沙也と初めての出会いに関してはっきりは覚えていない。あやふやで、不確定な、”たぶん”とか、”恐らく”、といった前置きが必要だった。
そのぐらい当たり前に、一織の世界には橘沙也がいた。
三月の事をまるで本当の兄のように慕い、また兄からも愛された。
一織の事を弟みたいだと言い、(一織は今でも納得が出来ない。どう考えても自分の方が兄だと思う)、些細な事で喧嘩をして、かと思えばあっけなく仲直りをする。くだらない事で笑い合い、落ち込んだ時は励ました。
「まるで本当の兄弟みたいね」と、両親たちは言う。
こちらに向ける眼差しは生暖かく、一織はそれが嫌だった。
ずっと3人、仲良くはいられない。
一緒にはいられないのだと、そう、言われた気がして。
一織は抗いたかった。
頭が良く、現実的に考えてしまうからこそ、認めたくなかった。
自分たちは違うのだと証明して見せたかった。
小鳥遊社長からのスカウトは願ってもない話で、兄を念願のアイドルに出来るチャンスを掴んだと思った。
上手くいけば沙也の夢も叶えられる。
3人一緒に、同じ道を歩めるかもしれない。
だからこそ、一織は沙也を一旦突き放した。
一織は沙也のピアノの腕前を誰よりも認めていた。認めていたからこそ、あの場で自分と一緒に小鳥遊事務所へスカウトされてしまうのを避けたかった。(今思えば、小鳥遊社長は沙也をスカウトする気などなかったのだとわかるのだが)
沙也が演奏する最初の曲は兄の――……自分の曲であって欲しかった。
事務所に所属して、どこの馬の骨とも知らないアーティストの曲を演奏させるわけにはいかない。
自分たちが軌道に乗り、土台を整え、十分なお膳立てをしてから彼女を迎えるつもりだった。
それなのに沙也は突然、何食わぬ顔で堂々と舞台の上から顔を出した。
あれだけ「みっちゃんの歌を彩る人になりたい」と言っていたくせに『Re:vale』のメロディを奏でている。
(どうしてあなたは、いつもそうなんですか)
全く思い通りにいかない。
その行動は突拍子もなく、情動的で、こちらを見向きもしない。
気を引こうにも集中力は凄まじく、1度言い出したら聞かない。
イライラする。手のひらで泳がしていると思いきや、全く違う畑で土を耕していたりする。
かと思えば、気づけば隣に座っている。
ふいに現れて、真っ直ぐにこちらを見据えて、美しいメロディを捧げてくれる。
言葉にしなくても彼女の思いが胸の奥に収まる。その音色はいつも暖かく、優しい音をしている。
幼い頃のように三月や一織に甘えてきたかと思えば、体を張って勇敢に守ろうと動く。
もう小さい頃とは違うのに。自分たちよりも体は小さく、力も弱いというのに。
(あなたのそういうところが嫌いです)
『Perfection Gimmick』を歌う沙也を見つめる一織は、泣き出しそうな顔をしていた。けれど口元は弧を描いていて、とても優しい表情が浮かんでいた。
時折、沙也の視線が一織へと向く。
少ししか目を合わせてなどいないのに沙也には何かが伝わったようで、困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
まるで本当の兄弟のように、2人の表情はそっくりだった。
(私はまだ許してないんですよ。こっちに何の相談もなく、Re:valeのキーボードになった事。相変わらずこっちの気持ちなんてお構いなしに好き勝手して。そういうところが、大嫌いだ)
初めて沙也が演奏した、IDOLiSH7の曲。
それが、自分がセンターを務めた曲になるとは思いもしなかった。
いつも沙也は三月の後を追ってばかりで、自分の事は二の次だと思っていたのに。
(嫌いで、嫌いで――……大好きだ)
ほんの少しでも自分の事を気にかけてくれた事が嬉しかった。
ずっとこちらを見てくれるわけではないと分かっている。それでも、1分でも1秒でも長く、自分の事を考えてほしい。
