幻想を飲み干す

昔の人はよく師走という名前を付けたものだと歳を重ねる毎に思うようになった。
小さい頃は「もういくつ寝るとお正月」という歌通りに今か今かと巡るめくイベントを心待ちにしていたというのに。
気が付けば新年を迎えていて、身の回りに起こっている大きな出来事に判然としないままでいた。

「沙也、そんなところいないでこっちおいで!」

モモさんが手招いて私を呼ぶ。名前を忘れてしまったノンアルコールカクテルで満たされたグラスを慎重に持ち直し、ドレスの裾を軽く整えてモモさんのもとへと向かう。
モモさんの隣に並ぶようにして立つと、近くにいた人物たちが私を見た。「紹介するよ」とモモさんが私の背中を軽く叩いて言う。

「さっき話してたキーボードの子。沙也、挨拶して」
「は、初めまして。橘沙也です。よろしくお願いします」

緊張で声が上擦ったのをモモさんが笑い「沙也、リラックス!リラックス!」となだめる様にまた背中を叩いた。縋る様にモモさんを見つめるが、それを許さないように片手で簡単に体の向きを操作されてしまい、私は目の前の人物と嫌でも向かい合わなくてはならなくなった。
モモさんの左手は私の背中を捉えたまま動かない。まるで張り込みの刑事のように、こちらの動きをずっと監視しているように思えた。

「ごめんね。この子、こういう場にまだなれてないの。キミたちみたいなイケメンにドキドキしてるみたい」
「Re:valeさんと一緒に仕事してるんだ。イケメンには慣れっこだろ」
「そうなの?僕たちの顏見飽きちゃった?ポチ」

モモさんの右隣からひょっこり伺うようにユキさんがこちらを覗いた。その顔は相変わらずイケメンだし、決して見飽きたわけではないけれど、短い期間とはいえたくさん見てきた顔だ。親近感にも似た、安心感がその顔を見ると湧き出てくる。

「人前でポチはやめて、ユキさん……」
「まるで借りてきた犬だね。威勢の良さを事務所に置いてきちゃったみたいだ」

くすくすと小さく上品な笑い声が耳に届く。思わずそちらを振り向けば、優し気な微笑みを浮かべている人と視線が交わった。

「すみません。随分仲が良いんだなって思ったら微笑ましくって」

糸のように細めていた目元が徐々に開き、三日月形の弧を描いた。まるで小さな子をあやすような、宥める様な笑顔だと思った。

「初めまして。TRIGGERの九条天です。こちらは八乙女楽と十龍之介。よろしくお願いします」

思わず生唾を飲んだ。何がどうなって、TRIGGERと挨拶を交わす事になったのだろう。
差し出された九条さんの右手を握るまでの間、年末から今までの出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。





IDOLiSH7はJIMAで優勝し、年末のブラホワでTRIGGERに挑戦する事になった。ブラホワはRe:valeも出場する予定だったので、事務所に用意してもらったチケットで文香と一緒に観覧に行った。
IDOLiSH7もTRIGGERも甲乙つけがたい素晴らしいパフォーマンスだったが、接戦の末、勝利を勝ち取ったのはIDOLiSH7だった。
文香と私は泣いて抱き合いながら喜んだ。
ステージで笑うみっちゃんと一織を見て、これまでの思い出や感情が入り混じり、涙となって溢れ出た。

本当によかった。IDOLiSH7が勝てて、本当によかった。
みっちゃん、一織、IDOLiSH7の皆さん、おめでとう!!

止まらない涙をマフラータオルで拭っていたら、ミスター下岡さんがマイクを通して高らかに放った宣言が私の耳を射止めた。
脳の処理が追い付かず静止する。隣にいた文香が私の両肩を掴んで大きく揺さぶっている。

「沙也聞いた!?Re:vale総合優勝だって!すごいよ!日本一のアーティストだよ!!ねえ沙也!?」

自分のキャパシティを超えると思考が制止するのだという事を身をもって痛感した瞬間だ。
(文香が言うには放心状態の私を自宅に連れて帰るのは相当大変だったらしい。1週間筋肉痛が取れなかったと皮肉と絵文字がたっぷり入ったラビチャが届いたことは別の話だ)

そんなこんなでブラホワ総合優勝者となったRe:valeの祝賀会に私はいる。
ドレスアップをして、見た事のある著名人が溢れかえる煌びやかな会場に入った。
庶民の私には相当場違いな世界に委縮し、陰でひっそりと身を隠していたら目ざとくモモさんに見つかってしまい、なぜかTRIGGERと挨拶をする事になってしまったのだ。



「間違っていたら大変申し訳ないのですが……橘さん、Rabbituberとして活動されてませんでしたか?」

私の手から九条さんが軽やかに右手を解き、思い出したように言った。

「俺もどこかで見た事あるなって思った。あんた、俺らの曲をピアノで弾いてただろ?」
「ああ!ストリートピアノの子か!素敵にアレンジしてくれてましたよね。嬉しいねって、3人でよく話してたんです」

まさかTRIGGER本人たちに認知されているとは思わなかった。突然の事に驚き言葉が出ず、思わずドレスの裾を握りこむ。モモさんの左手が再び私の背中を叩く。その手つきはまるで激励しているようだった。

