すっかり温まった体からじんわりと汗が滲んでいた。
軽く上がったままの息が落ち着くのを待ちながら、ただじっとその場に佇む。
誰の邪魔にもならない。ここでの私は取るに足らないくらい、ちっぽけな存在に思えた。
まだ頂点に達していない朝日が光を下ろしていく。
目の前に広がる広大な景色は、何の変哲もないありふれた場所のはずなのに、まるで別世界のように思えるほど綺麗だった。
「きっとみんな、この瞬間が忘れられなくて、この景色をまた見たくて、登り続けるんだろうね」
隣にいたモモさんが口を開いた。
「そうですね。わかる気がします」と私が言うと、モモさんは嬉しそうに笑って「じゃあ、下りる前にちょっと腹ごしらえでもしますか!」と近くのベンチに向かって歩き出した。
「こんな綺麗なところを2人占めなんて、贅沢な朝飯だね!」とモモさんは続ける。時刻を見ると朝の通学・通勤時間だった。
平日という事もありこの場には私たちの姿しかなく、文字通りの貸し切り状態だった。
手慣れた手つきでバーナーとクッカーを取り出し、モモさんはご飯を作り始める。
こみ上げてきた小さな笑みが声となって漏れ出したのを、モモさんは見逃さなかった。
「山頂で食べる飯は格別だよ!モモちゃん特性ラーメン、すぐに仕上げてあげるからもうちょっと待って……」
「ねえ、モモさん。……私、なんで山にいるんでしたっけ?」
火であぶられた水の温度が上がり、クッカーの中で小さくコトコトと音を立て始め、流れる沈黙を埋める。
モモさんはにっこりと微笑んだあと、ごまかす様にお得意のアイドルウインクを投げつけ、そのまま口を閉じる。……要は、流されたのだ。
私は思い返す。
どうして私は今、こうして登山しているのか。
時は昨日にさかのぼる。
いつも通りに事務所で練習をしていたら突然モモさんが部屋に入ってきて、「沙也!ちょっとついてきて!」と半ば強制的に連行され、そのままショッピングに付き合う事になった。
アウトドアショップを中心に何件か回った後、モモさんは車で家まで送ってくれて、
「はい、これプレゼント!じゃあ明日迎えに行くからこれ着てね!寝坊しないように!」と別れ際にショッピングバックを押し付けられた。中には、訳が分からないまま試着をさせられたトレッキングシューズやウェアが詰まっている。
半信半疑で早起きして支度を整えると、赤いテールランプが家の前で止まった。宣言通りにモモさんは私を迎えに来た。頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされたまま車に揺られ、降ろされた目の前に立ちはだかったのは山だった。
「低山だから大丈夫!雪は積もってないよ!」と謎のフォローをされ、私は流されるままに山頂を目指して歩き始めたのだった。
「はい!モモちゃん特性、マウンテンラーメン!沙也には特別にメンマまでつけちゃう!」
差し出されたのはインスタントラーメンだった。湯気には味噌の香りが入り混じっている。
一口スープを飲み込めば、思わずため息が漏れ出た。
「すごい、おいしい……!」
「でしょ!やっぱ山登りと飲み会のシメはラーメンが一番だよね!」
体に染みわたる旨味に目が覚めた。別に眠いわけじゃなかったけど、血の巡りがよくなったというか、生き返った、というか。
兎にも角にもモモさんが作ってくれた、一見何の変哲もないインスタントラーメンは飛び切りのご馳走と思えるほどにおいしかった。
あっという間に間食すると、「沙也は本当、おいしそうに食べてくれるね。作り甲斐がありますなあ」とモモさんが笑っていた。
「……静かですね」
「うん、ここにはなーんもない。余計なものなんて何1つない洗練された場所だもん」
2人で空を見上げた。
いつもより近い位置で見上げた空は、とても青く澄んで見えた。
不思議。雑踏の音や、車のクラクション、電車が来ることを知らせるアナウンス――……普段この時間を埋め尽くしている音は何1つ見当たらない。
まるでとても遠い異世界にワープしたみたいだ。
「この大自然の中にいるオレたちなんて、とってもちっぽけなもんさ。1つや2つ、余計なものを落としていったって、あっという間に風に飛ばされちゃって、なかったことにされちゃうと思うんだよね」
――……だから、吐き出していけば?
声にはならずとも、そう言われた気がした。
気が付けば瞼が降りていた。
冬特有の張り付いた空気の音に酔いしれる。
深く息を吸い込む。冷たい空気が肺いっぱいにたまって、体中に巡っていた毒が湧き上がってきた気がした。
「……うるさくて仕方がないの」
その毒は、言葉になって私の口から漏れ出ていく。
「私の当たり前は、すっかり変わっちゃった。アイナナの事、Re:valeの事、ゼロのカバーの事……いろんな人の、いろんな声で埋め尽くされちゃった」
「そうか……ごめんな」
「なんで謝るの?モモさんもユキさんも、悪い事なんて何もしてない!!」
みんなどうしてわからないの?
