移ろう色

怪我の原因は岡崎さんが心配していたゼロの過激派――……なんてものではない。ただの偶然。日常でも起こりえるアクシデントだった。

こけら落としの千秋楽。迫りくるライブの開始時間に向けて大勢のスタッフが動き、会場全体は緊張感で満たされていた。入念に企てられたスケジュールも想定通りに進むわけはなく、慌ただしく駆け回るスタッフを何人も目にした。
バンドメンバーからも釘を刺されていた事もあり、邪魔にならないように大人しくしていた。移動は必要最小限に済まして、なるべく控室に籠る様にした。

だから一番近いお手洗いが清掃中で使用出来ないと分かった時、私は焦った。
次に近いお手洗いは地下にあった。そこまで行くには人通りが激しい通路を通らなければならなかった。ここからでも駆け回る足音と、スタッフたちの急く声が響いてきている。
絶対に邪魔にならないようにしなきゃ。なるべく端を通って、かつ迅速に通り過ぎる。私ならできる。だって体育は小学校からずっとオール5だもの!

謎に己を奮起して問題の通路へと向かった。人が少なくなったタイミングを見計らい、地下階段へと続く曲がり角へと走り出した。

(やった!)

幸い誰の動きを遮る事なくやり過ごせた。あっという間に目的地のお手洗いに辿り着き用を済ませると、一仕事を終えたかのような達成感が溢れ、思わず小さくガッツポーズをした。
しかしこれで終わりではない。再び同じようにあの通路を通り過ぎ、控室へと戻らなければならない。意を決して、再び1Fへと向かおうと大きく一歩を踏み出した時だった。



「…………!?」

階段の1段目に足をかけた途端、視界が暗くなった。気が動転して無我夢中で迫りくる何かを必死で受け止めた。押し寄せる重みに耐えきれず床に座り込んだ反動で、それが人だと気が付いた。
私の腕の中には、青白い顔をして意識を失う女性がいる。

「今の音、何!?何かあったの!?」

派手な音に気が付いたスタッフがこちらに駆け寄る。私が受け止めた女性も会場スタッフで、どうやら貧血を起こして階段を踏み外したらしかった。
騒ぎを聞きつけた人たちが一気に集まり、倒れた女性を医務室へと運んでくれた。

「あなたは大丈夫?ケガしてない?」
「はい。大丈夫です!ちょっとびっくりしただけで」
「よかった。迷惑かけてごめんなさいね。じゃあ!」

迅速かつ的確な対応だった。まるで嵐が過ぎ去ったかのようにあっという間に人が捌け、1人残された私はその対応力の高さにあっけに取られていた。
さすがは天下のRe:vale。優秀なスタッフがたくさんついているんだなあと、まるで他人事のような感想が浮かんだ。数秒佇み、はっと我に返った。

(早く控室に戻らないと!そろそろリハーサルが始まる!)

手すりを掴んで15段の階段を駆け上がる。
一歩進む度、何か得体のしれないものが立ち昇ってくるような感覚があった。
徐々に強くなる違和感。気のせいだと思う事にした。だって今、この状況でこんな事、ありえないもの。私の思い過ごしだ。自分で言ったじゃない。ちょっとびっくりしただけだって。

「……ッ!!」

やっと1Fに差し掛かった時、それは途端に牙をむいた。

全神経が右足首に集中している。
ドクン、ドクン、と脈に合わせて強さを増すそれの正体は、痛みだ。
さっきまでなんてことなかったはずなのに、一度認識した途端、これ見よがしに存在を主張する。
幸い地下階段の通路は人目に付きにくく、私は息を潜めるようにしてその場に蹲った。
少しじっとすれば痛みが和らぐと思った。――……否、何が何でも抑え込もうと思った。

だって誓ったもの。絶対に何があっても、Re:valeのステージを最高のものにする、って。
お願い。絶対に治まるから。何事もなかったようにみんなの前に戻るから。誰も気づかないで。こっちに来ないで。

そんな私の儚い願いはあっけなく打ち砕かれる。
気が付いたときにはもう遅く、深い瞳が2つ、こちらを静かに見下ろしていた。










「はい、もういいよ。どう?」
「……すごいです!!全然痛くない!!」
「大袈裟。まあ、さっきよりはマシだと思うけど」

使われていない控室に入り椅子に腰かけると、九条さんはスポーツトレーナー顔負けのテーピングを私に施してくれた。
手際は良いけれど動きに品があるからか、テーピングテープがまるでリボンのように見えた。丁寧なラッピングは仕上がりの綺麗だけでなく、迫りくる痛みを最小限に抑える機能性の高さも備わっている。

「あとはこの痛み止めを飲んで。あと、あくまでもこれは応急処置。タイミングを見計らって、足首を出来るだけ冷やすこと。痛みが減ったからって調子に乗らない。ボクが言ったことは必ず守る事。いい?」