「あ……ありがとうございます!嬉しいです!」

認知されていた事、褒められた事が素直に嬉しかった。恥ずかしさもあり頬に熱が集まったからか、強張っていた頬が和らいで自然と笑うことが出来た。全身の余計な力が抜けてやっと自然体に近くなれた気がした。

「いつか演奏を聴かせてくださいね。では、また」

九条さんが手土産をそっと置くように、暖かい声を落とした。去って行くTRIGGERの背中を見つめながらふう、とため息を漏らす。
テレビの中より美しく、想像より逞しい人たちだと思った。
絶対的なゆるぎない芯が通っている。
そんな貫禄が彼らにはある。

「沙也でもイケメンを前にするとあんなに上がっちゃうんだね」
「イケメンな僕らを毎日至近距離で見てるって言うのにね。失礼な子だよ」
「違う!そんなんじゃないですって!!」
「おっ、いつもの沙也が戻ってきた!」

モモさんが私の頭を軽く叩くように撫でた。まるでみっちゃんみたいに。

「どう?ちょっとは元気出た?」

ユキさんは誰かに呼ばれたようでこの場から姿を消していた。モモさんは小さな子をあやす様に体を屈めて私の顔を覗き込んで、再びリズミカルに私の肩を軽く叩く。ベアトップドレスを着ていた私の両肩には、モモさんの手の温度がダイレクトに、じんわりと染みるように届いた。

「大丈夫だって!キョウにはまた会える!オレらがしけた顔してちゃあいつが悲しむ。だから笑っていよう。次会えた時に、ハッピーな笑顔でおかえりって迎えられるように!」
「うん、そうだね。モモさんの言う通りだ。ごめんなさい、いつまでもうじうじして」
「いいよ!次キョウに会ったら2人で「ふざけんなー!」ってみっちり愛を込めたお説教してやろう!」

子供の様な笑顔でモモさんは笑った。再び挨拶回りに向かったその背中を見送り、ノンアルコールカクテルを一口含むと、ミューフェスの日の夜が浮かんだ。
グラスに透けるオレンジはとても似ていた。あの日食卓に出された煌びやかなカクテルとそっくりな色をしていた。

「京歌さん、私、言いたい事たくさんあったんですよ」

グラスをじっと見つめる。見つめすぎてぼやけ揺らめく視界とは反し、脳裏の記憶が鮮明にピントを合わした。
これは昨日。事務所のラウンジでの記憶だ。





月詠京歌さんとの連絡が途絶えた。
電話をかけたら冷徹で無機質な音が返ってくるだけ。ラビチャも、メールもすべて返信がなく、足取りが途絶えてしまった。
親しくしている人が姿を消すなんて初めての経験で、私には耐えがたい出来事だった。
受け入れがたい現実に苦しみ放心状態でふさぎ込んでいたら「沙也、どうしたの?」とモモさんが声を掛けてくれ、我に返ることが出来た。
「京歌さんが……」と何気なく京歌さんの名前を出すと、偶然にも2人は親友だという。
世間は狭いと驚きつつ、痛み分け出来る相手が見つかり、張り詰めていた糸が切れたように感情が溢れ出た。

「キョウのバカー!突然姿をくらますなー!」「京歌さんのイケメン!ずるいぞ!勝ち逃げかー!」「沙也、意味わかんないよそれ!」と冗談交じりに、まるでその場に京歌さんがいるかのように思い思いの言葉を吐いて笑った。
ラウンジで桃とりんごのスパークリングとポテチを広げて騒ぐものだから、通りかかった岡崎さんが呆れた眼差しで「まるで宴会ですね……沙也さん、あまり羽目を外しすぎないように」と釘を刺して去って行った。

「当たり前なんてないんだ、沙也」

さっきまでの明るい雰囲気が嘘のように、打って変わってモモさんが言う。

「キョウみたいな事は珍しい事じゃない。だから沙也も後悔しないようにこの“当たり前”を大事にして」

まるで自分にも言い聞かせるような声だった。
それがとても辛く、悲しく思えて、思わず涙が溢れた。
「ちょっ、泣かないで!ほら、モモちゃんの変顔だよー!」とモモさんがいつもみたいにお茶らける。


モモさんの声には重く暗い影がかかっているみたい。
簡単には取り払えないぐらい、雁字搦めになっているって、なんとなく思った。
私の思い過ごしかも、だけど。





グラスの中を一気に飲み干すと、近くに寄ってきたドラムの村田さんが「言い飲みっぷりだな、ポチ。何飲んだの?」と軽く手を叩いて寄ってきた。
口内に残る柑橘系のフルーティーな酸味を、生唾と一緒に奥へと押し込むと、先ほどまで思い出せなかったノンアルコールカクテルの名前が下りてきた。

「シンデレラ」

ぐい、と豪快に口元を拭ったので、村田さんが苦笑いして「もっとお淑やかにしなさい」とお父さんのような口ぶりで私を制す。
それに反抗するようにべっ、と小さな子供と同じように舌を出した。

「だって私はシンデレラみたいなお姫様じゃないもん!」

ドレスを翻して新しいドリンクを取りに向かおうとしたら、TRIGGERの九条さんと目が合った。
恐らく先ほどのやり取りを見られていたのだろう。
まるで静かな水面にさざ波が広がっていくような笑顔を浮かべてこちらを見つめていた。