ライン

私を音楽の道へと導いたのは、ショパンでもラフマニノフでもラヴェルでもない、みっちゃんの歌声で奏でられる”ゼロ”の歌だった。
名前の通りのゼロ地点。
ゼロ個人に思い入れはないけれど、そういう意味では特別な存在。


「昨日モモと話して決めたんだけど、ゼロアリーナのこけら落としでDis one.を歌おうと思う」


そんなゼロの歌を、Re:valeは歌うという。
それもゼロアリーナのこけら落としという、盛大な舞台で。

ユキさんの声は、驚くほどに落ち着いていて、冷静な音だった。
けれど瞳は力強く、尊敬の念と音楽への愛が見え隠れしているように見えた。
それはモモさんも同じだった。

「もちろん、君たちと一緒にね」

さも当然だと、簡単なことだというような口ぶりでユキさんは言う。
私を含めたバンドメンバーの背筋が一気に伸びたのがわかった。
その様子がおかしかったのか、モモさんは笑って、私達を励ます様に「大丈夫だって!」と明るく言う。

「歌われない歌はかわいそうだろう。あんなに素敵な歌なんだ。君たちの奏でる、最高のメロディーに乗せて歌いたいんだよ」

ユキさんは薄く微笑む。
眼差しは愛しむように暖かくて、蝋燭にともる炎のようにわずかに揺れていた。

息をのんだ。
ドクン、ドクン、と脈打つ音が強く響き、指先が石のように冷え固まっていく。

私が、ゼロの歌を弾く。
あのゼロの音を奏でる。
私でいいのだろうか。
こんな私が、ゼロの音を奏でていいのだろうか。

「頼むよ、沙也」

こちらの考えなどお見通しだというようにユキさんは私を捉えた。
ずるい。
普段はあだ名で呼ぶくせに、こういう時は名前で呼ぶなんて。

やっとの思いでかぶりを振る。
心臓の音は、一向に静かになる気配などなかった。










少し日に焼けて黄ばんだ色紙に、黒いサインペンで書かれたサインが凛として浮かんでいる。
額縁に入れて大切に飾られているのに変色してしまうなんて、それほどに時間が経過しているという事だ。

「沙也ちゃん、大丈夫ですか?」

降りてきた声で我に返ると、心配そうなおじさんの眼差しが飛び込んできた。
覗き込むようにこちらを見ていて、あまりの近さに驚き、思わず出た声は裏返ってしまった。

「大丈夫です!ごめんなさい!紅茶!冷める前にいただきます!」と用意してもらったダージリンを啜ると、思いのほか冷たい液体が口内に流れてきたので、再び驚いて慌ててカップをソーサーに戻した。
ホットを頼んだはずなのに……。茶葉はカップの下に固まる様に沈み、すっかり冷え切っていた。

「体調が優れないですか?さっきから声をかけても反応がなかったので……」
「い、いえ!そんなことはないです。ちょっとぼーっとしちゃって……」
「そうですか。最近は寒いから気を付けてくださいね。紅茶、淹れ直しますよ」
「あ、ごめんなさい……ありがとうございます」

カップとポットを下げてくれたおじさんの背中を見て、ため息をつく。
テーブルに伏して窓際を見れば、ロールスクリーンの隙間からすっかり暗くなった藍色の景色が見え隠れした。

ユキさんとモモさんからDis one.を歌うと宣言された後、私は練習する気にはなれずそのまま帰宅し、途中で『fonte chocolat』を訪れた。
新作ケーキを注文してテーブル席に座ったが、店内に飾られていたゼロのサイン色紙が目に留まり、しばらく呆けてしまったのだった。
気が付けば辺りはすっかり暗くなり、ロールスクリーンと”Closed”の看板が下りている。
ざっと2時間は経過しているだろう。
腑抜けた自分の行動に、我ながら呆れてしまう。

「何寝てんだよ。ほら、淹れ直してやったぞ」
「ありがとうございま……えっ!?」

聞きなれた声に飛び起きた。目の前にいる人物に驚き目も口も全開に開いてしまう。
だってそこにはエプロンをつけて、ティーポットを運ぶみっちゃんがいたのだ。

「なんでみっちゃんがいるの!?」
「実家にいちゃ悪いかよ。言っとくけど、おまえがぼーっとしてる間、ずっとオレは接客してたんだからな」
「全然気づかなかった……」

みっちゃんは手際よくカップにダージリンを注ぎ、「ほら、早く飲みな」と私を促した。
温かい湯気と優しい茶葉の香りが鼻を掠める。一口飲むと強張りが解けて、少しだけ体が軽くなったように思えた。
みっちゃんは薄く笑い、肩肘をついて私を見つめている。

