ゆらめく面影

「望月さん?」
「そう。私のクラスの。知ってる……?」
「まあ、名前と顔ぐらいは」
「あのね。一織と話してみたいんだって」

一織がモテると認識したのは中学にあがってすぐの事だった。
この頃から一織は集団行動をあまり好まず、1人で過ごしている事が多かった。
今より女子とは話していたかもしれないけれど、男子生徒も含めて親しげに話せるのは幼馴染の私だけだった。
だから一織を好きになった子たちから「協力してほしい」「間を取り持ってほしい」といった趣旨の相談を持ち掛けられる事が多かった。
今となってはうまくやりこなす術を知っているけど、この頃の私は馬鹿正直だった。
「なんで直接一織に言わないの?」と素直に思った事を言ったら、望月さんと仲の良い女子たちは一丸となってこちらに牙をむいた。
「どうして協力してくれないの?」「橘さん、一織くんと仲が良いからって調子に乗っている」と言った風に一気に悪者のように祀り上げられ、初めての経験に怯み落ち込んだ私は断れず、一織と望月さんのつながりをつくるきっかけ作りに加担したのだ。

「嫌です。沙也を介してじゃないと話しかけれないような人は願い下げです」

しかしそのきっかけを呆気なく一織はへし折った。
望月さんは容姿が整っていて男子生徒からも人気が高かったので、とても衝撃的だった事を覚えている。
あんなかわいい子に狙われていても靡かないだなんて。

「大体あなたもあなたです。今後、同じような事をしたら絶交ですからね」

とても驚いて、開いた口が塞がらなくて。
でも同時に、とても、とても、

「……うん!」

嬉しかった。一番仲が良いのは私だと言ってもらえている気がして。
小さい頃は絶望的に思えた”絶交”と言う言葉に私たちの絆が垣間見えて、なんだかくすぐったかった。

一織と一番近くで話せるのは、私。

ケンカもたくさんする。少女漫画や映画みたいに甘い言葉を囁き合うような間柄でもない。けれど一織の前ではありのままの私を見せれた。喜びも、悲しみも、情けなく醜い部分まで、全部、全部。
だって、私と一織の間には絶対的な信頼があるから。
この特別はこの先もずっと続くんだって、そう、思ってたの。



モモさん。当たり前を大事にするのは難しいよ。
大事にしようにも、あまりにも自分の中に溶け込み過ぎて、私の一部になりすぎてるから、これが当たり前なんだって気付くのは、失ってからだもの。

「その前に気づけるように、いつかなれるのかな」

夜風が私の独り言を掬い、さざ波の音へと溶かした。
頬に残った涙の軌跡はすっかり乾いていた。
体中が冷えていたけれど不思議と寒くなかった。

カフェを飛び出て、無我夢中で走りついた場所はゼロアリーナだった。
柵に寄りかかって海風を浴び無心でゼロアリーナを眺めていたら、頭が空っぽになって心地よかった。
どのぐらい時間が経ったかはわからない。
両親は出張で福岡に2泊すると言っていたから、どうせ家に帰っても1人なのだ。
今は水面に浮かぶ月とスポットライトが揺らめく様をいくらでも眺めていたい気分だった。

けれど、

「沙也!!」

私の体が意志と反した行動をとる。
聞きなれた声がそうさせた。寒さで強張り回りにくい首を反射的に、強制的に動かされた。
そこに肩で息をしながら、寒さに似合わない程の汗を拭っている姿を見た。

「みっちゃん……?」

名前を呼ばれ、膝に手を付いて息を整えた彼はゆっくりと体を起こして私を捉えた。
それを合図にしたかのように激しい剣幕でずんずんと近づいてくる。
思わず後ずさりをすると、さきほどまで支えてくれていた柵がまるで鞍替えをしたかのように、逃がしはしないとこちらを抑え込んだ。

「おまえ、こんな時間までなにしてんだ!!電話も通じねえし、ラビチャも返ってこねえし、こっちがどれだけ心配したと思ってんだよ!!」
「えっ、連絡……?」
「ケータイ見てみろ!ケータイ!!」

ポケットに収まっていたスマートフォンを引き上げると画面は真っ黒だった。
ボタンを押しても全く動かない。思わず顔を上げるとみっちゃんと目が合った。
眉間に皺を寄せて、睨むように私の動きを観察している。

「充電、切れてるみたい……はは……」
「はは……じゃねえ!!!」

みっちゃんは私の両頬を思い切り掴んで引っ張った。
寒さで感覚が乏しい頬にもじんわりとした痛みが走る。
思わず「いひゃい!」と間抜けな声が漏れ出た。

「ごめん、な、さい……」

私が謝ると、みっちゃんはまだ何か言いたそうだったがそれをぐっとこらえて口を一文字に結び、手を離してくれた。
小脇に抱えていたマフラーを、包帯を巻くようにぐるぐると私に巻き付け、
「おばさん?三月です。沙也見つけました。これから連れて帰ります」と片手間に私の母へと連絡を取っていた。
電話越しに母が私を呼び、荒々しい罵声ともいえるような説教が聞こえた気がしたけど、みっちゃんのマフラーのおかげでそれはよく聞こえなかった。(ということにしておいた)