流れ星に願うように、本人には到底言えない、女々しくてカッコ悪い思いを唱えた。
一織はわかっていたからだ。
彼女はそんなに容易く繋ぎとめられるような人ではない事を。
「だからあれだけついてこなくて大丈夫言ったのに……。沙也のそんな顔、見たくなかったなあ」
「こんなヤツでごめんね」と百が自虐染みた笑みを浮かべて言う。
一織の位置からは沙也の表情は見えないが、何かを堪えるようにドレスを両手できつく握りしめながら、何度もかぶりを振ったのが見えた。
収録で歌う事が出来ず楽屋に逃げ込んだ百を、天と沙也、偶然その場に居合わせた一織と陸が追いかけた。
最初はいつもの表面的な笑みを浮かべていた百が、陸の言葉を皮切りに語りだしたのは、昔の『Re:vale』の話だった。
百は”本物の”Re:valeではない――……5周年で期限切れとなるのだという。
後にやってきた千が「そんな事思っていない」と言い、いつものような茶化し合いに発展しても、沙也の背中は固く強張ってみえた。
ドレスを掴んだ手は、いまだに固くきつく握られたままだ。
「っ!!何すんの!!」
一織は咄嗟に沙也の耳を塞いだ。
気の緩んだ陸が九条天と双子である事を仄めかすような発言をしたからだ。
沙也は必死に一織の手首を掴んで引き離そうとする。
女性とは思えない力強さに一織は驚きつつ、「七瀬さん!発言には気を付けて!」と隣の無邪気なセンターを𠮟咤した。
「もう聞こえちゃったよ!言ったりしないから!離してよ!一織!」
手の内で暴れる沙也を無視し、何食わぬ顔で耳を塞ぎ続ける。
「離してあげなよ、一織。沙也ちゃん、嫌がってるよ?」と元凶である本人が言うので、「あなたが口を滑らすからでしょう!」と一織が声を荒げた。
一織は話が終わるまで、手を離さなかった。
こちらを掴む手はわずかに震えていた。決して抗っているからではない。
やり場のない、やるせなさがそうさせているのだと思った。
「ありがとう、一織」
手首を覆っていた熱が冷えていく。こちらを一瞥もせず、沙也がぽつりと言い、羽ばたくように去っていった。
彼女が捉えるのはRe:valeの背中。
翻った黒のドレスからネオンピンクを覗かせて、迷う素振りも見せず、真っ直ぐに百の横へと向かう。
先ほどまで手を震わせていたというのに、不安な色など露程も見せず、微笑みを浮かべて百の顔を覗き込んだ。
その横顔がこちらに向く気配は、微塵も感じられない。
しかし、それがなんだというのだ。
「沙也」
一織は沙也を呼び出した。
かつて冬空の下、一緒にジェラートを食べたあの場所で、あの始まりの日のように、丁寧に書きしたためた1通の封筒を差し出す。
目を丸くして、沙也は一織を見た。
「IDOLiSH7のライブチケットです。新曲を披露するので、よかったら」
小鳥遊社長が名刺を差し出してくれた時と同じように両手を添えて。沙也はゆっくりと確かめるように、それを受け取った。
“橘沙也様”と一織の書いた文字をじっと眺め、再び一織を見据える。まだ理解が追い付かない、と言った具合に。
「ありがとう!でもどうして一織がくれるの?」
「ダメですか?」
「ダメじゃないよ!けど珍しいなって。前にチケットが欲しいって言ったら、公私混同はしませんって、断ったじゃん」
「あの時は塚原さんもいましたから」
「何それ」
撫で上げるような風が首元のマフラーを攫った。
解け揺れ落ちたそれを掬い上げるように、優しく一織は触れた。
「沙也に見て欲しいんです」
壊れ物を扱うような手つきでマフラーを巻く。
瞬きの仕方を忘れてしまったかのように、沙也は一織から目を離す事が出来なかった。
互いの瞳に、互いの姿が浮かんでいる。それが面白かったのか、一織にしては珍しく、あどけない笑顔を浮かべた。
「沙也と同じように届けて見せます。だから、私を見て」
互いの視界に白い息が浮かびあがる。
それがどちらのものなのかもわからないほどの距離で、2人は見つめ合っていた。