「おまえ、なんでずっとゼロの色紙見てたんだよ」
「え?色紙?」
「違うのか?ずっとあそこみてたじゃんか」
「まあ……うん。ここにゼロが本当に来たんだなあって思って……」

私は濁す様に再び紅茶を口に含んだ。
ジトっとしたみっちゃんの視線から逃げるように、一気にダージリンを飲み干す。
カップをソーサーに戻し、わずかに残った茶葉を見つめて、言った。

「みっちゃん、ゼロの歌を聞いた時感動した?」
「なんだよ急に。何度も話してやったろ?」
「うん。でもなんか、また聞きたくなったの」

みっちゃんは怪訝そうに、何か言いたそうに私を見ていたけど、ふと息をついて話し始めてくれた。

「まるで夢みたいだったよ。おいしいケーキのお礼に歌うよって、言ってくれてさあ……!」

みっちゃんは懐かしむように、まるで昨日のことのように嬉々としてゼロの思い出を語る。
幼い頃から変わらない。とてもキラキラした瞳だ。

「みっちゃん、ゼロってすごいねえ」
「ああ!すげえよゼロは!伝説のアイドルだよ!」
「うん。そうだけど、みっちゃんをこんなに感動させられるんだもん。だから、すごいよ!」
「はあ?なんだよ、それ」

色紙の色も変わっちゃうぐらい昔の出来事のはずなのに、彼の笑顔はずっと色褪せない。
ゼロの歌は、それほど魅力的な歌なんだ。
そんな素敵な歌を奏でるチャンスを、私はもらえたんだ。
しかも、あのRe:valeと。すごいバンドメンバーと一緒に。

それって、これほどない、とてつもない幸運だ。

「私、頑張る!!!!」

こんな私が、なんてうじうじと悩んでるなんてらしくない。
せっかくもらえたチャンスを棒に振るなんてもったいない!
弾いていいと言ってもらえたんだ。挑戦しないなんて、女が廃る!!

「お、おう。なんだよ急に」
「なんかね、みっちゃんの話聞いてたら頑張るぞー!ってなったの!」
「なんだよ、それ」
「みっちゃんの笑顔ってね、見てると頑張る!って気持ちになれるんだよ!すごいの!パワーが!」
「はは、ありがとな」

みっちゃんは照れ臭そうに笑った。
暖かみを孕んだオレンジの瞳が小刻みに揺れていて、とても綺麗。
この笑顔は、あの時と似てる。
ブラホワのステージで見せた、あの日の笑顔にそっくりだ。

「さっきみたいに好きなゼロの話をする時の笑顔も好きだけど……アイドルの時のみっちゃんの笑顔が一番好きだなあ」

みっちゃんは目を大きく見開いて、顔を真っ赤にして止まった。
「おまえ、よく恥ずかしげもなく言うな……」と小さく零してそっぽを向く。
少し間をおいてこちらを見たかと思うと、みっちゃんはこちらを見て言った。

「オレも同じだよ。沙也を見てると頑張ろうってパワーをもらえる。ありがとな」

驚くほどに優しい声だった。
それは心地の良い音となって私の中へと溶け、体中に広がっていく。
トクン、トクン、と。
事務所で感じたときとは違う、低く丸みのある心臓の音が響いている。

みっちゃんはずるい。
あなたの些細な一言でこんなにも舞い上がってしまうのに、知りもしないなんて。

彼の瞳に私が浮かんでいる。
いつしかのあの日もこんな情景が浮かんでいた。

今なら、彼への想いを素直に伝えられる気がする。

「みっちゃん、あのね……」



私が切り出すと、彼は被せるようにして言った。

「それはきっと、一織も同じはずだから。これからも、おまえはあいつを支えてやってくれよな」



みっちゃんはずるい。
あなたの些細な一言でこんなにも翻弄されてしまうのに、気づきもしないなんて。

「これからも一織をよろしく頼むな。アニキからのお願い」



みっちゃんは微笑む。

今まで大好きで仕方なかったそれは、初めて無慈悲で残酷なものに思えた。