接吻未遂

強かで、真直。純一無雑で、恐れ知らず。
彼女を思い浮かべるとそんな言葉が浮かぶ。
濁りのない深い瞳には不思議な引力が宿っていて、和泉一織はそれが苦手だった。

「一織とは違うから」

そう、言われているような気がした。
そんなこと言うはずないと頭では理解している。
けれど、ピアノを前にした彼女はまるで別人で、普段とは打って変わった厳格な雰囲気で、誠実に音楽に向き合うのだ。
決して妥協を許さない、真っすぐで力強い眼差しは、中途半端なものを見下しているようにも思えた。

「あなたにはこんなに夢中になれるもの、ある?」

自分が薄々感じていたところを見破るかのような、その目が苦手だ。

誰よりも彼女のピアノの魅力を理解し、好きでいる自信があった。
それと同時にマウントにも似た強い圧力を放つ彼女の音楽が怖くもあった。
何度か目を逸らした。耳を塞いだこともあった。
けれど不思議とすぐにそれを辞め、再び彼女を見据え、音色に耳を傾けてしまう。
その時、一織は気づいたのだ。



自分の心に棲みついた橘沙也という存在は、想像よりも遥かに大きくて、
この感情を人は、恋と呼ぶのだ、と。










学校に着いたのはお昼休みがあと数分で始まる半端な時間だった。
雑誌のインタビューが思いのほか早く終わり、次の仕事まで結構な空き時間があったので、紡の勧めもあり学校へ行くことにしたのだ。
今から教室に行っても授業を受けられるわけでもないので、一織は三月が作ってくれたお弁当を食べる事にした。
以前訪れた家庭科室を開けると同時に昼休憩のチャイムが鳴った。
先ほどまでの静寂がかき消され、校内に生徒たちの賑やかな声が溢れ始める。

一織は無意識に深いため息を零した。
今はなるべく人の目から離れたかった。喧騒から逃げ出す様に人が立ち入らないであろうこの教室をわざと選んだが、遠くとはいえ大多数の声を聴くだけで憂鬱な気分になった。
脳裏にちらつくいた映像が、鬱々しさを加速していく。

食欲が湧かなかったが折角三月が作ってくれたお弁当を無駄にはしたくなかったので、ラッピングをほどくように丁寧に包みを解いた。
お弁当箱の中からは、うさ耳フレンズのロップちゃんが出迎えてくれた。
彩り鮮やかな、心が躍るようなお弁当だった。重苦しい胸が少しだけ軽くなる。

「ありがとうございます、兄さん。いただきます」と心の中でお礼を言い、プチトマトを箸で掴んだ時だった。

ガラリと、扉が開く音がした。
突然の出来事に思わず一織は息を止めた。
侵入してきた人物はまるで泥棒のように恐る恐る扉を閉め、安堵のため息をもらした。
やっと喧騒から逃げ出せた。そう物語っているような仕草だった。

「……一織!?」

それは沙也だった。
見知った人物だったので警戒を解いた一織は「なんだ、沙也ですか」と小さく本音を零した。

「なんでここにいるの?今学校に来たの?四葉くんは?」
「四葉さんはMEZZOの仕事が入っているのでいません。あなたこそ、どうしてこんなところにいるんですか」
「今日、文香が休みだから……」

会話が終わり、沙也は一織から視線を逸らす。
見覚えのあるその気まずそうな態度は、一織の気に障った。


「ごめん、なんか邪魔しちゃったね。私、もう行……」
「あなたも!」

思ったよりも大きな声だったので、沙也は驚いて目を見開いた。
感情的になった一織はそんな彼女の表情を見て我に返り、徐々に弱弱しい声で言葉を続けた。

「七瀬さんみたいに、私を……避けるんですか」

まるで消え入りそうな声だった。
沙也はゆっくりと一織に近づき、並ぶように腰かける。
持っていたコンビニのビニール袋がクシャリと軽い音をたてた。

一織の脳裏に浮かんでいたのは、気まずそうにたどたどしく笑う、苦々しい陸の笑顔だった。

先日発表した『Perfection Gimmick』の事について聞かれたとき、その笑顔は更に苦みを増した。
一織と視線を合わせようとはせず、精一杯の笑顔を浮かべて答える陸がいた。
仕事だからと割り切ったつもりだったが、心は重苦しく一向に晴れる気配はなかった。
予定していたより早く終わったのは幸いだった。
一織は逃げるようにして家庭科室に潜り込んだのだ。

「一織、一緒にお弁当食べよ」

沙也はまるで何事もなかったかのような声で言った。
ビニール袋からサンドイッチとミルクティーを取り出して、手慣れた手つきでフィルムを引く。
「うん、おいしい」とたまごサンドを頬張る様を、一織はただただ見ていた。
あまりにも平然と、普遍的に食事を進めるので、一織もつられて再び箸を動かした。
ミニトマトの酸味が口内に広がる。
一口食べただけなのに、不思議と徐々に食欲が湧いてきた。
2人で並んで、黙々と昼食を頬張る。
スピーカーから流れるバラードのポップスが空白を満たした。