こんなにもみんな、真剣に向き合っているというのに。
真摯に、直向きに、溢れ来る弱音や恐怖をねじ込めて、目の前の目標にひたすら突き進んでいるというのに。
その背中はとても輝かしく、眩く、誇らしく尊くて。
「絶対にこけら落としで、うるさい奴らを一斉に黙らせてやる!!!」
モモさんはお腹を抱えて笑った。
「それじゃまるで沙也が歌うみたいじゃん!」とごもっともな突込みが落とされる。
返す言葉もなくて、なんだか恥ずかしくなって、掲げたこぶしを咄嗟にひっこめた。
「本当頼もしいや。さすが沙也さんですなあ。ダーリンにも報告しなくっちゃ」
「だめ!またからかわれちゃう!!」
「大丈夫だって!ユキはジェントルだからそんな事しないよ!」
「それ、本気で言ってます?」
ようやく落ち着いてきたモモさんがこちらを見据えた。
「それだけじゃないでしょ」と、瞳が訴えている。
何か言われたわけじゃないのに図星を付かれ、苦虫を噛み潰したような気持ちになった。
「今まではね、みっちゃんの事も、一織の事も、全部わかってる気がしてたの」
みっちゃんが私を遠ざけた。
初めはショックだった。けれど、『キミと愛なNight!』を観て、やけに腑に落ちてしまった。
みっちゃんは目の前の事に一生懸命向き合っていた。
アイドリッシュセブンのために、ファンのために――……そんな思いがひしひしと伝わってきた。
一心不乱に励む彼の中に、図々しくも私は入り込もうとしてしまったのだ。
そんなスペース、どこにもないのに。入り込むべきではないというのに。
自分の傲慢さを恥じた。
それと同時に悲しくもなった。
きっともう、私の”妹”という役目は終わりを迎えたのだ。
だって、その場にいたのは、私の知っているみっちゃんではない、アイドルの、アイドリッシュセブンの”和泉三月”だったから。
「2人とも私の知らない人みたい。何でも知ってるはずだったのに、なにも分からなくなっちゃった」
初めて友人の事で悩む一織を見た。
今まではみっちゃんと私の事でしか一喜一憂しなかった彼が、七瀬さんとの事でひどく落ち込んでいた。
でもその顔は、昔見た落ち込んでいる一織の顔と変わらなかったから、嬉しくもあった。
よかった。一織は変わらない、私の知っている一織だ、って。
でもそれは私の思い過ごしだった。
時折、見せた事ないような優しい顔をして、穏やかな声で、囁くように寄り添う。
まるで知らない男の人みたい。
一織のバカ。
一織はずっと変わらないでいてくれるって思ってたのに。
この先も、まるで一緒に育った兄弟みたいにいてくれるって、思ってたのに。
「寂しいね」
モモさんがあまりにも優しい声で言うから、堪えてたものが溢れてしまった。
たくさん涙が出てきた。
自分の抱えていたモヤモヤを、モモさんが言葉にしてくれたことが嬉しくて、またそれを受け入れるのが悲しくて、堰を切って涙が溢れ出てしまった。
「うん。寂しい。ずっと一緒がよかった……」
モモさんはうん、うん、と相槌を打ちながら優しく背中を擦る。
小さな子供のように、モモさんの胸を借りてたくさん泣いた。
しゃっくりが出てくるほど大泣きしてしまったから、「それだけ泣いたら、デトックスは成功かにゃ?」といつもみたいに茶化されてしまった。
相変わらず辺りは静かで、何事もなかったかのように、悠然と自然が広がっている。
モモさんの言った通り、私のちっぽけな悩みは風が攫ってくれたのだと思えた。
「沙也の音色がどうしてあんなに魅力的なのか、分かった気がするよ」
帰りの車でモモさんがぽつりと言った。
車内は暖かくて、泣き疲れもあってうつらうつらとしていた私を見て、モモさんは微笑む。
迫りくる睡魔に負けまいと瞼に精一杯力を入れているのに、思いと反して意識は遠のいていく。
「ははは。まるで子供だな。いいよ、寝てて。ついたら起こしてあげる」
モモさんが私の頭を撫でた気がした。
みっちゃんとも、一織とも違う手。
けれど、とても心地よい手。
悩み苦しんでいる私に手を差し伸べてくれた、暖かい手。
「ありがとう、モモ、ちゃん……」
精一杯の声を振り絞る。
少しだけ間をおいて、ははは!と笑い声が響いた。
「モモちゃん呼びだ!」
嬉しそうな笑い声が、心地よく耳を打つ。
再び撫でる手の温度を感じながら、毒の抜けた軽くなった体を、微睡の中へと委ねていった。