カメラの回っていない仕事モードの九条さんには迫力がある。「返事は?」という声に気圧され、「はっい!」と飛び出た返事が裏返ってしまった。

「いい子だね」

私の変な声に小さく肩を揺らしながら笑う九条さんの表情は打って変わって柔らかく、そのギャップに思わず見とれてしまった。
「天様は天使だから!国宝だから!!」という自慢げな芽衣の声が脳内でリピート再生される。国宝と言いたくなる気持ち、わからなくもない。
服装が幸いし、履いていたレギンスがテーピングをすっぽりと覆った。傍から見ても足首にテーピングがされているとはわからない。あとは歩き方さえ気を付ければどうにか乗り切れそうだ。

「本当にありがとうございます。これで、2人の背中を全力で押す事が出来ます」
「どういたしまして。通りかかったのがボクでよかったよ。和泉兄弟やRe:valeだったらこうはいかなかっただろうから」
「あはは。確かにそうかも」

ドアの隙間から通路の様子を伺う。人がいない事を確認して、恐る恐る外へ出た。
少しだけ安心したのか、思わず小さいため息が零れた。九条さんは軽く微笑んで、「今日はよろしくお願いします」と続けた。

「こちらこそよろしくお願いします!!絶対、成功させます!!」

深々と頭を下げる。「じゃあボクはこれで」と柔らかい声が降り、九条さんは踵を返した。遠くなっていく背中をじっと見つめる。

テーピングに、痛み止め。
あたかも私が怪我をすることを予期していたかのような準備の良さに驚いた。
……私のため?
自意識過剰。ばかみたい。
私のためなんかじゃない。

手慣れてしまうぐらいやってきたんだ。予期せぬトラブルに対応してきたんだ。
けれどなんてことない顔でそれを乗り越えてきたんだ。

九条さんだけじゃない。
みっちゃんも、一織も、モモちゃんも……私が知らないだけで、皆たくさん辛い思いをしていても、必死にみんなの前に立ってるんだ。
『アイドル』という偶像を、一生懸命にやってるんだ。



「……カッコいいな」











本当、よくわかんねえ。
自分でもコントロールが効かない。理由がわからない。
あの突然湧き出るモヤが暴走し、衝動的に体を動かしてくる。

本当、なんなんだよ、これは。



「……みっちゃん!?」

沙也は目を真ん丸く大きく見開いていた。三月が勢いよく手を掴んだので、バランスを崩す様に体がよろけている。乱れた髪をかきあげ現れた顔には、クエスチョンマークがびっしりと書かれているように見えた。

三月は我に返った。眉間に皺を寄せて、口をへの字に曲げていた余裕のない表情は、一変して動揺の色を見せる。

「わ、悪い……」

バツが悪そうにつぶやき、拘束を解いた。乱暴に頭を掻いたので、三月の髪の毛がくしゃくしゃになる。本人はそんな事気にせず……否、それどころではないように見える。心ここに在らず。まさしくそんな感じだ。
沙也はそんな三月を不思議そうに見つめていた。

「みっちゃんとこうして話せるの、久しぶりだね」
「あ?……ああ、そうだな」

思い返してみると沙也に言われた通りだった。ここ最近自分の気持ちに余裕がなかった事もあり沙也といつも通りに接する事が出来なかったし、そもそもこうして話せる機会もなかった。
久しぶりに見る沙也が少しだけ大人びて見えた気がして、三月は再び視線を逸らした。

「……おまっ、何して!?」
「だってボサボサなんだもん」

頭部に自分のものではない温度を感じた。思考がやっと追いつき、それが沙也の手である事を認識した途端、三月は慌てふためいて手を払った。
良かれと思ってしたのに拒絶されたものだから、沙也は拗ねたように口を窄めながらも「ごめんなさい」と謝った。

2人の間になんとも言えない沈黙が降りる。

「みっちゃん、どうしてここに来たの?私に用があった?」

沈黙を破ったのは沙也だった。その言い方は決して棘はなく、純粋に三月が現れたことに疑問を持っていたようだった。

「……何でもねえよ」

三月は素っ気なく言った。視線を合わせる事なく横を通り過ぎ、リハーサル会場へと向かって進み出す。
距離を取るように、この場から一刻も早く立ち去れるようにーー……足早に去っていく三月の背中を沙也はじっと見つめて呟く。

「みっちゃんじゃないみたい」

とても悲しそうな声で。




一方、三月は再び混乱していた。
会場とは逆方向の、人気のない通路へと一目散にかけて行く。突き当たりに差し掛かり壁にもたれた。
軽く上がった息を整えながら、「あー……」とゾンビみたいな声を出して崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

やっぱり変だ。なんだよ、コレ。
どうやったらなくなるんだよ。





(どうしてここに来たの?)

「……知るかよ。言えるかよ。こんなよくわかんねえ、カッコ悪い事」

自分の行動の原因はわからなくても、トリガーだけは自覚していた。
三月はため息をつき、消えいりそうな声でつぶやく。

「九条のこと、カッコいいって言ってるのが聞こえたから……なんてさ」

モヤは消えることなく、三月の中でモクモクと煙のように広がっていた。