恋愛容疑

名前のわからないヤツがいる。

自覚したときはちっぽけなものだった。けれど1度認識した途端、得体のしれないソレは主張するかのように何度も顔を出すようになった。
キンキンに冷えたビールを一気に飲み干す。シャツの胸元をクシャリと掴んでみる。倒れるほどにレッスンに打ち込んでみる。色々な事を試すうちにソレは何事もなかったかのように引っ込んでいくのに、忘れたころにまた依然としてやってくる。

三月は首をひねった。
どうしてだろう。つい先日、ずっと悩み抱えていた感情と向き合い、ようやく気持ちの整理がついたはずなのに。
自分が気づいていないだけで、まだ何かに囚われているのだろうか。

我に返った時には目の前の卵焼きから香ばしい匂いが漂っていた。
慌ててフライパンから皿に移したものの既に遅かったようで、立派な焦げ目がこちらを覗いていて、思わず「あちゃー」と、苦虫を嚙み潰したような独り言がこぼれた。
一番火が通っているところへ箸を入れ、一口サイズに割り、口へと放り投げる。
思わず顔をしかめた。慎重に、恐る恐る、数回だけ咀嚼して、なるべく味わわないように飲み込む。
「苦っがー!」と先ほどよりも声量が増した独り言がキッチンに響き渡った。

「珍しいですね、三月さんが失敗だなんて」

口内に広がった苦みを和らげようとコップ一杯の水道水を一気に流し込んだところに、柔らかな笑みを浮かべた壮五が現れた。一息つき、「おはよう」と三月が言うと、「おはようございます」と会釈を添えた丁寧な挨拶が返ってくる。

「今日はいつもより早起きだな」
「はい。緊張であまり寝付けなくて……。どうしても目が覚めてしまうので、起きてしまおうと思って」
「おいおい、大丈夫か?朝飯出来るまでソファで横になってろよ。起こしてやっからさ」
「お気遣いありがとうございます。すっかり眠気も吹き飛んだので、大丈夫です。お手伝いします」

今日はIDOLiSH7とTRIGGERの合同練習があった。TRIGGERの大ファンである壮五は毎度この調子で、もう数えきれないほど顔を合わせているというのに、緊張が和らぐ様子は一向に見られなかった。

(何かしてた方が、気がまぎれるか)

三月は壮五の厚意に甘える事にした。黙々とメンバーの朝食を作っていると、ふと思い出したように壮五が口を開いた。

「三月さん、以前『Regret Letter』を録画されてるっておっしゃってましたよね?」
「ああ、八乙女のドラマだろ?全部録ってあるよ」
「もしよろしければダビングさせていただけないでしょうか」
「別に構わねえけど、急にどうした?」
「演技の参考にさせて頂きたいなと思いまして。僕も録ってはいたのですが、先日間違って消してしまって……」
「ああ、そっか。今度出るドラマ、恋愛ものだったっけ」

『Regret Letter』はTRIGGERの八乙女楽が主演している恋愛ドラマだ。切なく儚い恋愛模様が大ヒットし、最終回を迎えてしばらくしても熱は収まらず、”リグレタロス”という単語が流行ったほどだった。
特に八乙女楽が演じた主人公はとてもはまり役で、セリフの1つ1つに力強さのような、こちらの胸を打つような重みと迫力があると話題になった。
一視聴者である三月も、同じようにぶん殴られた大多数のうちの1人だ。

「すごかったよなあ、八乙女の演技!特にライバルに詰め寄るシーンが印象的でさあ……」

三月の脳裏に記憶が舞い降りる。
主人公のOLを翻弄するライバルに向かい合う八乙女の姿。
威圧するかと思いきや、ただひたすら真っ直ぐに相手を見据えて、真剣な表情を浮かべて。焦りが少し見え隠れするような、けれど落ち着いた声で。
「おまえの本心が知りたいんだ」と。言葉にせずとも、絶妙な間合いがこちら側に訴えてくる。



