ノットアウェアネス

「どうした?」

一生懸命、ありったけの力を込めて沙也が手を握るので、三月は尋ねた。
この力強さは歩道橋を一緒に渡る時のものと似ていた。
沙也は高所恐怖症のようで、歩道橋を渡る時は決まって三月の手を握った。
縋るように手を震わせて、ひたすらこちらを見つめて歩くその様は、普段のお転婆な彼女からは想像しがたい一面で、怖がっている本人には気の毒だが、三月にはとても愛らしく思えた。

けれどこの力強さに恐怖は感じられない。
固く目を瞑って、祈るように、念じるように、必死に何かを訴えているようだった。
三月の声にはっとして、目を大きく見開き、焦ったように言う。

「もしかして、とどいてない?」
「声?」
「わたしのだいすきってこえ、とどいてないの!?」

ひどくショックを受けたようだった。
口を大きく開け、落胆と驚愕の混じったその表情には、「ガーン」という効果音が背景に添えられてそうだ。
どうやら手を握れば自分の気持ちが届くと思っていたらしかった。

「沙也、言いたいことは言葉にしないと。そんなに簡単に気持ちってのは伝わらないんだよ」
「そっかあ。みっちゃんにとどいてるっておもってたのに。むずかしいねえ」
「まあ、なんでも言葉にすればいいってもじゃないけどな。それに沙也がオレのことを大好きだって気持ち、前からちゃーんと伝わってるよ」

純粋な沙也が可愛らしくて、微笑ましくて、三月は目線を合わせて頭をくしゃりと一撫でした。
沙也は顔を明るくした。弾けるような笑顔をこちらに向け、「よかったあ!」と、握る力をわずかに強めた。

「やっぱりとどいてた!みっちゃんってすごいねえ!」

「おまえがわかりやすすぎるんだよ」と言いかけたが、あまりにも嬉しそうにニコニコと笑うので、三月は咳払いでごまかした。

「オレと沙也は一緒にいる時間も長いからな。他の友達は同じようにはいかないからな。出来るだけ言葉で伝えるんだぞ。でも、言葉もちゃんと選んで」
「ええー。むずかしいねえ。沙也、ことばはにがてー」

まるで他人事のような言葉に肩を落としそうになる。
沙也は悪びれる様子もなく、三月の手を握り直して笑った。

「いつかこうやって、てをにぎるだけでつたわるようになったらいいのにねえ」





「本当、そうだな」

手のひらを見つめて呟く。
何も背負う事のなかった、ただ幸せに過ごしていた頃の、綺麗な思い出の断片は、三月の心を締め付けた。

IDOLiSH7のファンの子たちと1人1人握手をして、気持ちが伝わってくればいいのに。
オレに求めている事はなにか、オレがどうするべきなのか――……誰でもいいから、テストの答案みたいに、白黒はっきりした答えを教えてくるヤツはいないのだろうか。

出口のない、真っ暗な道を彷徨い続けている気分だ。
今は何をしても不正解な気がした。ファンの子たちの視線が怖くてたまらなかった。
信じたいのに、何を信じればいいかわからない。
昔から自分を慕ってくれている沙也の言葉でさえ、今は信じられる気がしない。

「オレは、どうしたら――……」



カーテンの隙間から夜空の光が差し込んでいたけれど、膝を抱えて蹲る三月は気づくことが出来なかった。

無数の星々と月。
それぞれの輝きが集い重なった柔らかな光が、彼を照らしている事に。










学校をサボって、モモちゃんと一緒に登り辿り着いた山頂は、私を生き返らせてくれた。
高いところが苦手だから山なんて絶対に無理だって思ってたけど、拓けた空に恐怖心なんてものは微塵もわかなくて、その綺麗さに心が奪われた。
(「ここが山頂だよ!」と、『山頂』を示す看板が立つ場所には立てなかった。不安定な足場が私の恐怖心を煽り、ここが地上より遥かに高い位置であることを実感させた)