「ほら、帰るぞ」

みっちゃんは私の手を引く。
明らかにまだ怒っていたけど、手元は優しく私を包んでくれている。
みっちゃんの手はとても暖かかった。
寒さでかじかんだ手はすぐにその体温を受け入れる。指先に感覚が戻ってくる。
首元のマフラーからはみっちゃんの香りがした。胸がぎゅっと締め付けられる、でもそれがたまらなく愛おしい香りだ。

通りかかったタクシーを止め車内に乗り込んだ後も、みっちゃんはずっと手を握っててくれた。
何も聞かず、ただじっと寄り添い、まるで背中を叩いて励ますように、何度も手を握り直してくれる。

「大丈夫だよ」

みっちゃんは囁くように言う。
何も言っていないのに、「わかってるから」と温かみを孕んだ声で言う。

みっちゃんは昔からそうだった。
一織とのケンカがこじれて泣いている私にそっと寄り添って、「大丈夫だよ」と魔法の呪文のように繰り返す。

優しいみっちゃんが大好き。
でも、この時ばかりはその優しさがひどく痛かった。
だから私はいつも泣き止むことが出来ないままで、それは今も同じで――……。



だって、大丈夫って言うみっちゃんの顔は、いつも、とても悲しそうなんだもの。










(1、55、31、85、91、77、33、109、31……。
あれ、さっきも31って言った気がする。やべえ、わかんなくなってきた。)

いつしかと同じように、三月は素数を数えていた。
心臓が煩いほど激しく脈をうつ。真冬だというのに異常なほど頬が熱い。
三月は深呼吸した。体中に酸素を巡らせて、パンクしそうな思考回路をクリアにしたかった。
「落ち着け」と自分に言い聞かせて自問自答する。
オレは今、何がどうしてこんな事になってるんだ?


規則正しい寝息が耳元に届く。
振り向けはしないものの、三月はじろりと背中越しに睨みを利かせた。

(もとはと言えば、こいつのせいだ!!)

当の本人は三月の気なんて知りもせず、「このケーキ、全部私の……」と何とも呑気で間抜けな寝言を漏らしている。

何がどうしてこうなった。
深く長いため息をつき、三月は寮に着いてからの出来事を振り返った。





出張先にいた沙也の母親から「あの子と連絡が取れないんだけど、三月くん知らない?」と連絡が着て、三月は慌てて寮を飛び出した。
あちこち駆けまわってやっと見つけたというのに、当の本人はあっけらかんとしていて、三月はそれが非常に癪だった。

沙也の様子を見て落ち込んでいる事は明らかだったし、大体の見当はついた。
ここ最近、同じように苛つき落ち込む弟の姿をずっと見ていたからだ。

(また喧嘩したのか。こりねえな、一織も、沙也も)

半ば呆れつつ三月は沙也をタクシーに乗せた。相当な時間をあの寒空の下で過ごしていたのだろう――……沙也の体中はすっかり冷え切っていた。
沙也の家まで向かおうとしたが、慌てて飛び出したものだから、生憎自分の帰路を含めた金額を持ち合わせていない事に気づいた。
少し悩んだ末、やむを得ないと三月は振り切り、運転手に行き先を伝えた。



「な、なんで私がここに?」
「仕方ねえだろ。おまえ、体冷えきってるからこのままじゃ風邪引くぞ。早く風呂であったまってこい!」

戸惑う沙也を半ば強引に寮へと押しやった。バスタオルや着替えを持たせ浴室へと案内し、その間に冷凍していたチャーハンを温めて直して食卓に飾った。
「どうしよう……ファンの子にばれたら刺される……どうしよう……」とブツブツ呟きながらリビングに戻ってきた沙也を座らせ、「ほら、早く食えー」とまるで尋問する警察官のような台詞を言う。
沙也は最初こそ遠慮がちにおずおずとしていたが、空腹に耐えきれなかったのかあっという間にチャーハンを平らげしまった。
相変わらず気持ちのいい食いっぷりだなと、三月は感心したが口にはしなかった。

「みっちゃん、ありがとう」

三月に煎れてもらったお茶の入ったマグカップをまるで宝物のように、大事そうに持ちながら、沙也はぽつりと言った。
並ぶように三月がソファに座る。沙也の頭をいつものように2回ほど撫で、三月は笑った。

「いいんだよ、沙也が元気になってくれるならさ。どうせ一織にちゃんと伝えられてなくてケンカしてんだろ?」
「伝えられてはないけど……それだけが原因じゃないって言うか……」