「おまえにとって、あの子はどういう存在なんだ?」










(あのセリフには痺れたよなあ。まるでオレが本当に言われてるみたいに感じて……。にしてもやけにリアルだなあ。そうか。オレ、今ドラマの録画を観て……って)

「違えだろ!!!」

目の前の男の突拍子のない言動に三月は混乱した。動揺のあまりセルフ乗り突込みをかました。
目の前の男――……もとい八乙女楽は宛らドラマのようなセリフをかます。手元には食べかけの幕の内弁当。そのアンバランスさがシュールな光景をより際立たせていた。
楽の言葉に「言い方」と、側にいた大和がひきつる様に笑う。「何が違うんだよ」と楽は怪訝そうに言った。



所は変わり、小鳥遊事務所のレッスン場。時はすでにお昼時。TRIGGERとの合同練習は始まっており、今は昼休憩の真っ最中。ユニットごとにまとまって座り、支給された幕の内弁当をつついているところだった。
あまりにもドラマとシンクロしたセリフを言われたものだから、三月は今朝の記憶と混同してしまったらしい。

「沙也はミツキとイオリのオササミです」とナギ。
「幼馴染な!」とすかさず大和が続く。「オササミじゃあささみ肉じゃねえか。せめて人間にしてあげなさいよ」と言うフォローも添えて。

「なるほどな。この間の練習の時、やけに親し気だったのはそういう事か。あの子、モモさんの彼女だろ?」
「……は?」

2,3秒遅れてやっと出てきた声はとても間の抜けた声だった。
口元に運ぼうとしたはずのシイタケがぽろりと弁当箱の中へと落ちた事にも気づかないまま、目も口も真ん丸く開けて固まった。
そんな三月に向けて楽は「知らないのか?結構有名だぜ」と続ける。

「それは周りが冗談で言ってるだけでしょう」

会話が聞こえてきたのか、どこからともなく現れた天が口を挟んだ。
「そうか?たまにテレビ局で一緒になるけど、結構仲良いぜ?」との返しに、天がジトっと睨んできたので、「なんだよ」と楽が不満げな声を漏らした。

「彼女なりにモモさんを励ましてるんだと思うけど」

視線も、言葉も、楽に向けられている。
けれど三月には自分へと投げかけられているように感じた。そう思えてならなかった。
一見きつそうに思える口調だが、言葉の終わりに優しさのような温かさが見え隠れしているように三月には感じられた。

ふと、安堵にも似たような、胸を撫でおろすような感覚が降りる。
窮屈そうにたまっていた息が、漏れ出す様にしてこぼれ出した。



一呼吸おいて天はこちらを見やったが、それ以上は何も言わずにただ去っていった。










「最近はいつもに増して元気だね、沙也」

いつものようにRe:valeのテレビ収録に同行した私は、楽屋にいた。
メイクと着替えも粗方終え、他愛もない話をして出番までの時間をつぶしている所だった。

モモちゃんがペットボトルを差し出して言った。モモちゃんが大好きな桃とリンゴのスパークリング。ペットボトルの中で小さな気泡がユラユラと水面を目指して登り揺れている。

「うん!だってすごかったんだもん!」

受け取ると反動で気泡が小さく音を立て、先ほどより激しく立ち上った。
まるで私の温度感を表してるみたいだ。
キャップを開けると、待っていたと言わんばかりに空気が勢いよく切れのある音を立てて漏れ出した。





ここ数日、世間はいつも以上に騒がしかった。
小鳥遊事務所で「裏切り者のハルキ」と書かれた落書きが発見され、桜春樹の作った曲を歌う”IDOLiSH7”に非難の声が集まった。
開かれた記者会見でナギさんがスマートに事情を説明したものの、マスコミは火を消してたまるか、と言わんばかりに囃し立てる。
そんな周りを一喝したのが”TRIGGER”だった。