フラストレーションがたまった私を見かねてここに連れ出してくれたんだと思うと、モモちゃんの優しさが嬉しくて、胸が温かくなった。
本当に感謝しかない。
モモちゃんのおかげで気持ちを立て直す事が出来た。ようやく『ゼロアリーナのこけら落としを成功させる』という目標に専念出来そうだ。

モモちゃんって、本当にすごい人。
周りの事をたくさんみて、私だけじゃない色んな人達を、モモちゃんのやり方で励まし支えていく。
まるでなんてことない、とっても簡単なことだっていうように、平然とした顔で。
そんなすごい人だから、たくさんの人を惹きつけるのは当然だと思った。
こんな人と一緒に音を奏でられるなんて、なんて光栄な事だろう。
自分の幸せを改めて実感する。
『Re:vale』のキーボードとしていれる事は、この上ない誇りだ。



だからこそ、この”当たり前”も大切にしようと思った。
いつか形を変えて変わってしまうかもしれない。失ってしまうかもしれない。
けれど、何もしないでただ後悔するだけにはしたくない。
結果、後悔することになってしまったとしても、あの差し伸べてくれた手に誠実でいたい。

だから、





「沙也、心配しすぎだって。ほら見て!モモちゃん、こーんなに元気いっぱいでしょ?」

収録が終わり私服に着替え終えた私は、楽屋から出てきたモモちゃんの姿を見つけた瞬間に駆け出した。
あまりの勢いにモモちゃんが驚き、「おっと」と立ち止まる。
いつもと変わらない明るい笑顔を浮かべて、お茶らけながら私の肩を叩いた。

「オレ、この後病院に行くから。大丈夫!心配いらないって!今日はたまたま声が出なかっただけ、すぐ治っちゃうから!ね、ユキ?」
「ああ。何も心配いらない。必ず治るさ」

ユキさんもモモちゃんも、まるで自分に言い聞かせるみたいに言う。
私に余計な心配をかけないようにって、わざと明るく振舞っているのがわかった。

今日は歌番組の収録で『Dis one.』の歌う予定だった。
『Re;vale』の『Dis one.』は初めてのお披露目だったので、生演奏で収録する予定だった。

そう、予定だった。


モモちゃんは歌えなかった。
歌おうとしたら声が出ないという。
会話は出来るし、大声も出たので何度か録り直してみたものの同じだった。
結果、私達は演奏する事なく、あらかじめ用意された録音音源を流して2人が踊る、という形で収録は幕を閉じたのだ。


「ほら、今日はIDOLiSH7もいるから挨拶してきなよ!帰る時は村田っちに頼んで……」
「行かない!」

自分でも驚くほど大きな声が出て、フロアに私の声が響き渡った。
感情的な声は思ったよりも遠くへと届いたようで、廊下にいた複数の人たちがこちらを見る。

「今はモモちゃんの方が大事!!」

“当たり前”を大事にしたくて。
それがまた崩れそうで。怖くて。感情が乱れた。
涙が溢れてきたけどこぼれないように必死にひっこめた。
本当に泣きたいのはモモちゃんとユキさんだ。
私が泣くのは違う。そう思ったから。

「心配かけてごめんね。ありがとう。大丈夫だよ」

モモちゃんが宥める様な声で囁く。
そして赤子を見るような、穏やかな笑みでこちらを見やった。

ごめんなさい。
モモちゃんの方が不安でたまらないはずなのに。
私が取り乱したら、モモちゃんは「大丈夫」って言うしかないのに。

「……あとで連絡してね。絶対だよ」
「わかった。ちゃんと連絡する。沙也も気をつけて帰るんだよ」

振り絞るように言うと、モモちゃんは小さく笑って、2度ほど私の頭を撫でた。
出口に向かうモモちゃんとユキさんの背中を見えなくなるまでずっと見つめていた。

「きっと大丈夫」そう、強く言い聞かせて。
小さくなっていく背中に念じるように、何度も何度も、「大丈夫」と。



橙色の深い瞳がこちらを捉えている事になんて気づきもせずに、夢中でただ祈っていた。