三月は思わず笑った。
マグカップを机に置き、膝を抱えていじける沙也の姿は幼少期の頃によく見た光景と瓜二つで、微笑ましくなったからだ。

「明日、ちゃんと一織と仲直りしろよ。じゃあオレ風呂行ってくるから、ゆっくりしてな」

囁くように小さな声で「……うん」と返事をする沙也が可愛らしく思えて、三月は再び頭を撫で、リビングを後にした。





風呂を済ませて戻ると、沙也はソファで丸くなって眠っていた。
声を掛けても起きる気配がなかったので、仕方なく三月は沙也を自室へ運ぶことにした。

抱き上げると沙也がむず痒そうに声を漏らした。
一瞬起こしたかと思ったがそんな事はなく、三月の胸元に頭を預け、細くゆったりとした寝息をたてる。
あどけない寝顔が、三月のすぐ近くにあった。

「……おっきくなったな」

自分の練習ジャージを貸していたが、沙也には少しだけ大きかったらしく、よく見ればズボンの裾はロールアップされていて、袖からは指先がほんの少しだけ顔を覗かせているだけだった。

「いや、意外と小さい……?」

まるで会話をしているかのような独り言を零した。
自室に着き、ベッドにゆっくりと沙也を降ろすが相変わらず全く起きる気配はなく、三月は逆に心配になった。

「おまえ、無防備すぎんだろ」

三月の声など全く届いてない。
気持ちの良さそうな沙也の寝顔を見ていたら一気に気が抜けて、再び愛おしいという感情が生まれた。三月の眼差しはとても暖かかった。
小さな赤子にするように、優しい手つきで沙也の肩まで布団をかけてやる。リビングで眠る用の毛布をクローゼットから出そうと考えていた時だった。



急激に働いた引力により、三月の視界はぐるりと回転した。

驚きのあまり声が出なかった。
目の前には幼馴染の寝顔があった。眼前。目と鼻の先。すぐ側。
自分の鼻に沙也の寝息が降りかかるほどの距離に。

右手は沙也にがっしりと掴まれていた。
脳内に幼少期に付けられていた本人の嫌がる渾名が浮かぶ。
納得せざるを得ない程の腕力だと、三月は密かに感心した。

(いやいや!そうじゃねえだろ!!)
(さすがにまずいだろ。何か起こってからじゃ遅いんだって!)
(起こるわけねえだろ。沙也だぞ?妹だぞ?よちよち歩きの時から見てるんだぞ?)
(いや、よかねーよ!!)

普段メンバーに発揮するようなキレのあるツッコミを自分に向けた。
錯乱状態になりながらもどうにか掴まれた腕を振り切る事に成功しベッドから出ようとしたが、再び凄まじい力でパーカーを引っ張られ、ベッドの中へ戻されてしまう。

(もういいや、諦めよう……)

三月は根負けした。
幸い先ほどのように向かいあっているわけではなく、自分の背後で沙也が眠っていたので、このまま朝までやり過ごせばいいと思った。
明日がオフでよかった。三月は心底思った。

「!!!」

しかし、それは甘かった。
幼馴染は予想外の行動に出た。まるで抱き枕に身を委ねるように、全身を密着させてきた。
三月の背中には柔らかく暖かい感覚がはっきりと伝わってきた。
これはもしかして、もしかしなくても、自分には持ち得ないアレではないだろうか。

(落ち着け、素数だ、素数……)

ここで冒頭のシーンへと戻るのである。
背中に意識が向かないように必死に自分の手をつねり、痛みで気を散らそうとした。
落ち着け、落ち着くんだ。
まるで興奮した犯人をなだめる様に自分に言い聞かせた。

「みっちゃん」
「ああ!?」

不意に名前を呼ばれ、裏返った声が出た。
しかし呼んだ張本人から会話は続けられることはなかった。
背中越しに再び規則正しい寝息が流れてくる。

「どんだけはっきり寝言言うんだよ、おまえ……」

振り回され過ぎた三月は消耗しきっていた。
早くこの腕を解放するか、朝が来てくれないだろうか。
今日はもう眠るのは諦めよう。
沙也が帰ったら改めてゆっくり眠ろう。



「みっちゃん」
「なんだよ……」

寝言とわかっているのにあまりにもはっきりとした口調で呼ばれるので、律儀にも三月は答える。
つねられ過ぎた左手は麻痺し始め、痛みを感じなくなってきていた。

「大好きだよ」
「お、おう。ありがとな」
「大好き」
「わかったって」
「大好き……」

三月は答えるのをやめた。
どうせ寝言だ。
起きたら沙也は覚えていない。
きっとこれも、いつもの通りの愛情表現の1つで。

「好き……みっちゃん……」

絡まる腕が縋る様に自分を掴むのも、
切なそうに名前を呼ぶ声も、
きっと全部、勝手な思い過ごしで――……



「私を、みて……」





カーテンの隙間から月明かりが差している。
細く長く続く光は2人を跨いでフローリングへと続いていた。

三月はその光をただ見つめていた。
彼女の寝息と、体温と、泡のように脆い言葉を、背に受けながら。