織と私のラビチャのトークルームは歌ステの日から静まり返っている。
あの静寂の真意を、彼の態度が体現しているように思えてならなかった。

胸が、ひどく痛い。

「……言いにくいんだけどさ」

少しずつ戻った喧騒に溶かすように、美樹は言った。

「うちの学校TRIGGERファン結構多いからさ。最近売れてきたアイナナを良く思ってない人、多いんだよ。特に和泉くんは如月さんを振ったって話に尾ひれがついてよくない噂が広まってる」
「よくない噂……?」
「モテて調子乗ってるとか、そんな感じ。和泉くんのクールな態度が気にくわないんだと思う」
「一織の不愛想は今に始まった事じゃないよ……」
「和泉くんの事そんな風に言えるの、四葉くんか沙也ぐらいだね」

芽衣が頬杖をついて苦笑し、「いいの?和泉くんに声掛けなくて」と私を伺った。
スピーカーからは放送委員の文香が、昼休みの終わりが近い事を知らせている。

今しかない。一織に話しかけるチャンスは、今しかないんだ。
多忙な一織の事だ。きっと今日の放課後もそそくさと姿を消してしまうに違いない。
いつもみたいに自然に「ちょっと話してくるね」と断って席を立つだけなのに、まるで体が鉛のように重く感じ、何でもない事がとても難しく思える。

「なに、どうしたの……」

目の前の美樹と芽衣は不思議そうに目を丸くして呟いた。
けれどその視線の先に私はいなかった。

「和泉。お前って本当不愛想だよな」

私を通り越した先――……私の背中越しで、そんな風に言えるのは四葉くんか沙也ぐらいと言われた「不愛想」という言葉が一織に向けられていた。
思わず振り返ると、見知らぬ男子たち数名が威圧するように一織を取り囲んでいた。(見覚えはあるので同学年の違うクラスの人だと思われた)
一織の後ろでは「なんだよ、おまえら」と四葉くんが苛つきを隠さず彼らを睨み付けている。

「話があるからちょっと来いよ」
「何の話でしょうか。私は忙しいので、今、ここで、端的にお願いします」

一織は怯む素振りなど微塵も見せず、相手の顔を見向きもしないまま、次の授業の教科書を用意して言った。あまりにも淡々としていたので彼らの気に障ったようで、1人が感情的に大きな声で言った。

「そういう調子に乗った態度を改めろや。どうせ目立ちたくてアイドルやってんだろ?」

その言葉を皮切りに、いわれのない誹謗中傷が次々に一織へと降りかかった。
あまりにも度が過ぎた言いがかりに四葉くんが掴みかかりそうになった。咄嗟に近くの男子達が複数人で抑え込んだが、四葉くんは怒りを露わにしている。
険悪な雰囲気を宥めようとクラスの男子達が仲裁に入った時だった。



「お遊びのアイドルなんてさっさとやめちまえ!!」

バチン!!



甲高く鈍い音が響き教室はより一層静まり返った。
劈くような耳鳴りが左耳の中で反響し、籠ったように音が遠くなる。
衝撃で大きく揺さぶられた意識を、歯を食いしばって必死に繋ぎとめた。

ぐるりと頭を上げて、目の前の相手を見据える。

「やめないです、一織は。絶対に」

教室中の視線が私へと向いている。
それを遮るように深く頭を下げた。まるで水の中にいるように左耳が音を籠らせるので、声の大きさのコントロールが難しく思えた。

「JIMAを見てください。和泉一織が――……IDOLiSH7がどんな思いで向き合っているかがわかるから。絶対にあなたたちにも届くから。お願いします」

お願いします、
まるで念を押すように、振り絞る様に声を出した。
ゆっくりと顔を上げると左頬に熱が集まり、遅れてわずかな痛みがやってきて、やっと自分が平手打ちを食らった事を理解した。
目の前の男子生徒は驚き目を見開き、じっと私を見ている。
好奇を含んだ眼差しと静寂が広がる異様な空間を断ち切ったのは、一織だった。

「道を開けてください。保健室に連れて行きます」

一織は私の腕を引いて、人だかりが避けて作った道を進んでいく。
何もしゃべらず私たちは進み、目的の保健室へと到着した。先生は不在だった。
イスに座るよう態度で促される。一織は手際よく氷を詰めて氷嚢を作り上げた。
一織が口を開いたのは氷嚢を手渡したとほぼ同時だった。

「あなたバカなんですか!!」

感情的で粗ぶった声が私に降り注ぐ。
眉を吊り上げて、歯を食いしばり、細く短い呼吸をしていた。膝の上に並ぶ拳は力いっぱいに握られている。もし一織が猫なら毛を逆立て、身を低くして威嚇している事だろう。

「なんであなたが飛び出してくるんです!私なら避ける事も出来たのに!なんで自ら……」
「なんか体が勝手に動いて……殴られてから飛び出したって気づいたんだよ」
「はあ!?ありえません!!本当に大バカだ!!」
「あはは……でも一織が怪我しなくてよかった。アイドルの顔が傷付いたら、小鳥遊さんに顔向けできないところだったよ」

口の中が切れていたようで、笑うと痛みが走り、鉄の味が広がった。
相変わらず左耳は海の中にいるように音が遠い。
私が飛び出してくるのが見えて止めようとしたがブレーキが利かなかったのだろう――……殴られる寸前、咄嗟に拳が平手に変わったのが見えた。
相手の理性が少しでも働いてくれた事が幸いだ。拳だったらもっと大変な事になっていただろう。

「何もよくない!!あなただってRe:valeの……!!」

一織が我に返ったのが分かった。
バツが悪そうに視線を床に向けて、口を右手で覆い隠す。
まるでこの言葉は言いたくない、とでも言うように。

「私はアイドルじゃない。Re:valeのキーボードだよ。この間はたまたま演出で出たけど、普段はレコーディングやライブの演奏が中心。あんな風に表立ってテレビに出る事は演出じゃない限りないよ。私は主役を彩る側だから。だから、いいんだよ」

私はひどいやつだ。一織が嫌がるとわかっているのに、わざと言葉にして彼へ届けている。
氷嚢を外し、痛みを押しのけて笑顔を彼へと向けた。
一織は泣きそうな顔をして、口を一文字に結んで何かを堪えるように首を振る。

「お願いだから……こんな真似はもう、しないで……」

一織の手が私の両腕を弱弱しく掴んで、左肩に顔をうずめるように身を預けた。
ふわりと一織の香りが鼻を掠める。彼の体温がじんわりと広がり「なんて暖かいんだろう」と思った。

「うん。ごめんね、一織」

そっと壊れ物に触れるように、一織の腕へと手を重ねる。
その腕は記憶の中とは違う、男の人の体つきだったけど、不思議とその体温が私を落ち着かせてくれた。

「ごめんね」

一織は私の腕を掴む力を強めていった。
まるで私がここにいる事を確かめるように。不安な気持ちを和らげるように。
……否、違う。
それは一織じゃなくて、私の方だ。


JIMAまであと数週間。
数週間後にはきっと、私を掴むこの腕はさらなる未来を掴んでいく。
近づいたと思ったら離れていくこの腕を、これから先、何度追いかける事になるんだろう。


とてつもなく幸運で恵まれたこの時間を噛みしめたら、私の手も自然と力んでいった。