「どうして何も聞かないんです」

一織は沙也を見ずに言った。
ミルクティーを飲み、一息ついて沙也が答えた。

「なんとなくわかるもん。それに、私が言っても意味がないから」

思いのほか素っ気ない返答だった。
けれど言葉とは裏腹に沙也は微笑みを浮かべていた。
一織を見るその目は、暖かみを帯びていた。

「どうして嬉しそうなんです?」
「だって、一織が友達の事で悩むの、初めて見たから」
「は?」
「今までこんな事なかったじゃん!それだけ七瀬さんが好きって事でしょ?」
「好き!?」

ストレートな表現に過剰反応し、一織が顔を赤くして慌てるので、沙也は声を出してさっきよりも嬉しそうに笑った。

「こうして悩むのも、苦しいのも、全部、一織が一生懸命仲間に――……アイドルに向き合ってる証拠じゃん!前の一織からしたら考えられない事だよ!」
「あなた、バカにしてません?」
「してない!大真面目だよ!大喜びだよ!」
「なんか無性にムカつくんですけど」

一織は逃げるようにして再び箸を動かした。
沙也は上機嫌でたまごサンドを咀嚼する。
悩みを聞いてもらってなどいないし、解決をしたわけでもないのに、不思議と胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。

「沙也」

一織は沙也を呼ぶ。
沙也は振り向き、軽く首をかしげて一織を見た。

(よかった。ちゃんとこちらを見てくれた)

安堵のあまり、一織の口元が綻ぶ。





身近にいた兄も沙也も夢を持っていた。
目標に向かって進むその姿はとても眩しく、活き活きとしていた。
対し自分は夢中になれるものなどなく、ただつまらない日々を過ごしてきた。

三月はよく一織を気にかけてくれた。
そんな優しい、大好きな兄の背中を押そうと、一織は三月に向き合い、真剣に彼の事を何度も考えた。
お互いの事を見て、考えて、思いやる。
それゆえにすれ違う事はあったけれど、兄弟の絆は深いと一織は思う。

けれど沙也は違う。
音楽の事となると猪突猛進に、一心不乱に、あまりにも前ばかり捉えるので、簡単にこちらへ振り向いてなどくれなかった。
夢もない自分など見てくれないのだと、卑屈な考えがよぎる事もあったが、彼女の直向きさがそうさせるのだと、後々に理解した。

それでも一織は、彼女を振り向かせたかった。

挑発的に、沙也が反応しそうな言葉をわざと選んで言った。
素直に反応する沙也が可愛らしく、また意地悪な言葉を落とす。
自分の言葉に一喜一憂する度、一織は秘かに安堵した。

(よかった。これで沙也は私を見てくれる)

あまりにも呆れるほどに幼稚な行動。
それでも一織はよかった。
だってその間は自分の事を考えてくれる。
音楽でも、ほかの友人でもない、自分の事で頭がいっぱいになっている。
もっと自分の事を見てほしい。
そんな自己顕示欲が、沙也に対しては湧き出てくる。





「なに……」

沙也は顔を逸らした。
俯いたようにそっぽを向くので、表情が読み取れない。

「沙也」

再び一織が名前を呼ぶので、少しだけ感情的になりながら、「だから何っ!!」と沙也が振り向く。

「やっと、見てくれた」

箸がゆっくりと降りる。
かじられて小さくなった卵焼きは、そのまま一織の口へと入り込んだ。
ゆっくりと咀嚼し飲み込むと、「やはり兄さんの卵焼きは絶品ですね」と何事もなかったかのように一織は言う。

目を真ん丸に、顔を真っ赤にして、卵焼きを咥えたまま固まる沙也を見て、一織は満足そうに薄く笑みを浮かべ、空になったお弁当箱をしまい始めた。

「言っときますけど、先に仕掛けたのはあなたですからね」

同じように顔をほんのり赤くして、口元を隠して言う一織を見て、「照れ隠しの癖だ」と上の空で沙也は思った。
「仕掛けるって、なに、いつ?なにが?」とたどたどしく精一杯声を出すと、一織は軽く咳ばらいをして立ち上がった。

「したじゃないですか。以前にカフェで、七瀬さんと、マネージャ―のいる前で、その……タルトを、間接的に……」

どんどん顔が赤くなり、最後まで言い終わる前に一織は家庭科室を後にした。
ピシャリと扉が閉じたと同時に、残された沙也はそのまま崩れ落ちた。

「これって……間接……キ……」

2人同時に、人差し指で唇に触れる。
飲み込んだというのに、口内には先ほどの卵焼きの味がしっかりと広がっていた。

とてもとても、甘い味、が。