「あんなの見せられたら落ち着いてられないよ!」
「君、いつからTRIGGERファンになっちゃったの」

呆れたような口調でユキさんが割って入る。こちらを向いた反動で座っていたソファが軽く鳴いた。肩をすくめて「ポチは浮気者だなあ」とため息交じりに言う。わざとらしい物言いに思わずムッとして、ユキさんの前に回り込んだ。

「悲しいね。これだけ可愛がってやってるって言うのに、いざとなるとイケメンのところに行っちゃうんだから」
「違う!行かないよ!確かに感動はしたけど、私が言いたいのはそうじゃなくて……!!」
「そうじゃなくて?」
「その……私も負けないように……音楽で、Re:valeを……その……」

恥ずかしさが増して口どもっていると、目の前の男は顔を真っ赤にして白目をむいて笑いをこらえていた。
ユキさんはわかってやっている。私がこれから青臭い、恥ずかしいセリフを言おうとしている事を。そしてそんな様子を面白がっているのだ。

「ユキさんってどうしてそんなに意地悪なの!!!」

「バカ!」「鬼!」「ロン毛!」「低血圧!」
思いつく悪口はどれも子供じみていて(そもそも悪口になっていない)、稚拙な単語はユキさんの笑いをさらに誘った。
モモちゃんが「沙也、ダーリンのこと悪く言わないで!」と、悪ノリしで擁護してくる。いつもの切れはなくても2人は息がぴったりで、そこがまたムカついた。

「悪かった。ほらおいで、仲直りしよう。ポチの好きなケーキがあるよ」
「お、沙也の好きなフルーツタルトじゃん!やったね!」

流れされるまま、促されるままに2人の間に座らされた。
まだ感情が押さえ切れておらず、どれだけ好物なケーキが出てきても食べる気にはなれなかった。
いや、半ば意地だ。絶対に食べてやるもんか。
私は頑なに口を閉じ続けた。

「モモちゃん、いっぱい食べる沙也が好きだな〜!お願い!一口でいいから!」

グイっと、小さな子供にするみたいにスプーンが突き出される。
ニコニコと笑いながらも、「ほら、あーん」とケーキを運んでくるモモちゃんは、お茶らけているかと思いきや割かしまじめな眼差しでこちらを見ていた。
モモちゃんは多分わかってる。この表情に私が弱い事を。

根負けした私は、仕方なく口を開け、目の前のケーキを向かい入れた。
ぱくりとスプーンをくわえ、「うん。いい子いい子」と子供にするように私を褒めたところだった。



「あら、いらっしゃい」

ユキさんが近所の人に挨拶するみたいに言った。
いつのまにか楽屋の扉が開いていて、複数人の人影がこちらを覗いていた。
ドアノブを握ったまま固まった人が、眼鏡のレンズ越しに私とモモちゃんを見ている。
反射的に扉を閉じようとしたが、後ろに続く人だまりがそれをさせなかった。

「どうしたの?みんな揃って。こっちは見ての通り、お取込み中さ」

笑えないユキさんのジョークが浮かんでいた。
悪目立ちしたそれは、辺りを一斉に黙らせる。あの日のTRIGGERのように、静寂がこちらへと注意を全集中させている。

「違う!違うからね!全然そんなんじゃないから!!」

スプーンから手を離し、無罪を証明するように両手を上げるモモちゃん。
必死に弁明しながら、来客を向かい入れる。
浮かべる笑顔は焦りを隠せていなくて、「はあ、どうも」と大和さんが視線を逸らしながら受け流していた。

私はというと、突然の出来事を飲み込めず、スプーンを咥えたまま固まっていた。
同じようにフリーズした幼馴染たちと、ばっちりと視線を合わせたまま。

「もしかして僕、変なこと言った?」

傍らでユキさんが不思議そうにそう呟いていたのが聞こえた。